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〜 DL13/蔵/年譜 〜

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13世の生涯のできごとを,13世伝(ナムタル)およびそれ以外のソースから,年代順に記録していきます。

メモ  

  • 各年の「その他」の項目を「チベット史年表」より抜書き。その際,「ダライラマ」等の語を削除し,同じトピックを1つの項目にまとめるなど,若干整理した。2006/11/24

1876  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [6月26日 チベット暦5月5日]ランドゥン村で父クンガリンチェン、母ロサンドマの間に生まれる【TADA1965:4-5】

1877  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [3月9日 チベット暦1月25日]チベット政府、ダライラマ候補の幼児に白ターラの像を奉呈し、政教の統治者として登位することを要請【TADA1965:6】
    • [11月24日 チベット暦10月20日]近侍の三役ら、出迎えのためポタラを出発。ランドゥンへ【TADA1965:9】
    • [12月5日 チベット暦11月1日]ラサへ向けてランドゥン発【TADA1965:9-10】
    • [12月16日 チベット暦11月12日]デチェンにて摂政タツァー・フトゥクトゥを初めて引見【TADA1965:10】
    • [12月18日 チベット暦11月14日]ツェー・クンタンへ。約2ヶ月をそこで過ごす【TADA1965:10-11】
    • 選出に際し、金瓶掣籤は行われず【GOL:44】【TADA1965:6】

1878  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [2月5日 チベット暦1月4日]パンチェンラマ、ダライラマの剃髪および命名の儀式のため、ツェークンタン着【TADA1965:11】
    • [2月8日 チベット暦1月7日]剃髪・命名式。ガワン・ロサン・トゥプテン・ギャーツォ・ジクテー・ワンチュー・チューレー・ナムゲー【TADA1965:11】
    • [2月20日 チベット暦1月18日]ツェー・クンタンを発ち、キチュ対岸のリギャへ。そこで1年余を過ごし、教師であるプブチョー・チャンパギャーツォの指導を受ける【TADA1965:12】

1879  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [7月31日 チベット暦6月13日]初めてポタラに入り、即位【TADA1965:16-17】

1880  

  • ナムタルの記述
  • その他

1881  

  • ナムタルの記述
  • その他

1882  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [2月23日 チベット暦1月6日]沙弥戒を受ける【TADA1965:19】

1883  

  • ナムタルの記述
  • その他

1884  

  • ナムタルの記述
  • その他

1885  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • ブータンの内紛に調停を求められ代理人(大臣ラムパ)派遣【シャカッパ:244】

1886  

  • ナムタルの記述
  • その他

1887  

  • ナムタルの記述
  • その他

1888  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [4-7月 チベット暦3-5月]三大寺の7つの学堂それぞれで問答を行う【TADA1965:25-26】

1889  

  • ナムタルの記述
  • その他

1890  

  • ナムタルの記述
  • その他

1891  

  • ナムタルの記述
  • その他

1892  

  • ナムタルの記述
  • その他

1893  

  • ナムタルの記述
  • その他

1894  

  • ナムタルの記述
  • その他

1895  

  • ナムタルの記述
  • その他

1896  

  • ナムタルの記述
  • その他

1897  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [3月7日 チベット暦1月11日]チョカンのシャカムニ像の前で受戒【TADA1965:28】
    • [9月26日 チベット暦8月8日]即位(当時20歳)【TADA1965:31】
    • [8月]政権の座につく。前摂政デモによるダライラマ呪殺陰謀事件露見【ダライラマ1989:413】
    • チベットの領域・民族・学問・宗教・民族性に関する5か条の布告を発する【TADA1965:32】

1898  

  • ナムタルの記述
  • その他

1899  

  • ナムタルの記述
  • その他

1900  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [3月]ガンデン、チュンコルギェー、ご生地、ショツァリ、ロネーに行幸【西蔵歴史年表:80-81】
    • [9月]ダライラマ特使アワン・ロサンドルジ(Ngawang Losangdorj)ペテルスブルグにてロシア皇帝ニコライ2世と第一回会見、ロサンドルジはブリアート・モンゴル僧、通称ドルジエフ。(ダライラマ、ロシアと結び英国と中国の牽制を計る)【ダライラマ1989:413-414】ダライラマ13世特使ドルジエフ、ロシア皇帝の謁見を受ける【山口1988:xiv】ドルジェフ、ヤルタでニコライ2世に謁見し、チベットの状況を報告【TADA1965:39】

