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〜 チベット文字事始め 〜

チベット文字がつくられたころの話に興味があって立ち上げました。自分の理解のためのメモ(+妄想展開の場)です。どんどん書き足していっているので,読みにくいと思いますが徐々に形を整えていくつもりですので,どうかご容赦くださいませ。(迷走中...hoshi

★そういえば,ポン教で伝えられている文字の歴史についてはまったく触れていませんでした!
☆現在,山口瑞鳳先生の論文「『三十頌』『性入法』の成立時期をめぐって」を読んで勉強中! -hoshi 2006-12-18 (月) 12:00:17

もくじ

動機はこんな感じです  

チベット文字の創制に関わった人物,それがトゥンミ・サンボータ*1なのだかどうなのだか知らないけれど,その七世紀前半に頑張ってたとおぼしき御仁は,いったいインドのどこに勉強に行ったのか,仏教の勉強はどれくらいしたのかなとか,インドの文字をチベット語に当てはめて使えるようにするにはだいぶ苦労しただろうなとか,そういういろいろ頭をよぎる疑問が少しでも解ければいいなあと考えてます。

ゲンドゥンチュンペーの文字論に刺激されたところもありますし,七世紀のインドにおける仏教徒の暮らしが生き生きと描かれた本*2を読み始めて俄然,当時のチベット人がインドで何を見て来たのかってことが気になってきたというあたりが,このページを作ろうと思った動機です。

みなさんの教えを請いながら,少しずつ調べていきたいと思いますのでよろしくお願いします。間違いとか御意見などありましたら談話室*への投稿ぜひお願いします。

文字の創制に関わった人のこと  

チベット文字を作ったのはソンツェンガンポ王の時代の七世紀の人,トゥンミ・サンボータだと言いますが...

『言語学大辞典文字編』の「チベット文字」の項*3にこんなふうに書いてありました。

では,文字を創制したといわれるトンミ・サンボータとは一体何者であったのか。この人物の同定が文献上確実にできれば,伝承といくつかの史実の突き合わせによって,チベット文字の成立は確定できる。しかし,伝承の伝えるソンツェン・ガンポの大臣としてのトンミ・サンボータは今のところ確認できない。敦煌出土文献には,詳細な大臣・役職者のリストがいくつかあるが,どのリストにもトンミ・サンボータという名は見あたらない。この名が現れる比較的信頼性の高い史書は『プトンの仏教史』および『フゥラン・テプテル』で,ともに元の時代に編纂されている。しかも,両史書ともに「訳経者トンミ・サンボータ」と記しており,文字の創制者として言及しているのではない。(p.595)

そしてこの後,『プトゥン*4の仏教史』の文字の成立に関する記述を翻訳・引用しています。

「(外国からの文書以外は)チベットには文字がなかったので,トンミ・アヌイブ(Thon mi Anu'i bu)を供16人とともに字の研修に派遣した。パンディタ・ヘーリク・センゲ(lHa'i rigs seng ge)の下で文法を学び,チベット語に合うように,子音字30,母音記号4にまとめて,形はカシュミールの文字をまねて,ラサの城マルで修正ののち,文字と文法の八論を作り,王は4年こもってそれを学んだ」(p.595)

さらに続けて,「トンミ・アヌイブなる人物が文字の創制に関わっていたことが明記され,トンミ・サンボータは訳経僧として別に名があがっているから,両名は別人と考えるべきであろう」と述べています。そして「トンミ・サンボータは9世紀の人物であって,文字の創制とは無関係と結論づけている研究もある」という情報も付け加えています。

これを読んで,ふーむ,そうか,でもなんか気になるなあ,本当にそう言えるのかなあ,そうだ,プトゥン仏教史と言えば大谷大学で公開している電子テキストがあったなあ,確かめてみようと思いました。するとちょっと面白いことが...

チベット人の仏教史書類やその他の著書の中のトゥンミ・サンボータ  

まずは,年代順に14世紀以降の記述を挙げていきたいと思います。史実として見るという見方もいいけれど,お話が作られていく過程という見方も面白いかも,と思ってます。

ちなみに,もっと古い時代の記述については,山口瑞鳳著『吐蕃王国成立史研究』p.458によれば,

サキャパのソーナム・ツェモ bSod nams rtse mo (1142-1182) もsgyur byed dam pa SambhoTa「立派な翻訳者サムボタ」の形でチベット文字の創制者を紹介している。

サキャパのソナム・ツェモという人についてはtbrc dataを参照。12世紀だから,プトゥンよりずっと前ですね。ここではトゥンミという名前も出てこないのですねぇ。山口先生の本の一部しか読まないで言うのも何ですが,トゥンミ・サンポータに関する記述はこのソナム・ツェモが最初ということになるのでしょうか?

なお,山口先生によれば,敦煌文献にはトゥンミ・サンボータなる名前はまったく出てこないそうです。

それと,史料として扱うときの注意点として指摘されていることとして,大原良通著『王権の確立と授受』によると,

仏教史類(チョエジュン・chos 'byung/)では,1346年に著され,それらのなかでもっとも古いものとされている『フゥランテプテル(hu lan deb ther/)でさえ,『新唐書』などの漢文史料を参考にしている。しかも,これら仏教史類といわれるものを史料として扱う場合,特に古代史部分の記述に関しては,それぞれの宗派が自己の正統性を誇示する必要から,ある程度の改竄がなされていることに留意しなければならない(p.160)

おっしゃる通りですねえ。それにしても『新唐書』は14世紀のチベットでも読まれていたのか〜。(ここで夏休みのレポートらしく追記:『旧唐書』200巻の成立は945年,『新唐書』225巻は1060年成立,だそうです。)知らないことが山ほどあるなあ。

で,文字の創制(この言葉,便利だなあ)に特化して言うと,「自己の宗派の正統性を誇示」するために「改竄」するとしたらどのあたりに関わってくるのだろう???

前置きが長くなってしまいましたが,各著作の記述をざっと見ていこうと思います。(まだ「ざっと」でしかないんだけど)

文献の基本情報  

以下で取り上げる文献の情報です。

文献名時代著者名生没年所属寺,出自など
バシェー10世紀?バ・セーナン
柱間史11世紀?
マニカンブム12世紀?
仏教史12世紀?ニャン・ニメーウーセルニンマ派
プトゥン仏教史14世紀プトゥン・リンチェンドゥプ1290-1364シャル寺
フゥラン・テプテル(紅史,赤冊史)14世紀ツェーパ・クンガドルジェ1309-1364カギュー派
王統明示鏡14世紀ラマタンパ・ソナムギェンツェン1312-1375サキャ派
カタンデガ14世紀オギェンリンパ1323-?ニンマ派
青史(青冊史)15世紀グー・ロツァワ・シュンヌペー1392-1481ロカ・チョンゲー出身
rgya bod yig tshang15世紀タクツァン・ペンジョルサンボ
リシクルカン15世紀キョクトゥン・ムンドゥプ・ロツァワ不明カギュー派
新紅史(新赤冊史)15-16世紀ソナムタクパ1478-1554ロカ・ツェタン出身
賢者の宴16世紀パオ・ツクラクテンワ1504-1564/1566チュシュー・ニェタン出身
ダライラマ五世著作17世紀ガワンロサンギャツォ1617-1682ゲルー派
ドンカルワ著作18世紀ドンカルワ・ツェリンワンゲー1697-1763
白史(白冊史)20世紀ゲンドゥンチュンペー1903-1951アムド・レプコン出身

※まだ他にもありそう。バシェーも参照しないといけないし,12世紀の著と言われているニャン・ニマウーセーの著作や15世紀の百科事典,bshad mdzod yid bzhin nor buなどにも記載があるのではないかという気がします。また,ツェテンシャプトゥンによれば,sde srid sangs rgyas rgya mtshoによるbai dkar g-ya' sel(たぶんdkar poとg-ya' selの意味)にも,yig mkhan li byinという記述があるそうです。dkar po: tbrc data, g-ya' sel:tbrc data。15世紀の歴史書として,rgya bod yig tshangというのがありますが,これはSmithによれば史書としては古い方のもので,参照すべき文献だそうです。

プトゥン仏教史  

(この後に挙げるフゥランテプテルのほうが成立年代は古いという説もある。プトゥン仏教史の成立は1364年説と1322年説があるらしい。前者はTBRCのデータ,後者は『チベットを知るための50章』。)

