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〜 DL13/伝記/10章/kha 89b6- 〜


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89b.6-94a.3
(90a.5まで未訳)
その昔、木の竜年[1904年]に英国の将兵がチベットを侵略しようとしたので、[ダライラマは]北京の金の王国にお行きになってから皇帝母子と、内大臣・各高 官などに仏教を利益する方法として多くの賢い報告をしなさったのでチベットの政・教に新しく変革することはないとの良い命令と、御肉筆の手紙など、敬意ある無上の利益を得た。宣統新皇帝からもダライラマの御心のままになすとの御約束ができたけれどもそもそもチベットの普遍的な福徳以外の果が熟し、悪の一味が集団となる能力が栄え、傲慢となる時期となったので、欲天に唆された誤った願望と狡猾な策動を持ち、[しかも]大きい力と地位を持った中国の大臣たちと四川総督 、川藏大臣 趙爾豊、チベット在住の聯[豫]駐藏大臣*1など陰謀者が腹を合わせて密謀してチベットのバ*2、リ*3地方とツァカロ*4、ゾ*5、サン*6などに将兵を次第に導いて法の根本である多くの寺を破壊することと、礼拝対象物[仏像など]全てを御火で燃やしてから弾丸の材料にした。僧侶数千人を罪も無いのに殺した。それらの供養資金である人・財全てを我がものに奪って完全に壊滅させたなど前代未聞の無数の罪業が周知となった上で趙爾豊を全チベットの総督、境域の業務者たるkhrang khru の称号に新たに顕彰したことによって、将兵一万と共に土の猿年の三月[1908年4月]中にチベットに来る[という]文書、令状、布告などを広く公布した上で、各[チベット]省庁に中国人官吏を置き、非法である制度改新と共にチベットの力を掠奪するに違いなかったけれども、この時チベット人の智恵を備えたものたちが一致団結して、四川総督と趙爾豊二人に文書を通じて損益の説明、駐藏大臣経由で口頭と文書、あらゆる方法を尽くして申請をたびたび行い、特にカルカッタから北京の外務部に状況を電報で数多く報告した結果、更に皇帝からの返事に、趙爾豊が川藏の境界の仕事以外、チベットの権利に関与することは許されないという良い命令を得たけれども、当方[チベット]が北京の法律を理解していない最中に張蔭棠が本件を調査に来た時、中国とチベットの収入争いの調停に対する皇帝の決裁が延期された上で、[皇帝が]足一本の水鳥のやり方を執っている[両方のやり方を解っていない][張蔭]棠のだましを無知なものが何でもかんでも賞賛し、[皇帝がそのだましを]真実であるととられたことによって、中国チベット外国[イギリス]三国条約がなされた時、各市場の警察を設置するという条項などをチベットの大使が自身で決めて[勝手に]調印をした如く、悪魔でありながら人の体を持っているもの[である]聯駐藏大臣が中国に警察6000人の必要性を申し上げて、その後張蔭棠が北京に至ってからももっともらしく嘘を組み立てた沢山の讒言などを献じて四川から中国軍がラサへ出征しなければならない命令が下ったのをダライラマが聞くことになった時、前例の無い警察であると言われる程の将兵がチベットに派遣することにより中国チベット二つ共に短期にも長期にも利益が無く害と違反となっている法の損益を年から年までつなげて申し上げ続けているのにラサのアンバンが全く尊重無く軽視することによって前に進んだ上、沿途の民衆を動揺させて、事務員主従の首を切り、公私に財物を掠奪強奪することなどを無量にあらゆる思いついたことを思うままにしてラサにもすぐに至る近くの時に、ネパール代表と各商館から誤りと乱れが生じないために、中国チベット間の話し合いで温駐藏大臣とネパール代表がダライラマの御前に拝見して、政・教二つの以前の通りの継続と、中国軍から騒動をおこさないという承認の文書で印を押されたものを捧げたが[実際の行動と]一致がなく、究極的な悪いたくらみによって1月の3日の晩中国軍、武装して何千もあるものが大きな法の国の正面に怒り、争い、傲慢三つを持って至ってチーキャププーカン・タイジとツェドゥン・ジャムヤンギェンツェン主従、騎兵、