1901  

  • ナムタルの記述
  • その他

1902  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • ラサでパンチェンラマに授戒【BELL1946:64】

1903  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • 親英派であるとしてシャタ・シューカン・チャンキム大臣を罷免【GOL:49】

1904  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [6月30日 チベット暦5月17日]英国使節団チュシュー着の知らせを受け、7名の供とともにラサ脱出【TADA1965:43】[7月30日 チベット暦6月15日]ラサを脱出。北方に向かう【シャカッパ:265】【SHAK76(2):123】[7月30日]北方に向かいラサ脱出、ガンデン・ティ・リンポチェ(Ganden Tri Rimpoche)およびロザン・ギャルツェン・ラモシャル(Lozang Gyaltsen Lamoshar)の二人を摂政に任命【ダライラマ1989:414】[チベット暦6月15日]少数の供とともにポタラ宮を出発【CHMO(11):126】[7月]外モンゴル亡命に向かう【山口1988:xiv】[夏]ラサを出てウルガへ。1年滞在【タイクマン:25】
    • [9/10月 チベット暦8月]青海のツァイダム着【TADA1965:45】
    • [10月]ウルガ着【GOL:45】[11月]ウルガ着【BELL1946:66】[11/12月 チベット暦10月]クロン着【TADA1965:45】[チベット暦10月20日]ダークレー着【PHUR LCOG:512】[末]ラサを出てウルガへ。1年滞在【タイクマン:25】外蒙古のウルガ(今のウランバートル)到着【ダライラマ1989:415】
    • 中国政府、ダライラマを廃位【GOL:45】

1905  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [5月]ロシアのツァーに対し「チベットに関する保護の責任を負う」ようウルガにて訴え【グルンフェルド:79】
    • [6月]ウルガにて新ロシア公使ポコティロフより,ロシア皇帝からの贈り物を手渡される【BELL1946:66-67】
    • [7月 チベット暦5月]駐北京ロシア公使の訪問を受ける【TADA1965:46】
    • [夏]チベット、アンバンを通じて中国皇帝に、ダライラマの復位を依頼。ダライラマに帰国要請【GOL:48】
    • 日露戦争におけるロシアの敗北を知りペテルスブルグ行きを中止【ダライラマ1989:415】 ダライラマ、1903年に罷免したシャタ・シューカン・チャンキムを、内閣より上のルンチェンの地位に任命【GOL:49】
    • [秋]ラサへ向けて出発【タイクマン:25】

1906  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [始め]クンブン着。2年滞在【タイクマン:25】
    • [10月]アムド着。中国皇帝からの命令を受け、チベットに向けて出発せず約1年間そこに滞在【GOL:48】甘粛省Kanchow着【BELL1946:69】
    • [11月]西寧着。クンブム寺訪問【BELL1946:69】
    • [11月]青海で寺本婉雅に会う【山口1988:xiv】

1907  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [年末]ラッサに帰らず、北京に向かう【山口1988:xiv】西安府到着【シャカッパ:272】中国皇帝からの招きを受けて、北京へ向けて出発【GOL:49】

1908  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [1月]駐中国英国公使ジョーダンに文書と使者を送り、インドとの親しい関係を望んでいると伝える【BELL1946:69】北京駐在イギリス公使ジョーダンに「イギリスとの友好を望む」旨、口頭で伝達【GOL:49】
    • [3月7日 チベット暦1月5日]北京へ向かうためクンブム寺を出発【TADA1965:46】
    • [5月 チベット暦3月]五台山へ【TADA1965:47】[春]山西省五台山訪問。その後北京へ【タイクマン:25】山西省五台山にて西本願寺の大谷尊由と、北京にて日本公使林権助、福島安正中将らと会見【ダライラマ1989:415】西本願寺の大谷尊由、北京公使館付武官福島安正、公使林権助と接触【TADA1965:87】[6月]ロックヒル、大谷尊由・寺本婉雅らと五台山で会う【山口1988:xiv】[6月 チベット暦4月]大谷光瑞、五台山のダライラマのもとへ弟の尊由を派遣。会見の通訳はおそらく寺本婉雅【TADA1965:47】
    • [8月 チベット暦6月]皇帝特使のロシア公使の訪問。王子誕生祈願を依頼される【TADA1965:48】
    • [9月 チベット暦7月]清朝より正式な北京招待を受ける【TADA1965:51】
    • [9月27日 チベット暦8月3日]北京到着【シャカッパ:273】[9月27日か28日 チベット暦8月3日]皇帝の用意した輿で北京入城【TADA1965:51】[9月28日]北京到着【タイクマン:26】【GOL:49】
    • [10月14日 チベット暦8月20日]西太后・光緒帝と会見【TADA1965:51】
    • [10月25日 チベット暦9月1日]雍和宮で法要司宰。皇帝と西太后も臨席【TADA1965:51】
    • [11月3日]西太后と会見し、名誉(honors)と称号などを贈られる【GOL:49】[11月]西太后と会う【山口1988:xiv】西太后、光緒帝と会見【ダライラマ1989:415】
    • [11月3日]清朝より新しい称号授与。皇帝の忠実で従順な在外使臣と任じられ、すべてについてアンバンを通じて皇帝に建白建議し皇帝の御意を謹んで待つよう命じられる【タイクマン:27】
    • [11月28日 チベット暦10月5日]光緒帝・西太后の弔問へ【TADA1965:52】
    • [12月2日 チベット暦10月9日]光緒帝の後継者を選ぶよう請われ、溥儀を指名【TADA1965:52】
    • 在北京日本公使館に約1週間滞在【TADA1965:51】
    • [12月21日 チベット暦10月28日]北京発【TADA1965:55】[12月21日]北京発【タイクマン:28】 [年末]西太后没後、帰国の途につく【山口1988:xiv】