まずはプトゥン仏教史というのは,14世紀の人,プトゥン・リンチェンドゥプ(1290-1364)*5という学者によって書かれた "bde gshegs bstan pa'i gsal byed chos kyi 'byung gnas" という著作のことです。比較的信頼性の高い史書,とされています(1364年の著作とされている)。デルゲ版,ラサ版,タシルンポ版,シャル版などの木版本,他にもウメー体の写本などがあるようです。1988年には北京から活字本も出版されています。『言語学大辞典』で参照されていたのはデルゲ版,大谷大学が所蔵しているのはタシルンポ版だそうです。(プトゥンはシャル寺の人)

さて,大谷大学の電子テキスト*6でthon miを検索すると,計4回現れることが分かりました。

出現箇所出現形式文脈
f.138athon mi a nu'i buインドに文字の勉強に行って,カシュミールの文字にならってチベット文字を作り,文字と文法の八論を著した
f.139alo tstsha ba thon mi saM bho Taインド,ネパール,中国の導師らとともに仏教の経典を翻訳した
f.157bthon mi saM bho Ta初期の翻訳者の一人
f.238bthon mi saM bho Ta文字と文法の八論を作った人

あれ,最初に出てきたa nu'i buも八論を著し,最後のsaM bho Taなる人も八論を著したと書かれている。ということは,プトゥン仏教史の中ではthon mi a nu'i bu=thon mi saM bho Taなのでは?少なくともタシルンポ版においては,同じ人物を指していると読めるように思えます。

さらに,f.138aの記述をよく読んでみると,『言語学大辞典』で引用している箇所は「...王は4年こもってそれを学んだ」で終わってしまっていますが,実はこのすぐ後に,「mdo za ma tog bkod paやpang gong,mdo sde dkon mchog sprinなどを翻訳した」と続きます。「翻訳した」という動詞の動作主は誰でしょうか?プトゥンの書いていることに沿って素直に上から読んでいくと,「翻訳した」人の中にa nu'i buも入るのではないでしょうか。上に書いた通り,両者ともにこの仏教史の中では,文字と文法の八論を著した人として記されているということが確認できたわけですから,プトゥンは少なくとも両者を同じ人物と考えていたと言えるのではないでしょうか。

もしくは,プトゥンがいきなり時空を飛び越えたか?

また,ff.138-139には,文字制定からその後の出来事がこのように挙げられています。(人名とか仏像の名前とかちゃんと確かめてません)

  1. 王はthon mi a nu'i buらを派遣して文字を作らせて訳経事業に着手した
  2. インド南部から十一面観音を将来
  3. ネパール王の息女ティツンを娶り,不動金剛仏,栴檀のターラー菩薩を将来
  4. 中国王の息女オンジョを娶り,釈尊像を将来
  5. ティツンの希望でラサトゥルナン寺を建立
  6. オンジョがラモチェを建立

そしてその後はこのように続きます。

そのときインドの導師クサラとバラモンのシャンカラ,およびネパールの導師シーラマンジュ,および中国の導師のマハーデーバツェ和尚,およびlo tstsha ba thon mi saM bho Taとその徒弟のダルマコーシャとラルンドルジェペーらがあらゆる種類の仏法の経典を翻訳,制定した。

この箇所は一続きのものとして読むことができると思います。なぜなら,上で引用した後に,「王が八十二歳で亡くなった」という話が出てくるからです。これは明らかにソンツェンガンポ王のことを指していますから,プトゥンとしては,ソンツェンガンポ王時代の一連の事績として挙げていると読むことができるのです。ですから,トゥンミ・アヌの息子(thon mi a nu'i bu)はインドで学問修行を積み,先生か誰かにサンボータ,サンスクリットで"素晴らしいチベット(人)"(thon mi saM bho Ta)という名前をつけてもらって,帰国後はこの名で知られることになり,経典の翻訳に従事したと読むのが自然であるように思えます。

原文は下記の通り

de'i sras gnam ri srong btsan dang / btsun mo tshe spong pa za 'bri za thod dkar gyi sras mtshan dang ldan pa / dbu la a mi de ba bzhugs pa zhig /

me mo glang la bltams te / khri lde srong btsan*7 du btags te / dbu'i 'od dpag med dar le brgan gyis dkris te / lo bcu gsum pa la rgyal sar bton / mtha'i rgyal phran thams cad dbang du 'dus te / skyes 'bul / 'phrin yig klog go /

de las bod la yi ge med pas / thon mi a nu'i bu la 'khor bcu drug dang bcas pa yi ge slob tu btang bas / paNDi ta lha'i rig pa seng ge la sgra bslabs te / bod kyi skad dang bstun nas gsal byed sum cu / a' li bzhir bsdus te / gzugs kha che'i yi ge dang bstun nas / lha sa'i sku mkhar ma rur bcos nas / yi ge dang sgra'i bstan bcos brgyad mdzad de / rgyal pos lo bzhi ru mtshams bcad de bslabs so / /

mdo za ma tog bkod pa dang / pang gong dang / mdo sdo dkon mchog sprin la sogs pa bsgyur ro / /

de'i tshe bod 'bangs kyis rgyal po la gshe ba gsan nas / dge ba bci'i khrims bcas te / bod rnams chos la bkod pas / ming srong btsan sgam por grags so / /

中略

de'i tshe rgya gar gyi slob dpon ku sa ra [139a]dang / bram ze shang ka ra dang / bal po'i slob dpon sh'i la manydzu dang / rgya nag gi slob dpon hwa shang mah'a de ba tshe dang / lo tstsha ba thon mi saM bho Ta dang / de'i mchan bu dharma ko sha dang / lha lung rdo rje dpal rnams kyis / chos ci rigs su bsgyur cing gtan la phab bo / /

rgyal po de ni thugs rje chen po'i sprul par grags shing / li'i btsun pa gnyis kyi lo rgyus yod do / /

rgyal po des lo drug cu rtsa dgu rgyal srid bzung ste / brgyad cu rtsa gnyis [L.125a]la gshegs so / /

挿入:このあたりは,あくまでプトゥンがどう考えていたかということに沿って考えています。トゥルナン寺はソンツェンガンボ王の没後に王の菩提を弔うために建立されたという説もあるそうですし。

明記しておかなければならないのは,ここで取り上げたテキストはタシルンポ版であり,『言語学大辞典』で参照されているのはデルゲ版とは内容が異なる可能性があります。デルゲ版の方もきちんと参照するまで何とも言えません。それと,現段階ではthon miを検索してその前後をささっと読んだだけで書いていますので,誤りもあろうかと思います。まだドラフトのドラフトということでお許しください。

※蛇足ながら... thon mi a nu'i buを「トゥン出身のアヌ家の息子」と訳しましたが,『言語学大辞典』ではこの解釈は誤りであるとしています。まずはその部分の引用。

Thon mi Anu'i buの -'i が属格助詞であるため,幾人かの欧米の学者は「トンミ・アヌ」の「子(bu)」が実はトンミ・サンボータであるとの見解を主張したことがあるが,これは誤りである。小野妹子が小野妹の子でないのと同じである。

え,小野妹子の「子」と同じ?古代チベットの人名にはまったく疎いのですが,「○○'i bu」という名前はよくある名前だったんでしょうか?そういう事実を提示するならまだしも「小野妹子が小野妹の子でないのと同じである」とはずいぶん乱暴ではないでしょうか。

「○○'i bu」が古代チベットにおいて名前としてどうだったかについても調べければいけないことになってきましたが,うーん,どなたかご存じありませんか?

※そういえば,プトゥン仏教史では「大臣」とは言ってないですねえ。

※プトゥンがもとにした伝承のようなものがきっとあったんだろうなあと思うのですがそれは何だろう?

