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〜 GC_chronology 〜


GC年譜  

ゲンドゥンチュンペー(dge 'dun chos 'phel)の年譜を作成しています。

  • 左端の年号は西暦に統一しました。
    • 西暦と蔵暦でずれのある時期は,西暦を中心に事項を配置しています。従って,蔵暦でまだ正月になっていなくても,西暦で新年を迎えた後の出来事であれば,西暦の新年のほうに事項を記載しています。
  • 年齢表示は数え年です。
  • 蔵暦または西暦の右肩にアスター*がついている年号は,暦相互変換WHENに基づくものです。他の文献も使って確かめる必要があるかもしれません。

アムド時代  

西暦年齢出来事
19031蔵暦3月23日(西暦4月20日)*1,アムド,レプコン,ショオン村の密教行者アラク・ゲーボ(a lags rgyal po)とペマキー(pad ma skyid)の間に生まれ,リンジンナムゲーと名付けられる。
19064このころ父とシャプカルワ二世の先生にあたる人からチベット語の正書法,文法,詩を学び始める。
ドルジェタク寺(ニンマ派)の活仏ジンミーソナムナムゲーの転生者に認定される。
両親に村のニンマ派の寺,ヤマ・タシキル寺に入れられ,出家,仏教の勉強を始める。【杜2000】
19108このころ父の死*2 *3
19119実家で過ごす【杜2000】
191210ヤマ・タシキル寺に戻り,沙弥戒を受ける。【杜2000】
191715このころゲンギャにおいてニンマ派の高僧カギャ・テルトゥン・ラマのもとでニンマ派の経典を学び,灌頂を受ける。【杜2000】
化隆のゲルー派の寺,ディツァ寺に入り,比丘戒を授けられる。法名としてゲンドゥンチュンペーと名付けられる。【杜2000】
192220このころディツァ寺を離れ,ラプラン・タシキル寺に入る*4
192624ラプラン寺の大法会において最も優秀な学僧と認定される。【杜2000】
192725蔵暦?3月,ラプラン寺を離れ,故郷に戻りヤマ・タシキル寺で一ヶ月を過ごした後,隊商に同行して中央チベットへの旅に出る(いったんクンブムに逗留?)。【杜2000】

ラサ時代  

西暦年齢出来事
192826蔵暦?3月6日,クンブム寺を出発。【杜2000】
蔵暦7月,ラサに到着。ラサの商人クンジョーノルブのもとに身を寄せる【杜2000】
192927デプン寺ゴマン学堂に入学し,ラサを離れるまで研鑽を積む。
193432ラサでラーフル・サーンクリッティヤーヤンと出会う。(ラーフルのラサ到着は西暦5月19日,ゲシェー・シェーラプギャツォのところで初めて出会ったのが西暦6月20日【Stoddard1984:167】*5
ラーフルとともにペンボやレティンを訪れ文献及び遺跡調査。
ラーフルとともにツァン地方を経てネパール,インドへ向かう。(世界知識行)
ラーフルのもとでサンスクリットの学習も開始。(世界知識行)

