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1 エスペラントシステム
hotpot
新人

J/B 2007-3-10 20:28:21  SITE  [返信] [編集]

お久しぶりです。J/Bです。
星博士の日々の努力にもかかわらず、どうやら、ナマステ=チベット語という誤解は広く共有されているようですね!
それはそれとして、とあるサイトの掲示板に書き込んだ文章の前半部分なのですが、

{   試論1 国際語をめぐって

ネットでイタリア語を検索したところ、荒木さんという方が管理人をなさっている『イタリア語入門の部屋』というサイトを見つけました。
その前書き?にこうあります。
『イタリア語は英語、フランス語、スペイン語などの国際語と違ってほとんどイタリア国内でしか通じません。』
いささか残念なことではありますが、それはそれとして。

   1
東アジアの国のある年齢の人が、日本語を理解するという事実は、かつて日本語が少なからず国際語として存在していたことを示しているでしょう。
そしてそれがおおむね『侵略』といったマイナスのしるしとつながっている以上、『英語、フランス語、スペイン語などの国際語』から同じしるしを見つけることは難しくないはずです。

昔とある運送会社でアルバイトをしていたとき、バックパッカーとしてアジアを旅してきたばかりの青年と知り合いました。
彼は、こんなことを話しました。

[彼がインドにいたとき、英語を流暢に操るインド人から、インドにおいて、英語力がそのまま、人の出自、階級、階層を示すことを暗示されました。
彼は旅行を通して、国際語としての英語に触れることになったのです。
彼はそれ(英語力によって、人の出自、階級、階層が決定される)がいささか悔しかったらしく、安価に英語を学ぶ環境としてオーストラリア!!!留学を考え、アルバイトをして資金をためていたわけです。]

いまやIT分野で世界進出を続けるインドにとって、「英語力」はひとつの強力な武器でもあるわけですが、非暴力不服従のガンジーを思い浮かべれば、そこにはマイナスのしるしも刻印されているわけです。

   2
教育環境がある程度整備された地域において、英語が最初の外国語として教えられることが多いということから考えても、国際語としての英語の有用性は疑いえません。
私がいつかアジアを旅することがあれば、すでに錆び付いた、貧弱な私のカタコトの英語が少なからず役に立つことは間違いないだろう。
国際語としてのカタコト英語。

良く似たモチーフを持つのが『人工言語エスペラント』でしょう。
ウィキペディアによれば、エスペラントは『国際補助語』として構想されたもののようです。
児童文学の世界では、かの宮沢賢治が強い関心を示したことで知られています。

ヤフーなどで、試みられているネット翻訳の現状は日ー英なり伊ー日なりの「1対1」対応(平行対応)のものですが、効率と有効性そして公平さを考えるのなら、間にエスペラントをおいた(英ーエス、エスー日)翻訳システム(垂直対応)に分があることは疑い得ないものに思えます。
ウインドウズなどのOSが、個々のソフトの大きな船として(垂直対応)存在しているとみなしうるなら、エスペラントシステムはコンピューターとの相性の良い、十分現実的なシステムだと思われます。
それぞれの言語の言語研究者がさしあたり自国語とエスペラントの翻訳エンジンを作リ、磨き上げていく。そしてそれを持ち寄る?。
世界の言語の数が100だとして、水平的な翻訳エンジンですべてを処理しようとすれば、
100個の中から二個を取る組み合わせとして、たくさんのエンジンが必要ですが(ケ、計算できず、4950?)(私の数学が英語以上に錆び付いていたことを発見しました)、エスペラントシステムなら100で済むはずでしょう。
少数者によって使用されている言語がその少数者によって、水平対応で全言語に対応させようとするのは、困難ですが、エスペラントシステムはその困難を回避できます。