※アヌは少年っていう意味もあるよね

そうそう,『言語学大辞典』の記述に対するコメントを忘れていました。ここまでのところでの結論を言えば,プトゥンはトゥンミを文字の創制者であり,かつ訳経者であると捉えていたと考えて良いのではないでしょうか。批判すべき点としては,「トゥンミ・サンボータが訳経者であって,文字の創制者とされているトゥンミ・アヌイブと同一人物ではない」という結論は,プトゥンの記述自体からは導き出すことはできないのに,あたかも導き出せるかのように記述している点ですね。この書き方では読んだ人がプトゥンの記述を誤解してしまいます。『言語学大辞典』の記述は読めば『吐蕃王国成立史研究』をもとに書かれていることが分かるのですが,『吐蕃...』ではトゥンミ・サンボータとトゥンミ・アヌイブが同一人物ではない,とは言っていないのです。

フゥラン・テプテル(紅史)  

フゥラン・テプテル(紅史)*8は,14世紀の人,ツェーパ・クンガドルジェ(1309-1364)*9によって編纂された歴史書(1346年著とされており,これに基づけば,プトゥン仏教史より成立年代が早いことになる)。大原良通さんによれば,このフゥラン・テプテルが最も古い仏教史書とされているそうです。唐書吐蕃伝を参考に執筆された。

ソンツェンガンポ王の事績として下記のような順番で挙げられています(訳経とか文字の前後)

  1. 王妃,寺院の建立
    • ネパール王の娘ティツンを后に迎え,ラサトゥルナン・ツクラカンを建立
    • 中国の王,唐の太宗の娘,文成公主を后に迎え,ラモチェ・ツクラカンを建立
    • 他にもツクラカンを数多く建立
  2. 訳経事業に関わった人々
    • インドの導師クサラカ,バラモンのシャムカラ
    • ネパールの導師シラマンジュ
    • カシミールの導師タヌタ,ガヌタ
    • インドのケンボ・リジン
    • 中国の和尚マハーデーバ
    • 翻訳者トゥンミ・サンボータ,その弟子のダルマコーシャ,ラルン・ドルジェペー
  3. チベット文字の創制
    • トゥンミはインドの文字を手本にチベットの文字を作った
  4. 十六箇条の法を創設
  5. つづく...

※プトゥンの記述とほぼ一致するが,文字の創制と訳経事業の順番が入れ替わっている。

王統明示鏡  

王統明示鏡*10は,14世紀の人,ラマタンパ・ソナムギェンツェン(1312-1375)*11によって編纂された歴史書(1368年の著作とされている)。

(今本が手元にないので)後掲のツェテンシャプトゥンによれば,

頭脳明晰な七名を派遣した

と書いてあると言う。

英語に翻訳されたThe Clear Mirror --- A Traditional Account of Tibet's Golden Age (Snow Lion)によれば,

Songtsen Gampo dispatched seven talented ministers to India to study the art of writing.

となっている。原本にも「大臣」とあるならば,この本が最初に「大臣」としたことになる。

※追記:中国から出た活字本p.67に thon mi zer ba'i blon po rig pa can //とありますので,「大臣」と書かれているようですね。

英語の翻訳によれば,プトゥンと同じように「トゥンミ・アヌの息子,トゥンミ・サンボータ」と書かれているらしい。

中国から出ている活字本ではこのように書かれていました。(部分引用です)

  • thon mi a nu'i bu/ thon mi sambho Ta(トゥンミ・アヌの息子,トゥンミ・サムボタ)
  • rgya gar du yi ge slob tu btang ngo/(インドに文字を習いに派遣された)
  • blon pos rgya gar lho phyogs su phyin te/(大臣は南インドに行き)
  • yi ge'i sgra la mkhas pa bram ze li byin zhes bya ba yod zer ba thos nas/(文法学者のバラモンでリジンという人がいると聞き)
  • bram ze ga la ba der phyin te/(バラモンのいるところを訪ねた)

(中略)

  • gzhan yang blon po thon mi des/ paNDita lha rigs seng ge la/ bstan bcos thams cad bslabs nas/ rig pa'i gnas lnga la mkhas par gyur te/ 'dus pa rin po che'i tog/ mdo za ma tog/ spyan ras gzigs kyi mdo rgyud nyi shu rtsa gcig rnams bod du bsgyur/
  • mdor na blon po thon mi de/ bslab shes kyi yon tan du ma la mkhas par gyur to/

カタンデガ  

カタンデガ*12は,14世紀の人,オギェンリンパ(1323-?)*13によって発掘された埋蔵物(gter ma)。ティソンデツェン王の時代にパドマサンバヴァがチベットを訪れた際に著したものとされる。これが本当なら8世紀の著作ということになるが,書かれている内容からして,8世紀ということはないんでしょうね(ランジャナ文字とワルドゥラ文字などはもっと新しい時代のものだし)。

そのうちのゲーボカタン(rgyal po bka'i thang yig)によれば,

ソンツェンガンポ王時代には仏法が導入され,

  1. ラサトゥルナンやラモチェなどツクラカンが建立された
  2. 翻訳者トゥミ・サンボータ(lo ts'a thu mi sambho Ta)がインドの翻訳者と学者,写字者(lo paN yig mkhan)を招き(gdan drangs),ナーガラ文字(n'a ga ra yig)*14をチベットにおけるウチェン体(bsabs ma)*15に利用し(bsgyur「変える」を意訳),ワルドゥラ文字をチベットのウメー体(shur ma)*16に利用した。

※トゥンミ・サンボータがインドの学者を招いて文字を作った,みたいに書かれてますねえ。「インドに行った」という記述がないのはこれだけ?
※GCに批判されているウチェン体ウメー体別起源説のもとはこれか?

また,ロパンカタン(lo paN bka'i thang yig)には「ソンツェンガンポの御代」の事績としてこんなふうに書いてあります。

  1. ラサトゥルナンやラモチェなどツクラカンが建立された
  2. 十善など各種の法
  3. インドの学者リジンにチベットのトゥミ・ディトリク・アヌ(thu mi 'bri tho rigs a nu)が文字を学び熟達する
  4. トゥンミはインドの文字50に対し,チベット文字は30字で足りることを知る
  5. カシミールの先生(jo bo)アナンタ(a nan ta)を招き,白蓮華経と○○,○○,○○を翻訳者トゥミ・サンボが訳した

そしてこの後に,ティソンデツェン王の時代の事績として,サムイェ寺の建立と訳経事業のことが挙げられ,インド,ネパール,カシミール,中国などのパンディッタの名前のリストがずらーっと挙がっています。リストを読んでいくと,パンディッタ・アナンタの名前もあるし,プトゥンも挙げていたネパールのパンディッタ・シーラマンジュという名前もあるんだけど,これはどういうことだろう??単に同じ名前というだけか,それとも山口先生が指摘しているように,

ティソン・デツェン時代の訳経者であり文典家であったトゥンミ・アヌの子もしくはサンボタが,誤って,贊普ソンデツェン btsan po Srong lde brtsan,即ち,ソンツェン・ガムポ王時代の人物とされ,文法綱要書『三十頌』Sum cu paの著述と三〇文字の創制とが混同されて伝えられたのではないかと疑われる

ということになるのだろうか?

thu mi 'bri tho rigs a nuは,山口先生の訳に従って「トゥミ・ディトリク・アヌ」と記したけれど,面白い名前ですよね。'bri=書く,tho=ノート,「文字を書く」ことと深い関係にある名前。

こんどはルンポカタン(blon po bka'i thang yig)です。これにはニャティツェンポからティソンデツェンまでの間に生じたチベットの氏族のことについて記されていて,特に,この氏族からは大臣が何人出たとかそんなことが列挙してある箇所があります。その中にトゥという氏族には大臣が三名出たという話が出てきます。三名の名前も挙がっているのでここに記しますと,

  1. 'bring to re a nu
  2. thu mi rgyal mtshan snang la 'phan
  3. thu mi klu mang dred

トゥ家から出た最初の大臣,ディントレアヌ。アヌって出てきますね。ちなみに,アヌという名前を持つ大臣は他の氏族からも出ています。トレという名前も綴りは違うけれどもそう読める名前がいくつか見られます。この記述からするとアヌって家の名前というわけではないのか。蔵漢大辞典には一氏族の名と出てるけれど。

ディントレアヌの子が,ロパンカタンに出てくるディトリクアヌだったりするのでしょうか?大臣の息子が派遣されたってことになるのかな。

この後のほうでも訳経事業に携わった人としてトゥミ・サンボの名が出てきます。

青史  

青史*17は,15世紀の人,グー・ロツァワ・シュンヌペー(1392-1481)*18によって編纂された歴史書。この人はロカのチョンゲーの出身。

ソンツェンガンポ王時代の事績

  1. トゥンミ・サンボータをインドに送り,導師ラ・リクペーセンゲという人に文字と言語を十分に学び,チベットに帰国して,インドの文字をもとにチベット語に即した文字を策定した
  2. 王は長い時間をかけて文字を学ぼうとした(yi ge slob tshul bstan)
  3. トゥンミは経典を翻訳した