インド・スリランカ時代  

  • メモ(そのうち年譜に挿入します)
    • ダージリンでチベット語の教師をしていたというのは,Bhutia BustyにあるY.M.B.A. (Young Men's Buddhist Association)の学校。【Kirti2003】
    • 1935〜36年頃,『入菩薩行論』をダージリンで出会ったジニラシとともに英訳。【Kirti2003】
西暦年齢出来事
193432「この年の蔵暦10月18日(西暦12月5日*),ガンジス川の水を飲む」(世界知識行)
193533ダージリンでサンスクリットを学ぶ。【杜2000】
シッキムで英語を学ぶ。【杜2000】
ダージリンに戻りチベット語教師をつとめる。【杜2000】
193634カリンポンでタルチンの新聞に三編の文章を寄稿。【杜2000】
故郷の母に自らの写真を送付。写真の裏に,「ゲンドゥンチュンペー34歳の3月25日にインド東部ベンガルにて撮影」と記されている。
193735敦煌文書の書写および現代語訳+解説の執筆。*6 この頃ジャック・バコーとの出会い?*7
ラーフルの手配でパトナ博物館附設図書館所蔵のチベット語文献の目録作成に従事。【Stoddard1985】
『インド聖地案内』執筆。【Huber:13】
193836《チベット調査旅行》ラーフル他二名のインドのカメラマン,画家に同行し,サキャ寺などにおいて遺跡,文献調査(5月4日〜9月25日,Bihar and Orissa Research Societyにより6000ルピーの資金援助)。
10月2日,シッキムのガントクに到着。
193937蔵暦11月下旬(西暦1月初め*),マトゥラーにて『愛欲の書』脱稿*8
『インド聖地案内』がMaha Bodhi Society*9によって出版される【SamtenNorboo】
とあるアメリカ人にニューヨークへ招待されるも渡米成功せず【Karmay1980:145】
194038クルにてジョージ・レーリッヒとともに『青冊』の英訳を開始【杜2000】
Maha Bodhi*11に三つの英語論文を発表
194139『バガヴァットギーター』チベット語訳がダージリンのRam Krishna Vedanta Ashramによって出版される*12【SamtenNorboo】
Maha Bodhiに二つの英語論文を発表。
Maha Bodhi Societyに派遣され,ラーフルとともにスリランカに渡る【杜2000】
スリランカ滞在中サンスクリット大学でサンスクリットを学ぶ。【Horkhang】
スリランカ滞在中dpal ral gri'i ri bo'i dgon paにて『ダンマパダ』翻訳に着手。
スリランカ滞在中bye can gyi dgon paにて『世界知識行 黄金の平原』脱稿。
1942402月30日クルにて「唐書吐蕃伝・ソンツェンガンポ等について」脱稿。
同年3月16日?「唐書吐蕃伝・ティソンデツェン等について」脱稿。
194341蔵暦2月25日(西暦4月10日*)「中国の史書に現れたチベットの王統について」脱稿。
194442蔵暦6月5日*(西暦7月15日)クルにて『ダンマパダ』の翻訳を完成(ダンマパダの奥書に1944.7.15と記されている)。
194543パンダツァン・ラプガらと知り合う。【Stoddard1978:22】
『インド聖地案内』増補改訂版執筆*13。【Huber:13】
インドを出国(11月にカリンポンを出発)。タワン,ツォナを経由してラサへ向かう。

ラサ時代:晩年  

西暦年齢出来事
194644蔵暦11月12日*(西暦1月4日),ラサ到着(1946年1月4日はイギリスの記録【Stoddard1978:22】*14
カプシュー家やサムドゥプポタン家などの貴族の家々からもてなされる。
クンデリンからワンデンペンバーの住まいを無償で提供される。
ゲシェー・チューキタクパの紹介でホルカン・ソナムペンバーと出会う。【Horkhang】
ラチュン・シェーラプギャツォ,ラクラ・リンポチェらと親しくなる
蔵暦2月(西暦4月*),ホルカン・ソナムペンバーとともにラサ近郊のラマガン,ウシャンにて碑文調査。その後,『白史』の執筆を開始。
『ダンマパダ』チベット語訳がAnagarika Dharmapala Trust Publicationによって出版される【SamtenNorboo】
蔵暦4月30日(西暦6月29日*)*15,ラサの自宅ワンデンペンバーで突如逮捕され,ナンツェシャーに投獄【Horkhang】
194745ナンツェシャーで過ごす。
蔵暦11月30日(西暦1月11日*),ホルカン・ソナムペンバー宛てに『白冊史』に関する指示の手紙を送る。
蔵暦1月(西暦2月),大祈願祭の時期にシュー局の牢獄に移送【Chapel】
194846シュー局で過ごす。
194947シュー局で過ごす。
蔵暦9月22日(西暦11月12日*),チャムドに駐在中のホルカン・ソナムペンバーによって『シャクンタラー』チベット語訳が木版出版される。
195048シュー局で過ごす。
『インド聖地案内』の増補改訂版が出版される*16【Huber:13】
蔵暦10-12月?,ダライラマ14世即位*17後に行われた恩赦の際に釈放。デプン寺のルンブム学寮が正式な身元引受人となる。【Horkhang】
195149カプシュー家で1〜2ヶ月間,チャムド出身の妻ユドゥンと共に過ごす。
政府から『白史』の残りを書き上げるよう指示があり,このために給与および農務局所有の建物ガルシャーの三階に部屋を提供される。【Horkhang】
西暦8月(蔵暦6月*?),人民解放軍のラサ到着を見物。解放軍の軍医の診断を受けるが絶望的と言われる。
蔵暦8月14日(西暦9月14日*)午後4時,ガルシャーにて死去。【Horkhang】
コンジョのラマたちによって法要が執り行われ,パボンカで荼毘に付される【Blachung】