1909  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [2月19日 チベット暦12月29日]クンブム寺着【TADA1965:55】[春]西寧着【タイクマン:28】
    • [2月20/21日 チベット暦1月1日]新年を祝う。34歳に【TADA1965:55】
    • [3月6日 チベット暦1月15日]ラサへ向けてクンブム寺出発【TADA1965:55】[夏]アムドからラサへ向けて出発【GOL:50】
    • [7月か8月 チベット暦6月]ナクチュカの化身ドゥプカンを訪ね、シャプテン寺に滞在【TADA1965:55】
    • [12月]趙爾豊軍がラサに迫っていることを知り、ラサヘ戻る途上で中国とイギリスへアピール【GOL:51】チベット政府、欧米諸国および中国へ電文【タイクマン:41】
    • [11月]ラサ帰還【タイクマン:28】[チベット暦11月9日]ラサ入り。2日後ポタラ宮へ【シャカッパ:274】[12月末 チベット暦11月半ば]ポタラ宮着【TADA1965:56】[12月25日]ラサ帰還【GOL:50】[12月]ポタラ着【山口1988:xiv】ラサ帰着。チベット国民、彼に新しい印璽を贈る【ダライラマ1989:415】ラサ帰還【BELL1946:82】チベット人より新たな印章を贈られる【BELL1946:150】
    • パンチェンラマに合流を求める。しかしパンチェンラマは拒否【GOL:63】
    • 駐蔵大臣聯豫に清軍の撤退を要求【ダライラマ1989:415】

1910  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [2月12日 チベット暦1月3日]避難準備のためノルブリンカへ【TADA1965:56】
    • [2月12日]インドへ【GOL:53】【タイクマン:30,42】[2月]インドに亡命【山口1988:xiv】インド亡命を決め、ラサを離れる【BELL1946:82】夜間脱出、インドに向かう。ティ・リムポチェ・アワン・ロザン・ツェモンリン(Tri Rimpoche Ngawang Lozang Tsemonling)を摂政に任命【ダライラマ1989:416】
    • [2月13日 チベット暦1月4日]チャクサムの渡し着【TADA1965:57】
    • カリンポン着。ブータンのカジウゲンに迎えられる【TADA1965:57】
    • [2月24日]ダージリン到着【タイクマン:28】ダージリンでインド政府の国賓として歓待を受けた後、そこに住まいを借り滞在【TADA1965:57】
    • [2月25日]中国、ダライラマを再度廃位。ダライラマへの非難をこめて、ラサの町に告示【GOL:50、52-53】清朝、勅令を発布してダライラマを廃位【タイクマン:29】清朝は第13世ダライラマの廃位を宣言、後日、復位を要請【ダライラマ1989:416】清朝、ダライラマを廃位し、パンチェンラマの摂政就任を図るが、パンチェンラマは拒否【TADA1965:58】
    • [3月14日]カルカッタで総督ミントー卿と会見【BELL1946:94】[3月]カルカッタでインド総督ミント公と会見【ダライラマ1989:416】
    • [5月?]チャールズ・ベルを通じて「英国はチベットと中国の問題に介入しない」旨の通知を受ける【BELL1946:100】
    • [9月]アンバンからダライラマへ、政治的権限を持たないことを条件に帰国を認め、罰しないことを提案。ダライラマは拒否【GOL:54】ダライラマの廃位を宣言したのは間違いであったことに気がついた中国側は、羅長琦をダージリンに派遣し、ダライラマに復位を申し出、チベットへの帰還を要請するよう駐蔵大臣に命じた。中国人官吏は1910年9月に到着した【シャカッパ:288-289】