※基本的にプトゥンの記述に類似

リシクルカン  

リシクルカン*19は,15世紀の人,キョクトゥン・ムンドゥプ・ロツァワ*20によって編纂された古語辞典。カギュー派の人。

トゥンミに関する記述が最初のほうに出てくるが,そこでは,thu mi sa 'bo raと記述されている。

著者の注釈か?校訂者の注釈か?角括弧の中に下記のような解説がある。

lho gnyal gyi thu mi snang grags kyi bu a nu ste/ sambhoTa dang/ sambha dra sogs rgya skad du bzhed pa byung yang/ 'di gnyal na yod pa sa 'bur po zhig 'dug pas/ sa 'bo ra yin pa 'dra/ gang na'ang bod skad du snang/

試訳:ロカのニェーのトゥミ・ナンタクの息子のアヌのこと。サンボタないしサンバダなど,インドの言葉として説明されてきたが,これはニェーの地に周りから突き出している高い土地(サ・ブルボ)があるが,それのことを[土地の言葉で訛って]サンボラと言うようである。いずれにしてもチベット語と考えられる。

ところで,トゥンミ・サンボラが取り上げられている箇所は,文字の創制者として取り上げられているのではなく,訳経者として記されているようである。下記に引用するのはリシクルカンの冒頭部分。

de yang 'dir brda gsar rnying gi tha snyad bshad pa la/ thu mi sa 'bo ra dang/ btsad po khri srong lde btsan gyi dus dang por byas pa'i 'gyur rnams ni/ dang po'i bkas bcad kyis bsgyur ba ste/ sangs rgyas phal po che dang/ lung sde bzhi dang/ mdo sde kha cig dang sher phyin gyi mdo kha cig ste/ skad gsar bcad kyis gtan la ma phab pa rnams so/

新紅史  

新紅史*21は,15-16世紀の人,ソナムタクパ(1478-1554)*22によって編纂された歴史書。

ソンツェンガンポ王の大臣のうち,特に優秀な大臣のリスト:

  • ナチェンリンサン(sna chen rin bzang)
  • トゥンミ・サンボータ(thon mi sam bho Ta)
  • ガル・トンツェン(mgar stong btsan)
  • ディ・セルコントゥン('bri se ru gong ston)
  • ニャン・ティサン(nyang khri bzang)

西蔵人民出版社版しか見ていないので,よく分からないのですが,五人の大臣のうち,トゥンミを含む最初の二人はヤルルンの人,ガル・トンツェンがトゥールン・ランバの人,四人目がディクンの人,最後がニャンの人とある。この出身地は()にくくられているので,オリジナルにはいったいこの情報は書かれているのか,どんなものでしょう。

ところでこの記述ではトゥンミ・サンボータが「大臣」になっています。もっと早い文献である王統明示鏡にも「大臣」と書かれているらしいです。

さて,続きましてトゥンミの業績については次の通り。

  • 王がトゥンミをインドに送り
  • バラモンのリジンとパンディタのラ・リクペーセンゲから文字と言語学(sgra'i bstan bcos,山口先生は声経と訳してたっけかな)を学んだ
  • チベットに戻ってインドの文字をもとにチベット語に合わせて文字を策定した
  • 王に文字を献上し,大臣たちにも文字を教えた
  • mdo sde dkon mchog sprinを翻訳した
  • トゥンミはmdo rdzi'i sgra mdoなど沢山の著作を残した

この後,トゥンミ自身が詠んだ歌,として次のような歌を紹介している。

yul mtha' khob bod kyi rygal khams 'dir/ mi mkhas pa slebs pa'i snga ma yin/

nga mun pa sel ba'i sgron me yin/ rje rgyal po nyi zla'i tshul du bzhugs/

grogs blon po'i khrod na nga tsam med/ bod kha ba can pa'i mi rnams la/

nga thon mi drin du mi che'am/

他にも引用している本があったなあ,なんだったっけ。

その後にネパール妃と中国妃を娶った話が出てくる。その後に続く話はなんだかお話めいている。 もうちょっときちんと読んでから判断したほうが良いに決まっているんだけれど,これ以前の記述に比べて「物語」度が高くなっているような気がする。この本の特徴だろうか?

王統明示鏡の英語版を読むと記述が非常によく似ているので,物語度がアップしたのは王統明示鏡からということになるかな

賢者の宴  

賢者の宴(=学者の宴)*23は,16世紀の人,パオ・ツクラクテンワ(1504-1564/1566)*24によって編纂された歴史書。

山口1983:488によれば,下記の通り記されているという。

『学者の宴』Ja章(KGG, f.15a l.7 - f.15b l.1)には,その出自が「ThonのLug ra kha出身 Thon mi Anu rag taの子 Thon mi sambho dra」と示されている。

『西蔵簡明通史(上)』によれば,『賢者の宴』には,トゥンミ・サンボータについてこのように書かれているという。

トゥン(thon)のルクラカ(lug ra kha)の出身の,トゥンミ・アヌ・ラカタ(thon mi a nu ra ka ta)の息子,トゥンミ・サンボータ(thon mi sambho Ta)という賢い若者に砂金を升一杯分持たせて送り出したという。

『西蔵簡明通史』の説明によると,トゥンのルクラカという場所はニェモゾンにあって,今もその地名は残っているという。また,その地域ではトゥンミがその地の出身であるという民間伝承も伝えられているという。

※この説と,リシクルカンの著者によるロカのニェーの出身という説の二つがあるということになりますかね。『西蔵簡明通史』ではさらに,デスィー・サンゲーギャツォがその著書の中でこの二つの説があるけれどもどちらとは決めがたいと記していることを紹介している。

ダライラマ五世の著作  

bod kyi deb ther dpyid kyi rgyal mo'i glu dbyangs(1634)

該当部分テキスト THDL data

rgyal srid lugs zung gi khrims rnam par dag pas 'dzin pa la yi ge 'di yon tan thams cad kyi rtsa ba lta bur dgongs nas/ mgon po zur phud lnga pa'i byin rlabs kyi ga bur gsar pa'i thigs pa snying la 'phog pas/ rmongs rtul gyi tsha gdung lhag med du bcil ba'i mdun na 'don gnyal nas/ thon mi a nu'i bu sam+b+ho Ta bran dang bcas par gser phye bre gang dang gser gyi pa Ta sogs rig byed smra ba'i ston pa yid rang dbang du byed pa'i dngos po dang bcas nas 'phags yul du yi ge slob par bkas gnang ste/ bshul du 'tshe ba dang bral nas bgrod de bram ze le byin la yig rigs sum brgya drug cu rtsa bzhi dang / paN+Di ta lha rig pa'i seng ge la sgra pANi byA ka ra Na/ rtogs sla ba rgyal po lugs kyi bstan bcos/ kalA pa/ rtogs dka' ba paN+Di ta lugs kyi bstan bcos/ tsan+d+rapa rnams kyi sa ris/ spyan ras gzigs kyi mdo rgyud nyi shu rtsa gcig dang bcas pa bslabs nas/

...ニェーの大臣?によって,トゥンミ・アヌの息子サンボータがお付きのものとともに金...などの贈り物を持ってインドに文字を学びに[行くよう]命じられた...

※mdun na 'donは「大臣」,gnyalは地名でロカ地方にある「ニェー」,mdun na 'don gnyal nasの解釈はこれでいいのか?