ゲンドゥンチュンペー没後  

西暦年齢出来事
1952蔵暦12月初頭,ゲンドゥンチュンペーの弟子ダワサンボが,ドゥンジョム・リンポチェから援助を受けてまとめたゲンドゥンチュンペーの口伝からなる思想書『龍樹の思想の飾り』が完成する(奥書より)


関連事項  

GCの生年について  

GCの生年については諸説あるが,既に複数の研究者が指摘している通り,1903年生まれといって良いようである。根拠はGC本人の著作『世界知識行』に,「私が32歳になったチベット暦第十六ラプチュンの甲戌の年にインドに到着した」とあることから計算すると1903年とほぼ推定されるということになる。上掲の年表も1903年説をもとに作成している。

また,生年月日については,杜によると,蔵暦3月23日の生まれだということが明らかになった。杜が1997年ラサに調査に赴いた際,ホルカン・ソナムペンバーの息子のチャンバテンダーが,『実用梵英辞典』の扉にGCの肉筆で「蔵暦3月23日生まれ」と記されていたという「大発見」をしたとを知らせてくれたという。【杜2000:48-49】

諸説あるというのは伝記の作者によって異なるということで,例えば,

  • ラチュン・シェーラプギャツォは自分と同い年だったとしてGCの生年を1905年としている。
  • ラクラ・リンポチェ(テントン)は,GCの亡くなったときに自分が26〜27歳で,GCが54〜55歳くらいだったので,1899年か1895年の生まれではないかとしている。【Tethong:15】

GCが最初に修行した僧院について  

  • Stoddard1985はディツァ寺に入る前にロンウォ寺に入ったと記述している。
  • ラクラ・リンポチェによると,「ロンウォ寺(原文ではreb kong dgonとあるがこれってロンウォ寺のことよね?)では仏教に入門しただけで,最初に学問をしたのはディツァの山寺だったようだ」(reb kong dgon du chos zhugs mdzad tsam las/ thog ma'i gsan bsam mdzad sa ni dh'i tsa ri khrod rang du yin dug/)【Tethong:16】
    • とすると,やはりロンウォ寺には入ったことがあるということかな?
  • ラチュン・シェーラプギャツォはクンブム・チャンバリンで修行したと記しているが,MengeleによるとGCがクンブムについて記した英文論文を読む限り,その可能性はかなり低いという。

GCは誰の転生と認定されたのか?  

伝記の作者によって見解が一致しないので,まずは整理する。杜永彬が様々な資料を読んだ上でGCの親戚にインタビューして得た情報が最も合点がいくような気がするので,ここではまず杜の記述を紹介し,続いて他の伝記や論文に記された記述を紹介する。