1911  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [2月]インド・ネパールの仏跡めぐりへ【BELL1946:123】[チベット暦12月3-25日]インド・ネパールの仏跡めぐりへ【CHMO(11):205-206】
    • (~1913年)パンチェンラマに中国軍追放への協力を求めるが、パンチェンラマは求めに応じず【GOL:63】

1912  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [3月]カリンポンで多田等観謁見【多田1999:7】多田等観、ダージリンで亡命中のダライラマに謁見。トゥプテンゲンツェンという名とチベット入りの正式な許可をもらう【TADA1965:88】
    • [~4月]インドからラサでの軍務局(War Department)創設を命令【GOL:59】
    • [6月]ラサへ向けてインド出発【TADA1965:60】チベットへ向けてカリンポン出発【BELL1946:131】
    • [チベット暦5月]チベットへ帰還へ向けて,まずチュンビに滞在【GOL:59】カリンポン発帰国の途へ【ダライラマ1989:416】
    • [10月]青木文教、帰国途上のダライラマに会う【山口1988:xiv】 [10月28日]袁世凱より復位の知らせあり。受け入れる意思のないことを表明【GOL:58】中華民国大総統、ダライラマの復位を告示【タイクマン:31、55】袁世凱、チベットが中国に属すことをダライラマが認めたと、事実を歪曲し布告【TADA1965:61】ラサへの途上、復位を認める袁世凱からの電報着。受け入れず、自らチベットの支配者であることを宣言【TADA1965:61】
    • [12月?]C.ベルの勧めにより、4人の貴族子弟をヨーロッパ留学に派遣【GOL:158-159】
    • カリンポンで青木文教に謁見【TADA1965:87-88】

1913  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [1月]ラッサに帰る【山口1988:xiv】【ダライラマ1989:416】【GOL:59】【TADA1965:60】
    • [チベット暦1月8日]全チベットの官吏と人民に布告を出した【シャカッパ:304】[1月8日]チベット独立宣言発布【ダライラマ1989:416】[3月]「五カ条宣言」布告【山口1988:xiv】
    • [7月]多田等観、ブータンを経てチベットの首都ラサに入る【多田1999:231】多田等観、ブータン経由でラサ着。ダライラマに謁見。ダライラマの指示でセラ寺チェー学堂ケーマン・タツァンのハムドン・カムツェンに入り、以後10年を過ごす【TADA1965:88-89】
    • チャンパテンダーやナムガンをアドバイザーに、軍の増強・近代化を図る【GOL:66】
    • 寵臣のナムガンにザサー位を授与【GOL:66】
    • パンチェンラマに対し、1888年の対イギリス戦以降の戦費負担(穀物2.7万ケー)を要求。パンチェンラマはこれを認めず、小額のみ支払い【GOL:111-112】

1914  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • 河口慧海、2度目のチベット入り。ダライラマの謁見はかなわず、入蔵の理由を書いた書面を提出【TADA1965:90】

1915  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • 1908年五台山での約束通り、(西本願寺に)チベット大蔵経を贈る【TADA1965:48】
    • ノルブリンカで数千人を前に10日間ラムリムチェンモを講ずる【TADA1965:64】

1916  

  • ナムタルの記述
  • その他

1917  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • ラサ医薬暦算所(lha sa sman rtsis khang)設置【CHMO(13):63】

1918  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • 3年の瞑想修行に入る【TADA1965:64-65】

1919  

  • ナムタルの記述
  • その他

1920  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [11月]C.ベル、ダライラマの招きを受けてラサヘ。中国との境界を守るためには1.5万の兵が必要と、ダライラマに提言【GOL:93】【GOL:226】
    • ラサ版「チベット大蔵経」開板【ダライラマ1989:417】