おおむねエスペラントを国際語に、と言うのは、論理的に正しい帰結だと思われますが、}

ということで、こういうプロジェクトが現実に行なわれているのかどうか知りたいのですが。
2 Re: エスペラントシステム
hotpot
新人

名無しさん 2007-3-24 14:54:15  [返信] [編集]

書き込みの後半部分。

………………

ネット翻訳の現状を見る限り、現実には世界はそのように進んでいません。
エスペラントシステムには、それを支えるベーシックなモチベーションが存在しない、と判断するしかなさそうです。
おおむね人の国際語をめぐる原初的な欲望は、『自国語、母国語、国語(私的なものを)を、そのまま!!!、国際語(公的なものに)に』というものなのでしょう。つまり『いいとこ取り』ではないでしょうか。(そうならないくらいなら、国際語なんていらねえや!)
それは靖国神社の欲望と同型です。
エスペラント語をほったらかしにしている人類に、靖国神社を批判しうるかは疑問です。

   4 (宗教論争)
日本で普通に暮らしている日本人が、キリスト教に誘われることはあっても、ユダヤ教に誘われることは、まずありません。
ユダヤ教はシンプルな民族宗教であり(晴海さんの靖国をめぐる議論の言葉で言えば民間!!の1宗教法人)、民族宗教として、おおむね自足しているので、そもそも異邦人に布教しようという気があまりないというわけでしょう。
もともと多くの宗教あるいは信仰の体系は基本的にはユダヤ教と同じ民族宗教であったと考えるのが妥当でしょう。(もちろんユダヤ教にはユダヤ教としての特異さはあるとしても)
民族宗教は、集団内の人々の日々の暮らしを穏やかに支える事に役立つ無理のない良いシステムであり、他集団の信仰に対する無関心さは、むしろ他集団の信仰の自由を認める寛容さとして、プラスの側面をも持つものでしょう。
それはサッカー選手がサッカーグランドでサッカーのルールでサッカーをし、野球選手が野球のグラウンドで野球のルールで野球をしているうちはなんら問題が起こらないということと同じでしょう。
やっかいなのは、大雨でグラウンドが半分水浸しになったり、選手の数がそれぞれ増えたりして、『陣取り合戦』が始まった場合です。(もちろん、一つの町に複数の宗教が穏やかに住み分けるということも、歴史上多々あったことですが)

一つの解決策として誕生したのが世界宗教ということになるでしょう。
柄谷行人は『倫理21』で、釈迦やイエスの姿をそのように描いてみせています。

私なりに聖書の一節から。
ヨハネによる福音書。第八章。要約
『律法学者やパリサイ人が、姦淫しているところを捕まえられた女を、イエスのところに連れてくる。
彼らは言う。
「モーセは律法の中でこういう女は石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」
イエスは答える。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』
彼らは年寄りから始めて、一人一人出ていき、最後にイエスだけが残った。
イエスは言う。
「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はいなかったのか」
女は言った。
「主よ、だれもございません」
イエスは言われた。
「私もあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」』
〔日本語訳にはいくらかバリエーションがあって、『お帰りなさい』が『行きなさい』になっているものもあります。私に翻訳を吟味する能力はないので、お帰りなさいの方(三浦綾子さんが引用している方で話を進めます)〕

律法学者やパリサイ人の立場は(モーセの律法を含めて)、民族宗教の基本的な立ち位置を示します。
おおむね民族宗教において、宗教はそのまま社会規範と直結するのは当然なことなのでしょう。イスラムの国家においては今でもそういう国があります。民族宗教はその集団内において、いわばそれぞれに『そんじょそこらの宗教』ではないということでしょう。
民族宗教はその集団内の道徳、モラル、日常生活を維持する装置としてあるのでしょう。
イエスの言葉を聞いて『彼らは年寄りから始めて、一人一人出ていく』ところは、三浦さんが指摘していることですが、律法学者やパリサイ人のモラルの高さを示しているといえるかもしれません。