杜永彬2000:42-44  

GCの親戚にインタビューしたところによると,

  • GCの父アラ・ギェーボはニンマ派の寺の活仏であった。
  • 巡礼と勉強のためにラサに行ったときにシャプカルワ二世とドルジェタク寺(タナンのドルジェタク寺)のケンボ・ジンミーソナムナムギェー(他の箇所でジンミーソナムドルジェという記述も。ドルジェタク活仏)と知り合った。
  • アラ・ギェーボが帰郷する際ドルジェタク寺のケンボもレプコンまで同行し,ヤマ・タシキル寺で二年間を過ごした。
  • ケンボがアムドを離れる前に,「レプコンの閻魔王明主?のタンカが欲しいから,あなたがたご夫婦が来年チベットに巡礼に来るときに持ってきてください」と言い残した。
  • GCの父がタンカを持って再びラサに行ったときにはドルジェタク寺のケンボはすでに他界していたため,タンカをドルジェタク寺に届けた。1899年のことであった。
  • それから三年間を過ごすうち,GCが母の胎内に宿った。
  • ドルジェタク寺の僧侶たちはお腹の子はきっと男の子でドルジェタク活仏の転生に違いないと言ったが,GCの父は自分の息子は自分の寺に留めるべきだと思い,すぐに帰郷した。
  • 1902年ごろに中央チベットを離れてアムドに向かったが,途中,ツォンカの有名な神山を通過する時,1903年蔵暦3月23日,山の東面でGCが生まれた。家に戻ったのはその一ヶ月後であった。
  • その後結局,ドルジェタク活仏の転生者として認定され,縁のあるヤマ・タシキル寺に入った。

Stoddard1985:138  

「カム出身のzhabs dkar tshogs drug rang grol というラマによって,ヤマ・タシキル寺の僧院長の転生者として認定されたが,寺の財政が破綻していたので,GCを転生者として叙任することができなかった。」

zhabs dkar tshogs drug rang grolについてTBRCのデータベースを検索すると,アムド・レプコンのショオン・ラカ生まれ,1781生,1851没で同じ名前の人物が掲載されている↓

http://www.tbrc.org/cgi-bin/tbrcdatx?do=so&resource=P287

Stoddardのいう人物は,さらにこの人の転生者に認定されたカム出身の人,ということになるのだろうか? ちなみに,Mengeleによると,シャプカルの自伝がMatthieu Ricardによって翻訳され,出版されている。

Kirti Rinpoche1983:50  

「mkhas dbang 'jigs med bsam gtan rin po cheによって,rdo brag sprul skuと認定された。rdo brag sprul skuとはニンマ派の寺院rdo rje bragのラマの転生。」
↑Kirti Rinpocheの伝記は未入手につき,これらはMengele:139の情報。

ドルジェタク寺(rdo rje brag e wam lcog sgar)は,16世紀末,現在のロカ地方のタナン(gra nang)県に建立されたニンマ派の寺院。

hor khang bsod nams dpal 'bar  

「rdor grags sprul sku(ヤマ・タシキルのラマ)の転生者として認定され,ヤマ・タシキルに入門した」

このrdor gragsは,Kirti Rinpocheの言うrdo bragとは綴りが違うが,おそらくrdo rje bragの誤りであろう。発音は同じ。

rdo rje rgyal1997  

現在GCの生家で暮らす親戚の話では,ドルタクの転生者として認定されそうになったが,それには父親が反対して結局は受けなかったという。三浦さん情報。
(杜の情報と一致する)


マハーボーディ・ソサエティとGC  

  • 神智学協会(オルコット大佐,ブラヴァッキー女史)とダルマパーラの出会い(1880年)
    • オルコットのスリランカにおける活動
      • 仏教徒神智学協会(The Buddhist Theosophical Society)を設立(ダルマパーラの祖父が総裁を務めていたことも)
      • 1881年7月,『仏教教理問答』(ブッディスト・カテキズム) を執筆
      • 1885年4月に制定された『五色の仏教旗』の普及にも努める
  • ダルマパーラの仏教復興活動
    • 仏教徒神智学協会の活動に没頭→シンハラ・ナショナリズム「ランカーの獅子」独立運動へ
    • 仏教復興と普及のため,マハーボーディ・ソサエティ設立(1891年)
  • マハーボーディ・ソサエティの活動
    • ブッダガヤ,サールナートなど古代インドの仏教遺跡の復興と世界各国の仏教徒の巡礼を振興
    • ブッダガヤをヒンドゥー教徒から仏教徒の手に取り戻す活動
    • 仏教徒のインド巡礼を振興するための出版活動(GCの『インド聖地案内』の出版)
      • 1930年代,現代仏教徒翻訳プログラム(ラーフルの『ダンマパダ』サンスクリット・パーリ語対照のヒンディー語訳がこのプログラムを通じて出版。GCの『ダンマパダ』チベット語訳とその出版もこの活動とおそらく関係がある)
  • GCとマハーボーディ・ソサエティ
    • GCをインドに誘ったラーフルがマハーボーディ・ソサエティの現役会員であった
    • マハーボーディ・ソサエティの雑誌『マハーボーディ』に六編の英語論文および詩を寄稿
    • マハーボーディ・ソサエティから『インド聖地案内』出版