1921  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [1月25日]C.ベルに対し、国民議会が1.7万まで兵を増強することを発議したことを伝達。この発議によりラサは不穏な状態に【GOL:95】
    • [2月8日]僧と軍との間で戦闘が発生するという噂に、財産を疎開させようとするラサ市民に対し,そうした行動を禁止【GOL:95】
    • [3月半ばから後半]デプン寺僧らがノルブリンカで乱暴狼藉をはたらき、ダライラマやポタラ宮官房長官に対し抗議ツァロンに命じ,デプン寺に抗議行動の首謀者引渡しを要求【GOL:105】
    • 英国王より馬車3台を馬と御者セットで贈られるが、チベットの英国に対する不信を助長する結果に【TADA1965:71】

1922  

  • ナムタルの記述
  • その他

1923  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [チベット暦1月?]非公式にマクガヴァン謁見【マクガヴァン:】

1924  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [10月頃]ノルブ・トゥンドゥプに「ラデンラがマクドナルドの後任としてヤトゥンの通商部代表になると聞いたが、そうならないよう取りはからってほしい」と依頼【GOL:134】

1925  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [1月]警察上層部を降格処分【GOL:134-135】
    • [4月1日頃]ツァロンを軍総司令官からの解任【GOL:136】
    • ノルブ・トゥンドゥプの新兵訓練の援助申し入れに応じず【GOL:137】
    • ツァロンに代わってルンシャーが大きな権力を握る(-1931年)【GOL:162】

1926  

  • ナムタルの記述
  • その他

1927  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • 蒋介石より,統合参加の呼びかけを受ける【山口1988:xiv】北京擁和宮のチベット人僧正クンチョク・ジュンネ(Kunchok Jungnas)帰国の際、蒋介石総統より,チベットが中国の一部となれば全面的援助を与えるという第1回目の書簡を送られ,拒否【ダライラマ1989:417】北京雍和宮貫主クンチョク・ジュンネーがチベットに戻る際、蒋介石の親書を預かってきた。「チベットが中国の一部となることに承諾するならば、ダライラマに全面的援助を与える。また、いかなる条件もつけずにパンチェンラマを送りかえす」とあり、「中国との友好関係は歓迎するが、チベットを中国の一部とするという提案は拒絶する」と返書【シャカッパ:329-330】

1928  

  • ナムタルの記述 [#b328e589]
  • その他
    • [5-6月]シッキム政務官ベイリーより、ダライ・パンチェン両ラマの仲介の申し出あり。「シムラ条約により、イギリスはチベットの内政に関与すべきでない」と回答【GOL:253-254】

1929  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [末]蒋介石、北京雍和宮のクンチョー・ジュンネーを通じ、ダライラマとの接触を図る【GOL:214】

1930  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • 劉曼卿が蒋介石からの親書を携え、ラサを非公式訪問【シャカッパ:330】
    • 最初のアメリカ人カッティング(Suydam Cutting)ラサ訪問【ダライラマ1989:417】
    • ツァロン、大臣から降格【GOL:136】

1931  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • 新設のタプチ電機局の局長にクンペーラを任命【GOL:151】
    • ルンシャー、軍司令長官から解任(財務長官職はそのまま)【GOL:164】ルンシャル、ダライラマの承認を得ずにシェルパ・ギャルポをラサのネパール代表部で逮捕するという不始末をして軍司令官の職を解任【シャカッパ:339】

1932  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • [8月]中国との調停をイギリスに依頼。ワイア(J.L.K.Weir)をラサに招聘【GOL:222】
    • [10月9日 チベット暦8月10日]シッキム政務官ワイアの勧めにより、パンチェンラマに帰還を求める手紙を送付【GOL:255-256】
    • 帰還を条件付で許可するとパンチェンラマに回答【シャカッパ:345】

1933  

  • ナムタルの記述
  • その他
    • レティン寺を訪問【GOL:188】
    • [1月26日]チベット帰還に関する協議のための要員をラサに派遣すると、パンチェンラマより回答あり【GOL:256】
    • [12月17日 チベット暦10月13日]風邪をひき、それをこじらせて歿した【シャカッパ:335】[12月17日 チベット暦10月30日]没。午後6時30分頃。享年58【GOL:141-142】没【TADA1965:97】[12月17日 チベット暦11月13日*3]崩御の悲しむべきニュースが伝わった【タリン1991:217】[12月]死去【ダライラマ1989:418】ダライラマ13世没【山口1988:xiv】
    • [12月21日? チベット暦11月4日]遺体に最後の敬意を表するため、全官吏、三大寺学堂長がノルブリンカのジェンセー宮殿へ【GOL:166-167】

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