ドンカルワ・ツェリンワンゲーの論考  

次項で紹介するツェテンシャプトゥンによれば,『ポラネー伝』や『シュンヌ・ダメー伝』などの著者,18世紀の人,ドンカルワ・ツェリンワンゲー(1697-1763)*25が,文字のことについて書いているという。その引用部分を引用(だいぶお話めいているけど)。

  • 大臣ガル・ソンツェン・ユスンが随行者とともにインドに文字の勉強のために派遣された
  • タラカティなど三名のもとに行ったが,随行者のほとんどは土地に慣れず死亡
  • ガル自身も死の危険にさらされて帰国
  • その後ソンツェンは,ロカのニェー(gnyal)出身のトゥンミ・ナンタク(thon mi snang grags)の15歳になる息子に「インドに行って文字を勉強してくることができるか」と尋ねると,トゥンミは「何としてもやり遂げます」と承諾
  • 使節団の団長にタクロロショク(stag ro lo shog)という者を任命して五百人の随行員を付けると言われ,トゥンミは「多すぎます。10人で十分です」と言うと,12人の随行員と,必要な衣服や食料,インドの王ペー・ジンチェー・ビーナラチェン(dpal sbyin byed b'i na lha chen)に対する贈り物と手紙を託してインドへ派遣
  • 途中,ネパール王に贈り物を献上し,[その返礼として]暑さに効く薬ガプル(ga pur),チュカン(cu gang),栴檀水などを授けられ,そのおかげで難なくインドの地に到着した

※ドンカルワ・ツェリンワンゲーはスィトゥ・チューキジュンネー(1699/1700-1774)と同時代人

スィトゥ・チューキジュンネーの記述  

  • 大臣
  • thu mi saM bho Ta
  • インドへ派遣
  • パンディタ・ラ・リクパセンゲとバラモンのリビカラ(li bi ka ra)らに師事
  • ナーガラ文字(ナーガリー?)を手本にチベット文字の字形を作った

li bi ka raについて

  • li biはサンスクリットのlipi(文字,書くこと)か?ka raはサンスクリットのkara(〜する人?)か? チベット語のyig mkhanに当たる単語かも。どなたかご教示くださいませ。

アラシャ・ガワンテンダーの記述  

  • トゥンミ・サンボータ
  • インドへ送られた
  • シュリー・ナレンドラのツクラカンにおいてバラモンのリジンについて学問をする
  • チベットに帰国後,ランチャ文字をもとにチベット文字を作った
  • その文字に従って,多くの訳経者と学者がrgya gar nag li dang kha che bal yulから多くの経書と論書を翻訳した

ゲンドゥンチュンペーの論考:白史  

アムド出身の学者,20世紀前半の人,ゲンドゥンチュンペー(1903-1951)が執筆した「テプテルカルポ=白史」によれば,

トゥミ(thu mi)は,インドにグプタ朝の時期に訪れたのである。たいへん驚くべきことは,トゥミと同じ時代のインドの王,ハルシャやクマラグプタ,スルヤヴァルマナなどの時代の銅板文書は今でもインド各地にあるのだが,そこに刻まれた文字はチベット文字と非常によく似ている。少し遠くから見れば,あまり字が上手でない者がチベット文字を書いたのかと思うほどである。文字はだいたい学ばなくても少し読むことかできる。

だからチベット文字が範とした文字はグプタ文字ではなかろうかと思う。それだけでなく,ニンマ派の埋蔵経典の文字の文字もグプタ文字にたいへんよく似ているものが多い。

他にもよく調べてみると,ウチェン体とウメー体は初めから同時に作られたものではなく,ウチェンを速書きすることからウメー体が自然に生じたものと見受けられる。多くの古文書や,今もブータンでは使われているロイク(lho yig)として知られる文字の形を見ると,ウチェンがウメーに変化する様子がはっきりと見て取れるのである。

  • 「トゥミはグプタ朝の時期に訪れた」というのはちょっと...グプタ朝の滅亡は552年。まだソンツェンガンポ王も生まれてないです。
  • ハルシャ王は606年に即位。647年まで北インド支配。
  • スルヤヴァルマナがスールヤバルマンのことであれば,クメール族の王様だったりしないんでしょうか?

シャカパの論考:チベット政治史  

シャカパ・オンジューデンデンの「チベット政治史」によれば,

トゥンミ・サムボータはインドの北西地方カシミールへ赴き,その地でリピ・カラとデーヴァヴィドヤャシンハに師事した。彼に随行したチベット人青年たちはその地で死んだ。トゥンミ・サムボータはチベットに戻り,自分が習いおぼえたブラーフミ文字およびグプタ文字からチベット文字を考案した。【シャカッパ:31-32】

  • 「カシミールへ赴き,その地で」学んだことになっていますねえ。この説はどこから来たのか。プトゥンは「カシミールの文字をもとにした」とは書いているが,「カシミールへ行った」とは記していない。
  • リピ・カラという書き方はスィトゥにならったか。サンスクリットでyig mkhanという意味を表すのではないかと思うが,では実際のところどんな意味か?
  • 「デーヴァヴィドヤャシンハ」はチベット語に訳せばlha rig pa' seng ge。
  • ブラーフミー文字をもとにしたということは時代的に考えてもないと思う。
  • GCの書いたものはおそらく読んでいると思うので,GCの論を下敷きにしていると思われるがどうか。

ツェテンシャプトゥンの論考  

アムド出身の学者,20世紀の人,ツェテンシャプトゥン*26による thon mi'i zhal lungにトゥンミの小伝が掲載されている。これまでの著作を対比する作業を行っている。

各文献の内容対照表  

やっとできた対照表!作ってみると案外面白いものになりました。もうちょっと工夫したいものですが。

文献名時代トゥンミの表記出身地大臣行き先先生手本の文字
bka' chems ka khol ma11c?thon mi sam bho Ta, thon mi chung sam bho Ta××大臣*27インド南部バラモンのリジンティカ(bram ze li byin ti ka)海辺に建つ石碑に刻まれた二十種の文字の中から一つを選ぶ
マニカンブム12c?thon mi a nu'i bu saM bho Ta×thon mi a nu?後に大臣となるインドpaNDi ta lha'i rig pa seng geランチャ文字からウチェン,パトゥラ文字からウメー
chos 'byung me tog snying po12cthon mi bsam bu, mi chung sam bho Da×××ナーレンドラのツクラカン(dpal n'a len dra'i gtsug lag khang)*28パンディタのラ・リクパセンゲ, 南インドのパンディタでバラモンのレジン(le byin)ナガラ文字とワルドゥ文字
プトゥン仏教史14cthon mi saM bho Ta×thon mi a nu?×インド南部?パンディタのレー・リクパセンゲカシミール(kha che)の文字
フゥラン・テプテル14cthon mi saM bho Ta×××××インドの文字
王統明示鏡*2914cthon mi saM bho Ta×thon mi a nu大臣インド南部バラモンのリジンとパンディタのラ・リクペーセンゲランチャ文字とワルトゥラ文字
ゲーボカタン14cthu mi sambho Ta×thon mi a nu×[インドから招く]インドの翻訳者,学者,写字者ナーガラ文字,ワルドゥラ文字
ロパンカタン14cthu mi 'bri tho rigs a nu, thu mi sambho××××インドの学者リジンインドの文字
青史15cthon mi sambho Ta×××インドラ・リクペーセンゲインドの文字
rgya bod yig tshang15c'thon mi a nu ra'i bu sam bho ra mi chung*30×'thon mi a nu ra?×インドli byin×
リシクルカン15cthu mi sa 'bo ralho gnyal×××××(文字の創制者としての記述はない)
新紅史15-16cthon mi sam bho Ta(ヤルルンの人)×大臣インドバラモンのリジンとパンディタのラ・リクペーセンゲインドの文字
賢者の宴*3116csambho Tathon gyi lug ra khathon mi a nu ra ka ta
ダライラマ五世著作17cthon mi a nu'i bu sambho Ta×thon mi a nu?×インドバラモンのリジンとパンディタのラ・リクペーセンゲランジャ文字をもとにウチェン,ウルトゥ文字をもとにシャルマ
ドンカルワ著作*3218clho gnyalthon mi snang grags
白史20c××大臣グプタ文字


  • 出身地と父の名の記述が興味深い。
  • 大臣と記述されているかどうかも面白い。
  • プトゥンがカシミールの文字と言っているのに対し,王統明示鏡ではランツァとワルトゥと言っている。後者の文字の成立はしかし,11世紀ですよね。GCもこれは違うと論破している。カシミールの文字説もどうなんだろうなあ。この説がシャカパのシャーラダー文字説につながるのだろうか。
  • thon miとthu miを同じものと考えて良いのか,ということは別途検討しなければならない問題ではありますが,母音の同化が起こって発音が同じになってしまうことはあり得ると思います。それと第一音節の末子音nが第二音節頭子音mに同化して子音が一つ落ちるということもあり得える話。ちなみに,『吐蕃王国成立史研究』によれば,敦煌文献『宰相記』に,mton mi 'bring po rgyal mtshan nuという人名が出てくるそうです。私もPt.1287で確かめましたが,確かにありました。どうもソンツェンガンポ王より前の時代に大臣をやった人のようです。もしmthon myiがthon miの古綴りとすれば,同じ家の出の人ということになるのでしょうか。最後のnuが気になりますねえ。a nuと関係があるかどうか。ともあれ,順番として推測されるのは→ mthon myi > thon mi > thu mi 最後の綴りが一番現代語の発音に近いような気もします。thon miと書いている文献がしかし一番多いですね。