神智学協会およびダルマパーラについては「大アジア思想活劇」に基づく。マハーボーディ・ソサエティとGCの関連については【Huber】の記述に基づく。


*1 GCの遺品の中に,ジョージ・レーリッヒから贈られたサンスクリット-英語辞典があり,その中に「3月23日,私の誕生日の日に ゲンドゥンチュンペー」というメモが残されていることから誕生日が明らかになった。この辞典はGCがホルカン・ソナムペンバー氏に形見として託したものの一つであるが,現在はGCの甥にあたるユンドゥンジャ氏のもとに送られ,同氏が保管している。杜2000:48-49も参照されたい。杜がこの日を西暦4月20日と同定している。
*2 Tethong:15-16によると,GCは「私が幼いとき,父が亡くなる前に,『虹がたくさん出て,女の人がたくさんやってきて,父さんを連れて行く』と言ってひどく泣いたのだと母に言われたがよく覚えていない」と語ったという。
*3 この年号は【杜2000】による。1909年説もある。
*4 19歳の時,という説もある【杜2000】
*5 これらの情報は,ラーフルの自伝に記されている。
*6 奥付に仏滅紀元2480年執筆とある。これは西暦1937年を指す。
*7 "Tibet Sacred Realm"p.148に,バコーについて書かれているが,ここにはバコーがヒマラヤ地域を訪れたのは1930-1931年だと記されている。この後にも訪れているのでなければ話は合わないが...
*8 杜2000:240は1938年の2月に書き上げたとしているが,原文の"stag gi lo dgun zla 'bring po'i smad la"(寅の年の冬の二番目の月)を見ると,蔵暦の"dgun zla"とは10〜12月を言うので,「冬の二番目の月」は11月ということなり,そうすると,「戊寅の冬の二番目の月」はおそらく1938年ではなく1939年の初頭と考えられる。なお,杜の1938年説はHopkinsがstag gi loを1938年としているのに依拠しているものと考えられる。
*9 スリランカのダルマパーラ*10によって1891年に創立された仏教団体。本部はブッダガヤ。現在では、その支部はカルカッタなどのインドの諸都市のほか,スリランカ,イギリスなどにも設置され,上座部仏教の伝道普及のためのセンターとなっている。【南アジアを知る事典:698】
*10 Anagarika Dharmapala,1864-1933。イギリス植民地化のスリランカで,仏教復興運動を展開し,シンハラ人の民族意識を飛躍的に高め,独立への道を大きく切り開いたとされる僧【南アジアを知る事典:440】
*11 Maha Bodhi Societyによって刊行されていた雑誌。
*12 ラーマクリシュナ・ヴェーダンタ協会の支部が果たしてダージリンにあったのか?
*13 1950年ガントクで出版。
*14 1945年という記述も見られるが,イギリスの記録をもとに,チベット暦に直すと第16ラプチュン乙酉年11月1日となる。西暦では新年を迎え,チベット暦では旧年のままという時期なので,1945年という記述はこの辺りに由来しているのではないか。
*15 ホルカン・チャンバテンダー氏の情報によると,ホルカン自身の記録では,逮捕された日はおそらく蔵暦4月30日ないし翌5月1日。((逮捕日については決まった記述がないが,逮捕日に同行していたホルカンの記録が最も正確ではないかと思われる。
*16 1945/6年に行った増補,改訂【Huber:13】
*17 蔵暦10月8日【PHUNTSO】=西暦11月17日

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