チベット軍警察などに射撃して、ポタラ宮、トゥルナン廟などにも火の罪を無量に発して、タイジを叩いて傷つけることによって衛門に連れてゆくなど全てに広まったようなことと、その日捧げられた文書にも、以前からある法の力と命令をそのままにすると言うこと以外、仲介人との関係で[のために]政・教二つともの権利があるとの言葉が記されていなかったので、要するに政治の強奪を暗に示すに自他の土地の区別によって最終的に駆逐出来ないことはありえないけれども、王子ツクナノルブ*7のやり方のように、多くの有情の命に害することなく、自身の政治を平和的方法によって早く取るなど短期的にも長期的にも考えを広く[して]、海を経由して北京の皇帝に事情を申し上げに行く予定で、その夜暗くなってガンデンティジン・ツェリンフトクト*8を御前に特に招請なさって、政・教の儀式全てのお教えをして[それに]関連して宰相の権を授けてから、子の時ほどに宮殿からノルブリンカ*9にお行きになられた。ノルブリンカから行かれる準備を大体纏めなされて、卯の時にラマガンの渡し場経由で馬に乗って出発してから自身の土地、人の土地の区別によってだんだんと駆逐出来ないことはないけれども王子ツクナノルブのやり方のように沢山の有情の命に害のなく、自身の政府を和の方法によってすぐに摂るなど短期的にも長期的にも考えを広く海を経由して北京の皇帝に事情を申し上げに行く予定によってその夜暗くなってカンデンチジン・ツェリンフトクトを尊前に特に招請なさって政教の儀式全てのお教えを教えて関連して宰相に権を授けてから子の時ほどに宮殿からノルブリンカに身をお動かしになられて、ノルブリンカから行かれる準備を大体纏めなされて卯の時にラマガンの御船経由で馬に乗って出発してから道中に軽食の一杯も取らずに二昼夜の道を一日で至って4日の夜にチャクサムにおられた。ラサの新旧の漢官がラチクギェーウェーワンポ[ダライラマ]主従全てを殺し捕らえ全ての悪い行いを行おうとするによって武器を持った兵隊何百人を将来に鳥の羽が交わるかのように[次から次に]送ったチュシュに至ってすぐにチャクサムに入ろうとしたけれどもその時に騎馬の随従であることの従者チェンセーナムカン・ダサンダドゥルと称せられるもの武芸に慣れて兵法で仕事を理解していた[ものである]彼と警備のわずかな中国式の訓練を受けた兵などから自身の生活の道具[命]を捨てることに対しても危険を顧みずに観音菩薩の御体を守るために後に戦争の敵とするようにして火の機械を急所に命中させることを次から次に撃ったので何十もの敵を無常の道に難なく入れたので怨敵の後ろの方に進む途中[のもの後援部隊]も自然に途絶えてひとまず兵戦うことをする者は何もなすことができないに図に描いた武器のように残った[何も出来なくなった]、その後でダライラマと大臣二人共に寿命に損失が無く馬の首を順に変えてペェリとナツェ経由でヤムドクのサムディンゴンパに行ってから三昼夜にいらっしゃった。部下を伴ったダサンダドゥルも、敵の進撃を遅らせるために、ツァン河の南北に長く混戦し続けた結果自身のほうの部隊が少なくなった。敵の後援部隊もだんだんと多くなったので術なくチャクサムから抜けて騎馬侍従としてだんだんと近くに参上した。ダライラマ主従もサムディンからジャラ経由でラルン寺に行ってから一日いらっしゃって、翌日にショドゥン・タクドゥンの荘園に一日いらっしゃって、カンマルの農民の館に一日いらっしゃって、それから昼夜を合わせて馬の首を急いで向けたのでドゥナタンと、パクリのダン峠に行った時に雪が馬鞍の鐙に落ちるほどに降ることの耐えられない寒さと月日が春になったことの風、するどいトゲより熱が激しいものに常に途切れなく鞭打たれ[苦しめられ]宿の食事も定められたものもそのままに取ることが出来なかった先にあったなど法王ハラデウェの息子兄弟二人の苦行のありさま[である]苛まれる苦しみが量を越えていたものがあったので顔の顔色も前よりも他に変わって、御口も渇いてひび割れが裂けるなどを見るだけによっても食欲もなくなって涙がこらえられないその時の写真を見るように[ても]チベットに教えと、衆生のためにいろいろなこと[苦しみ]をなさらなければならなかったこれ位の大恩も輪廻の終わりまでに帰すことは難しいことである。