山口瑞鳳氏の論考:トゥンミは文字の創制に関わった人物ではない  

吐番王国成立史研究(山口瑞鳳1983)より。いずれもp.459からの一連の文章の引用です。

後代のチベットの人々にとって,ソンツェン・ガムポ王は観音の化身であり,仏教の偉大な鼓吹者であったと信じられている。従って,この時代に観音に関する経典の翻訳が行われたとする記述は,何らの疑念もさし挟まずに受け入れられるのである。

しかし,今日,学問的な検討を経て語られるソンツェン・ガムポ王には,仏教の推奨者としての側面は皆無に近い。とすれば,このころ訳経僧がいて,大いに訳経が行われたという可能性も,まずないと言ってよいのである。

トゥンミ・サンボタの弟子の一人にあげられているラルン・ペルギ・ドルジェ lHa lung dPal gyi rdo rjeは,実はランダルマ gLang Dar ma王(809-842年)の刺殺者として伝説上伝えられる人物と同名である。同一人とすれば九世紀の人物となり,トゥンミ・サンボタも九世紀前半の訳経者に数得られるべきものになる。

なるほど,七世紀には訳経事業は行われなかった,というわけですね。この前提に立つと,プトゥンの言っていることは正しくないということになるわけだ...

敦煌文献の『年代記』では,文字の創制を一人の人物の功とせず,とくに,トゥンミ・アヌとかサンボタなる個人の名に触れることもない。おそらく,正書法が規定されるより以前に,自ら実用化されていた借用文字があって,ソンツェン・ガムポ王時代に公式に採用され,そのことが『年代記』中に言及されたのであろう。

ということは,インドの文字がチベットに流通していたってことだろうか?
例えば,ゲンドゥンチュンペーの言うように,グプタ朝期の文字だとすると,6世紀にはすでにチベットで使われるようになっていたとか,そんなことだろうか。

トゥンミの子孫の系譜  

ツェテンシャプトゥンの著書に書かれたトゥンミの小伝の中に「トゥンミの子孫の系譜」というのがあってなかなか興味深いと思いました。出典(下記※)が明記されていないのが残念ですが,トゥンミの子孫の系譜が14代まで記されています。14代目は15世紀後半,コンカルドルジェデンを建立したプンチェン・テーガ(=クンガナムギェー)。

※出典はおそらくダライラマ五世著の史書と考えられる。THDLのテキストでは6.9 sde pa yar rgya pa'i skorという箇所に同じ内容が出ている。

名前年代事績
1thon mi sambho Ta7世紀前半?インドへ留学,チベット文字の創制(あるいは山口説の9世紀の訳経師?)
2mah'a sa twa
3ye nag
4nyi ma klong gsal
5ber nag can
6mon mo
7gtso bo lha sras
8bsod nams rgyal bo
9rgyal bo dga'
10rta mgrin rgyal mtshan
11rdo rje bkra shis14世紀サキャでティシュリー・クンガロトゥー*33に仕え,モンゴルの王のもとに送られて万戸長に任命された
12dpon bzhi 'dzom15世紀前半gong ma grags pa rgyal mtshanによってコンカルゾンのゾンプンに任命される
13rgyal ba shes rab
14dpon chen gral lnga*3415世紀後半gong ma grags pa rgyal mtshanによってyar rgyabプンチェンおよびコンカルゾンプンの兼任を命ぜられる。後半生は出家してサキャ派の中のコンカルゾン派の総本山コンカルドルジェデンを建立

「その後,ヤルギャバという名で知られる家系となり,第五世ダライラマの時代にも,ヤルギャプ・デバ・ナムゲークムジーという者も出ている*35。」

こうして表にして番号まで付けてしまうと,800年以上もあるのに14代とはいかにも少ないということに思い至りますね。「初代」が9世紀の人だとしても計算は合わない。だいぶ抜けがあるのでしょうか。

コンカルドルジェデン寺については,『チベット密教の神秘』(正木晃・立川武蔵著,Gakken,1997)を参照。この書によると,新サキャ派の主なものとして,ゴル派,ツァル派,ゾン派の三派があって,「このうち,ゾン派はトゥトン・クンガーナムゲルから始まった。チベット仏教の歴史と教義を扱った書物として名高いトゥカン*36『一切宗義』によると,彼は,チベット文字の考案者で文法の大成者とも伝えられる古代チベット王国の大臣,トンミ・サンボータの家系という名族の出身で,カダム派(アティーシャの衣鉢を継ぐ宗派)の高僧チャムパリンパから具足戒を授けられ,ついでサキャ派のラマタムパ・ソナムゲルツェンの弟子筋にあたるタクトクパ・ソナムサンポに師事したという」(pp.32-33),と記されています。コンカルドルジェデンは1464年に建立されたそうです。つづいて彼の名前についてこんなふうにも書かれていました。「クンガーナムゲルは,五人の僧侶の化身と考えられたようで,若い頃は『タカゲルポ(五僧の王)』というあだ名で呼ばれていた。」彼の前半生のことは書かれていないけれど,『一切宗義』には書かれているのかな?

ということは,ツェテンシャプトゥンは『一切宗義』を参照したということかな。ともかく『一切宗義』を読まなきゃね。

個人的に興味があるのは,プトゥンが同時代に生きたトゥンミの末裔,ドルジェタシのことを直接ないし間接にでも知っていたかどうかということです。プトゥンがなぜトゥンミ・サンボータのことを書けたのか,ということが気になります。もとになった伝承があるのではないでしょうか。

七世紀チベットの仏教受容状況  

文字を作ろうと思ったのは,政治的な状況ももちろんあると思うけれど,インドに留学した人が本当にいたとすれば,当時のインド仏教の影響をもろに受けて帰ってきたのではないか,と思ったりして当時の仏教受容の状況について,インド,中国,東南アジアまで広げていろいろ考えてます。

七世紀のチベットにおける仏教の受容状況ってどうだったんだろう?国教化するのはもう少し後だったとしても,仏教が流行っちゃったりとかしてなかったのかな,という単純な疑問を明らかにする場(=ものを知らないことをさらす場)。山口先生の『チベット』(下)

フランソワーズ・ポマレ著『チベット』(p.34)によれば,

仏教は7世紀に中国とインドから同時にチベットに入ってきた。二つの経路を辿ってきた仏教は,悟りに到る方法に違いがあった。中国から入ってきた禅宗では,精神的・肉体的な活動が悟りへの障害になるとされ,修行者自身の完成・救済に重きが置かれていた。それに対して,インドから伝わった中観派または「中道」の考え方では,利他的な行為を積み重ねることこそが,悟りにつながると説かれていた。(後略)

ということで,七世紀には仏教が入ってきていたらしい。

玄奘著・桑山正進著訳『西域記 玄奘三蔵の旅』(pp.20-23)によれば,

玄奘の若いころ,中国にあった経典は,古来中国にやってきたインドや中央アジアの僧たちが翻訳した,経典の部分訳とか,大意をとって中国風に直したものがおおかった。

玄奘はそんな経典にもとづいた解釈の講義を高僧たちから受けていた。それはそれで意味がなかったどころか,仏教という中国にはなかった思想がインドからはいって以来,中国における仏教の展開はそういったもののうえにたっておこなわれてきたのである。しかし,インドでつぎつぎに展開した考え方が,その展開にしたがってインドから順序よくはいったわけではないから,受け取る側の中国では,それらを四苦八苦して整理し,理論づけしていく必要があった。

そこでインドへ原典をさがしにいくことも,四世紀ころからさかんになっていった。(後略)

玄奘の若い時代に中国ではやっていた仏教理論があった・玄奘もまたそれにおおいに興味をかきたてられて,のめりこんでいった。

その理論とは玄奘が生まれる五十年ほどまえ,南中国の王朝であった梁の武帝のとき,カンボジア方面から招かれたインド僧がもってきたものであった。そのひとはパラマールタ*37といい,中国では真諦とよばれた。

かれはこの理論の,最初のほんの一部を翻訳しただけで,不遇のうちに死んでしまったので,完全な理論は伝えられずじまいであった。

それでもなお玄奘時代まで,五十年にわたってもてはやされていたのは,それがそれまでの中国には全然伝えられていなかった新しい考え方であったからであった。

で,結局「パラマールタが伝えようとしていたのが,唯識思想*38の一大論書である膨大な『ヨーガーチャーラブーミ』*39だと玄奘が知ったのは,じつはかれがインド行きを決意し,その準備をはじめていた矢先であった」(p.23)そうで,このことが玄奘のインド留学と訳経大プロジェクト構想の動機となったのだそうです。

(あー面白くてたくさん引用してしまった)

とすると,七世紀の前半というのは,中国,インドのいずれにおいても大乗仏教が勃興(この言い方は正しくないかな?)しつつあったってことになりますよね。インドもハルシャヴァルダナ王が出て,ナーランダー大僧院をもり立てつつあった...