しかしそのことはそれほど驚くべきことではないでしょう。どの民族宗教の集団内においても、立派な人もいれば、立派でない人もいる。
おおむね民族宗教が、道徳と直結し、『因果応報』を説くのは立派でない人を立派にするため、集団内の秩序を安定させるためには欠かせないことなのでしょう。
それは人の行為にモチベーションを与えるために(あるいはモチベーションと直結させるために)欠かせないことといってもいい。

『私もあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』というイエスの言葉は、民族宗教から世界宗教への転回を鮮やかに示しているように思います。
『私もあなたを罰しない』という言葉は、『今後はもう罪を犯さないように』人が行為しようとする時の、モチベーションをあらかじめ、奪っていることになるだろうから。
モチベーション(自然性)を括弧に入れて、行為せよ、とイエスは命じていることになるでしょう
(民族宗教の側から見れば、ここはやはり罰してくれないと困るのでしょう。ユダヤ教がイエスを救世主としない原因の一つかもしれません)

間に入った『お帰りなさい』は優しくそして厳しい。
人はそれぞれの宗教(民族宗教、私的宗教)へ帰っていくことができるし、それは命じられてもいる。
(律法学者たちがイエスを「あなた」と呼び、女が「主」と呼んでいることも重要でしょう。イエスとは何者なのか?はキリスト教の教義のいわばセントラルドグマ(新世紀エヴァンゲリオンより引用)なのですが、「あなた」、「主」をこのまま受け止めるのが良いような気がします。「主」を辞書で引けば『イエス、神』となるのですが、女が呼びかける限りにおいて、「あなた」との対比において、ここでは「神」を取りたい)

   5
真の世界宗教は精巧に作られたポルシェみたいなものかもしれません。しかし、この車には意思によってガソリンタンクは取り付けられていない。
(『ポリッセーナの冒険』で苦行する人が出てきましたが、世界宗教には支えも寄りかかるところもない場所に一瞬だけ立つような趣きがあります)

イエスをポイントとするキリスト教(この際ブッシュ大統領が口にする「民主主義」をそこに含めてもいい)にはいまや巨大なタンクが取り付けられ、ガソリンがなみなみと注がれている。そうでなければ、南の島のジャングルの奥深くまで、布教に出かけることはないはずだから。
キリスト教(アメリカ型民主主義)は、私的な性格と公的な性格をあわせもつ、思うままに振る舞うことができるようになった靖国神社といってもいい。
それに対抗する道は、厳密な世界宗教のポジションを取るか(公的な性格)、いっそイスラム教徒(こちらもガソリンはたっぷりあるみたい)になるか(私的な性格)のどちらかかもしれません。
どちらがよいのか、正直私には解りません。
むしろ、柄谷は括弧入れということを語ります。世界は領域として分割されるのではなく、括弧入れにおいてそれぞれに現れるということでしょうか。そして人はそのように行為しうるということでしょうか。

おおむね、民族宗教は道徳的であり、世俗的なもの、自然的なものです。それに対して世界宗教は柄谷の言葉では倫理的(エティカBYスピノザ)であり、それはいささかくせのある論理を必要とするものです。しかし柄谷はそこに『自由』を見いだそうとします。
大江健三郎さんはネットで書き込みをする若者!に(私はもうそういう年でもありませんが)こんなアドバイスを送っています。
『自分の言葉をエラボレートする様に』
エラボレートは念入りに仕上げるといった幅広い意味を持つ、大江さんが最近関心を寄せている言葉です。
いわば思うままに書くことは、民族宗教の系列にある行為として、それをエラボレートすることは世界宗教の系列(自由の領域)にある行為、と関連付けられるかもしれません。
柄谷さんも大江さんもスピノザをよく読んでいる方たちですから、繋ぎうるモティーフがそこにあるように思います。

………………

PS

エスペラントシステムは現在広く世界で進行中のプロジェクトですと言って欲しい、が私の希望です。

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