それから[ダライラマ]主従全てが一般民衆の服装で騎馬にてお行きになって、 パリ県とその地方のダライラマの臣民たちが武器種々を携えてドゥーナの平原に護衛とお迎えを申し上げた。

ダン峠の向こうの下のゴンパにしばらく落ち着かれてシャルシーマでイギリスの<ku Tir>*10に出発しなさって一泊しなさってドモの守護の中国人の軍糧官・将軍と会見しなさった。ピンピンタンとリンチェンガンなどの地方で沢山の川を渡ってカリンポンに至ってから7昼夜[1週間]いらっしゃった。ラザカチウゲンがお仕えした。

 そこに中国から新たに発信された電報に、皇帝が[ダライラマの]地位を除く [という]ことと、チベットから聯駐藏大臣が発布した文書にダライラマの地位 を除いたので一般の人民である[という]ことと、新ダライラマを金瓶でくじ引 きしなければならない[という]ことなど「金よりも高価な栴檀[を],愚人は炭にしたのを見よ」と言われるように、大聖聖人[ダライラマ]にふさわしくない 無数の侮蔑の悪口・侮辱と歪曲が次々とあらわれたばかりでなく、コルカタに以前派遣した報告決定者[使者]が北京外務部に新しい中国軍は必要ないことの電信を7回送ったけれども受取の返事すらなかったという[ような]いい加減さなど状況全てを[ダライラマが]御覧になっても海面と海底[の水]が一緒[の味]であることの[ように][北京と聯豫の]悪心は一つであるに違いないので、北京 にお行きになられて[皇帝に]報告しようとしても目的が達成される希望を失っ たので、条約についてイギリスを通して北京に話し合いをしてチベットの政策などに新たなやり方を決してしないというありとあらゆる良き約束をしたことはBlue Bookにはっきりと書いてある通りだけども、前のように約束を守らないので、中国軍の増援数千を四川から派遣する決定をした時イギリス政府が広く妨げ止めたのでなんとか来ることがなかったのもまた実にダライラマ自身の良き方便と慈悲心の福力[による]のみである。それからダージリンに行かれて、英国政府から7日の間[ダライラマ]師徒全てに接待と良く供養がされた。曰く、ウダーナ集から、「ある時期には敵も友になる、友それ自身も敵にもなる、そのようにあるものも中立になる、中立[のもの]それ自身も敵にもなる」と説かれているように、昔日の法敵、外国[イギリス]と言うドォ・トルマ・ドプ三つ[の儀式]で主要な敵となった彼ら自身[イギリス]も今や[ダライラマを]尊敬する友人と施主の形としてあらわれた。
(94a.2から最後まで未訳)
(担当:vag)


*1 am ban.
*2 'ba'、バタン。
*3 li、リタン。
*4 tsha lho
*5 mdzo、ゾゴン。
*6 gsang、ザユル。
*7 gTsug na norb.
*8 dGa' ldan khri 'dzin tshe gling ho thog thu.
*9 Nor gling.
*10 Trade Agent.

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