七世紀前半のチベットでも唯識思想や中観派の思想を学びたいという若者がおったりはしなかったのか。インドからも中国からも「新しい考え方」が入ってきた時期,というような事実はないのでしょうか?(あれば面白いのに)

そういえば,桑山説では,唐の太宗は仏教なんか信じちゃいなかったらしい。玄奘のものすごい量の旅行の記録は,「これは政治戦略の重要資料になる」ってなわけで,あくまで戦略的マル秘資料として編纂させたのが『大唐西域記』だということらしい(訳経なんかおいといて,早く西域記を完成させろって感じだったとか)。そしてマル秘資料はすべて抜き取られ,一般に流布したのはどうでもいいような説話などがてんこ盛りのバランスを欠いた作品だったのだっていう大胆な説。解説を書いている中野美代子先生も「ああこれで腑に落ちた」というような感じで受け止めておられるようです。

ソンツェンガンポ王も山口説によれば仏教的なことは何もしていないようだけれど,太宗になぞらえて考えてみれば,為政者として仏教を取り込むというようなところまではしなかったってことは十分考えられますよね。でも,(ここからは私の妄想ですが)「インドに行って仏教の勉強をしたいんです」という熱心な若者には何らかの形で協力したかもしれない。そして帰国したら,インドの文字にも通暁してきた彼にチベットの文字を作らせる,という自らの政治に役立つ働きをさせた,こんなことも考えてもいいんじゃないか,なんて思いましたがどうでしょう。この若者,ソンツェンの生きている間は寵愛を一身に受け,かなり妬まれていた。そして王の死後に暗殺され,歴史から抹殺された(妄想爆発!)いや,『大唐西域記』の実際の編者である弁機は死刑に処されているというのですよ...

政治上の理由で抹殺されていたこの伝説的な優秀な若者を,後世の仏教史家が歴史に復活させたのだ!なーんてことがあったら面白いじゃん?(どきどきしてきた)

何文字を参考にしたのか?  

「インドに派遣された人」は,どこで何を学んできたのでしょうか?そしてチベット文字は何文字を参考にして作られたのでしょうか?北部インドのグプタ文字系だとか言われてるけど...

GCのグプタ文字説  

1938年にTibet Mirror紙に発表した論考(書誌情報と翻訳はこちら:GC_script)において,チベット文字はグプタ朝第四代の王,クマーラグプタ(在位415-455)時代の銅板文書にはチベット文字とそっくりな文字が書かれているので,トゥンミ・サンボータはこのあたりの文字(4〜5世紀のカーリダーサの時代の文字とも言っている)を基礎にしてチベット文字を作ったのであろうと述べています。

ただ,この論考では,どこで学んだか,ということまでは言及していません。一応GCは文字を作るために派遣された人=トゥンミ説に起っているようですから,七世紀前半のこととすると,605年に登位したハルシャ・ヴァルダナ王が保護したというナーランダーにチベット人が七世紀に早くも勉強に行っていたということになるのか?(なーんていう楽しい話は証明することもできず妄想に留まっております。)

リッチャヴィ族が使っていた文字説  

当初ここは「ネパールの文字説」というタイトルになっており,「ネパールだの,ゴーパプールの文字がどうの,という説もあったような。これはシッダマートリカー(北インドで6世紀から10世紀にかけて使われて用いられた文字で日本で用いられている梵字のもとになった字)ってことだろうか?」などと書いておりましたら,ichhanさんより下記のようにご教示賜りました。

『チベット語古典文法学』(稲葉正就著。2ページ)によるとインドU.P州Gorakhpur地方のGopalpurにある「The Gopalpur Bricks」にきざまれている文字がチベット文字に似ているそうですが、この文字はネパールでも石碑に見ることができます。私のHPにその石刻字の写真といくつかの字母表をのせておきました。→Link それらを見てもらえればわかるように、チベット文字は前期~後期リッチャビ文字(7世紀頃前後)に改良を加えたのではないでしょうか。(ichhanさんの談話室*投稿より)

◆ゴーラクプル
インド北部,ウッタル・プラデーシュ州北東部にある同名県の県都。聖地ワーラーナシー(ベナレス)の北160kmに位置する道路・鉄道交通の要衝都市。南郊にブッダ入滅の地クシナガラ(現カシア)がある。【南アジアを知る事典:266】
◆リッチャヴィ王朝
ネパール最古の王朝。4世紀前半から9世紀後半まで。4世紀初頭に北インドを制圧したグプタ朝チャンドラグプタ1世への服属を嫌ったリッチャヴィの一族が,パトナーの近くのヴァイシャーリーからネパール盆地に移住してきて先住民を支配したと考えられる。5世紀中期にマーナデーヴァ1世が統治を確率し,7世紀前半にアンシュヴァルマー王が学術工芸を振興し,壮麗な高層の王宮を造営して黄金時代を築いた。仏教も手厚く保護した。【南アジアを知る事典:775】リッチャヴィ王朝治下の5〜6世紀にインドのグプタ朝文化が導入された。【南アジアを知る事典:530】

リッチャヴィ王朝時代の石碑がネパールにはいろいろ残されているらしく,1994年には,A Corpus of the Lichchhavi Inscriptions of Nepalという本も出ていることが分かりました。これは見たいなあ!

ところで,リッチャヴィ朝の文字とシッダマートリカーの関係は???

ソンツェンガンポ王の庇護を受けたリッチャヴィ朝の王子ナレーンドラが,吐蕃の後援をうけて王としてカムバックする話とか。いくつかの古い記述に,トゥンミの行き先としてナレンドラのツクラカンという表現が出てきます。これはリッチャヴィ朝期のネパールに文字の勉強をしに行ったと言っているのかも?

山口瑞鳳氏  

『チベット(上)』PP.244-245によると,

635年までに文字ができていたものと考えられる。

チベット文字は梵語系の文字をまねて作られたことは伝承も示すとおりである。王朝の主流を形成した種族がカイラーサ付近を原住地としていたことから考えても,古くからネパール系の文字と接することが多かったはずである。今日知られているかぎりでは,ネパールと境を接したインドのゴラクプルという地方のゴーパープルで発見された碑文にチベット文字ともっとも近い形を認めることができる。これらの文字のうち最終的に30字を選んで,母音記号も定め,漢字のように偏や冠やにょうを旁が伴うのと同じように構成した。しかし,いずれもまったくの表音文字である。

文字ができる前に唐と直接交流はなかったものの,中国文化の伝統を少なからず承けついでいたはずの吐谷こんという国と深くかかわりあって,その影響を受けていたから,文字の形成に漢字の影響もあったと考えてよいであろう。

プトゥンのカシミールの文字説  

プトゥン仏教史では,下記のように記されているのですが,

gzugs kha che'i yi ge dang bstun nas

形はカシミールの文字に併せて

では,インドに派遣されたという人は,チベットからカシミールに行ったということになるのでしょうか? 七世紀前半のカシミールでは,玄奘が見てきた通りだとすれば,「現在このカシミール国ではあまり仏教は信じず,ヒンドゥー教徒やその神祠にとくに心をとどめている」(『西域記 玄奘三蔵の旅』p.178)ということになりますよねえ。そうすると,カシミールの地では落ち着いて勉強などできないような気もします(勝手な創造ですが)。例えば,仏教を奉じなくなったカシミールの地を僧侶たちが次々と離れ,新天地をもとめてインドを遊歴していた,とすると,カシミール出身の僧侶とチベットから派遣された人とがどこか別の地で出会って,教えを受けたということになるのでしょうか?それにしてもどこか僧院なりなんなり,落ち着く場所が必要なはず。いったいどこで学んだのでしょうか。

すみません,カシミールに勉強に行くチベット人は13世紀の初くらいまで結構いたとか...後伝期の話ですね。

10世紀末になると,グゲ王国はカシミールやインドに若者を送り,経典の翻訳家を育成した。中でも,最も有名なリンチェン・サンポ...(ポマレp.64)

一方,チベット東部で仏教を伝承してきた僧たちは,中央チベットに戻り,小さな共同体を作り始めた。それにより,チベット各地で宗教的・知的な熱気が高まり,多くのチベット人がインドやネパールやカシミールへ仏教を学びに出かけるようになった。このような傾向は,13世紀の初頭,インドにイスラム教徒が侵略してくるまで続いた。(ポマレp.65)

うーん,玄奘の観察では七世紀の時点で仏教は衰えつつあったという話なのだが,そうでもなかったのだろうか?あるいは私の単なる間違いか。

シャカパのグプタ文字説,シャーラダー文字,ナーガラー文字説  

シャカパはソンツェンガンポ王の時代にはすでに文字があったはず,と述べている。その理由として,「大臣や学徒たちが文字のシステムを学びにインドに留学する以前に,ソンツェン・ガムポ王が,ネパール王に王女を妻として娶りたいとの手紙を出したという話が残っているからである。歴史書によると王自身がこの手紙をしたためたという」として,「王統明示鏡」を引いて述べていますが,これは「理由」になるやら。

現在使われているチベット文字については,

現行のチベット文字は紀元350年ごろインドで用いられていたブラーフミ文字とグプタ文字より考案された。インドに送られた留学生の中でトゥンミ・サムボータ一人が帰国し,チベット語を書き写すための文字を考案した。ブラーフミおよびグプタ文字とチベット文字のおどろくべき類似性を,Bühler, Indische Palaeographie, Plate IV, Cols. I - VII にみいだすことができる。単語の意味はわからないとはいえ,私はそれらの文字をほとんど読むことができたからである。【シャカッパ:15】

のように,グプタ文字としています。

チベット語版の「チベット政治史」には,シャーラダー文字説が載っていました。

サンボータはチベットに戻るとバラマンとグプタ期にインド北部で広く使われていたシャーラダー文字とナーガラー文字の二つをもとにチベット文字を作った。【:147】

シャーラダー文字は10世紀以降の文字だから史実にはあわないが,カシミールで学んだというあたりから,この説が出てきたものかと思われる。

文献リストとかも気づいた範囲で  

どれもこれもまだ読んでないよ〜

トゥンミ・サンボータ関連  

  • thon mi sambho Ta, rang sgra著, mtsho sngon mi rigs dpe skrun khang, 1999
    • トゥンミ・サンボータ物語,といったところ。おはなし風味満点。

チベット文字の成立に関する論考  

※他にも山口瑞鳳,西田龍雄など

その他,仏教関係参考資料  



《メモ》南へ渡った文字,北へ渡った文字  

今までたぶん行われたことのなかった比較をしてみました。東南アジアの文字に詳しい同僚の澤田英夫氏とのおしゃべり(まだ立証なんてところまでぜんぜんいってないけど)をメモしておきます。結構面白い話になりそうなので。

  • 東南アジア方面へ渡った文字
    • 文字の伝来は仏教の伝播による 
      • パーリ語経典がインドの文字(パッラヴァ)で伝えられる
    • 為政者はインドから文字伝来当時は文字を必要としていなかったかも(?)
    • 最初の碑文 仏教関連(寄進) 国王が立てさせた碑文はだいぶ後になってから
    • 上座部仏教(大乗は伝わったものの結局上座部が優勢となる)
    • 訳経を行わなかった(パーリ語経典そのまま受け入れる)
    • インドから伝わった文字が東南アジア各地で形態変化
  • 北へ渡った文字(チベットのケース)
    • 文字の導入は為政者の要請(チベットの史書にはことごとくそのように記されている)
      • 周辺国家はみな文字を持っていた(中国,ネパール,中央アジア)
    • 最初の碑文 王家
    • 大乗仏教(「辺境の地チベット」を啓く教え,という繰り返される表現。大乗の伝道方法との関連?)
    • 訳経事業を行った(王家が推進)
    • サンスクリットをすべてチベット語に翻訳してしまった
    • 文字の形はグプタ系の文字の形をほぼそのまま受け入れ,形態変化ほとんどなし(ただし行書体や草書体,速記体など種々の記法が生じ,文字の形の美しさを重んじる伝統がある)
    • (西夏文字との歴史的経緯の類似)

もしこの線でおおよそ間違いがないとすれば,スタートからしてまったく性格が異なるところが実に面白いと思います。




*1 thon miはトンミと書かれることが多いが,ラサの発音にならってトゥンミと表記する
*2 義浄『南海寄帰内法伝』の現代語訳とか,グレゴリー・ショペンの大谷大学における講演録の日本語訳とか,七世紀のインドの僧院生活について書かれている本を読んでます。あ,あと『西域記 玄奘三蔵の旅』(小学館)っていう本もすご〜く面白いですよ
*3 この項目の執筆者は国立民族学博物館副館長・長野泰彦氏。
*4 bu stonはラサの発音ではプトゥンとなるのでこちらの表記を用いるが,プトンと表記されることも多い。
*5 bu ston rin chen grub,1290-1364 tbrc link
*6 大谷大学所蔵タシルンポ版の木版をもとに入力したもの。Link
*7 まぎらわしいけれどソンツェンガンポ王のこと
*8 hu lan deb ther, deb ther dmar po
*9 tshal pa kun dga' rdo rje, 1309-1364 tbrc data
*10 rgyal rabs gsal ba'i me long
*11 bla ma dam pa bsod nams rgyal mtshan,サキャ派の学者,tbrc data
*12 bka' thang sde lnga
*13 o rgyan gling pa, 1323-? ニンマ派,tbrc data
*14 デーヴァナーガリーのこと?
*15 gzab yigと同じと考えてよいか?蔵漢大辞典のgzab yigの項にはウチェン体と同じと書かれている。
*16 gshar maと同じと考えてよいか?
*17 deb tehr sngon po
*18 'gos lo tsA ba gzhon nu dpal, 1392-1481 tbrc data
*19 li shi'i gur khang
*20 skyogs ston smon grub lo ts'a ba, karma lo tsA ba rin chen bkra shis tbrc data
*21 deb ther dmar po gsar ma, tbrc data
*22 bsod nams grags pa, 1478-1554, tbrc data,ツェタンの生まれ
*23 ケーベーガトゥン, lho brag chos 'byung mkhas pa'i dga' ston, tbrc data
*24 dpa' bo gtsug lag phreng ba, 1504-1564/1566, tbrc data
*25 mdo mkhar ba tshe ring dbang rgyal, 1697-1763, tbrc data
*26 tshe tan zhabs drung 06 'jigs med rigs pa'i blo gros (1910-1985) tbrc data
*27 16人の大臣のうちの一人
*28 ナーレンドラは、おそらくナーランダー大僧院のこと
*29 英訳からの引用。原文はまだ見てません。
*30 別の箇所ではmthon mi, thon miなどの表記
*31 西蔵簡明通史から引用。原文はまだ見てません。
*32 ツェテンシャプトゥンが引用しているのを引用しているだけで原文を見ていません
*33 ti shr'i kun dga' blo gros, 1299-1327 tbrc data
*34 grwa lngaに同じ。kun dga' rnam rgyal, 1432-1496
*35 sde pa yar rgyab paについては,ダライラマ五世(1617-1682)による史書のパクモドゥ派の中に記述があるのでぜひ参照したい。
*36 thu'u kwan blo bzang chos kyi nyi ma, 1737-1802
*37 499-569。中国仏教史における四大翻訳家のひとり。西インドのウッジャイニーのバラモン出身の学僧。(中略)『摂大乗論』など64部278巻を訳出した。この『摂大乗論』を契機にして,中国では仏教を大乗と小乗に分ける考えが起こり,真諦は摂論宗の祖師とされている。/著者による注釈
*38 仏教思想のひとつ。中観派とともにインドの大乗仏教を形成した二大系統のひとつといわれ,一切の存在は識,すなわち心にすぎないと考える。ヨーガの実践によってこの自分の心のあり方を変革し,悟りに到達しようという教え。すべては空であるという般若経の空の思想を受け継ぎながらも,少なくとも識は存在しているという立場に立つ。玄奘は唯識思想を究めようと,その根本経典を求めてインドに赴いた。彼が『成唯識論』を訳出することによって,唯識思想を根本教義とする法相宗が中国に成立することになった。/著者による注釈
*39 玄奘はこれを訳して,『瑜伽師地論』百巻とした。ヨーガ行派の代表的な理論書。/著者による注釈

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