[starLab] [starLab] [aa]
 

〜 GC_horkhang_1 〜

認識ちゅん平会? >> GC_horkhang >> GC_horkhang_1

第1章 アムドに生まれ,中央チベットに赴いたことなどの行動の概略について 

[1-01] p.525 

先生の故郷はアムド,レプコンのショオンという村で,密教を修めるゲーボ・ラマという血統として知られる家に,チベット暦の第十五ラプチュンの癸卯(西暦1903)年に,密教行者ドルジェという名ないしアラク・ゲーボという名の父と,ペマという名の母の息子として生まれた。父は先生が幼少の頃に亡くなったが,母は長く生きて,先生はその肖像も肌身離さず身につけていた。先生は若い頃から優秀で,ドルタク活仏(ヤマ・タシキル寺のラマ)の転生者として,村のヤマ・タシキル寺に入門した*1。(星)

[1-02] pp.525-526 

十五歳のころ,丁巳(1917)年の前後,シャマル・パンディタ*4の寺であるディツァ寺*5において仏教哲学などを学んだ。その後,ラプラン・タシキル寺*6で学び,仏教哲学の授業で仏教基礎学,精神認証学,証因論理学など,波羅密多学の初段階までの修養を完全なまでに極め,学問に優れているとの名声が非常に高まった。そのころ先生は問答*7の際,あまりに才気鋭く,ジャムヤンシェーバの著作*8にある考え方も認めなかったので,普通の学問僧たちは驚き,彼は直接間接にあらゆる面でかなり妬まれた。そこで彼は,チベット行きを勧められたので,二十歳のころ,丁卯(1927)年の前後,ラサに向かった。ラサに到着後すぐに,商人クンジョーノルブ*9のもとに身を寄せ,宿主の勧めを受けて,パボンカ*10の肖像を描きに,パボンカのもとへ出向いた*11。パボンカはその才能を誉めたたえるだけでなく,当時はダライラマ十三世の名声と権威が高かったので,[そのような立派な肖像を持っていては]お咎めを受けるのではないかと思い,もっと大きな[ダライラマの]肖像画を描くように依頼した。[先生はその命の通りに]肖像画を描いたところ,それ以来パボンカに大切に手厚くもてなされるようになった。それからデプン大僧院に入り,学堂はゴマン,学寮はルンブムであった。先生は,デプン寺でゲシェー・シェーラプギャツォなどに師事して修業し,学問に優れているとの評判があらゆるところに広まった。

その当時タシキルにいる同窓の修行僧たちにこのような折句を送っている。 (星)

[1-03] pp.526-527 

ええ,私が他の場所へ行った後
おしゃべり好きな僧侶たちは
ネーチュンのティンレーゲーボ*12
[私が]たいそう思い上がっているから[ラプラン寺から]追い出した*13と言うが

まともな護法神なら,
見知らぬ土地でもどこへでも出かけては
茶や酒,牛,羊を商う
汚れた者たちを,どうしてとどまらせることがあろう。

多羅樹の葉のごとき袈裟の裳をたくし上げ*14
最低の道具である鉄刀を持つ者たちは
すぐにでも他のところへ追い出すべきなのに
[そういう輩は]最近ますます多くなっている。*15

[私は]純白の信仰がないために
ほかの土地へ追われたのだと一部の者らが言うが
牛やゾとゾモ,鳥や虫など
不浄な有情たちは,なぜ追い出されないのか。

四本のきばを持つネーチュンらは
暑さ寒さを滅して勤勉に
勝者(仏)の教えを学ぶ者たちを
理由なくほかへ追い出すわけがない。

きれいな帽子,服,靴を身につけた破戒者と
衣食とも劣る破戒者とは
われわれが見れば違って見えるが
仏陀がご覧になればいずれも同じ。

因明学を学んだ生意気な人間*16
ほかの山谷へ追い出すのなら
屠畜や肉の商いをする裕福な連中が
この土地にいっぱいになるだろう。

ははは,正しいかどうかは自分で考えなさい。
僧侶やゲシェーたちに詳しく尋ねなさい。

このようなことを語る者もまた凡夫である。

サンガ・ダルマ明王*17なる者が記す。 (ドゥクタルジャ+浅井)  

  • この詩の異本(ホルカン版とシェーラプギャツォ版)の比較→認識ちゅん平会?のテキスト欄へ

[1-04] pp.527-528 

そのようにデプン寺に5,6年ほどいらっしゃる間に,仏教論理学の勉強にひたすら励まれた。しかし,前と同じように,ジャムヤンシェーパの書いたものに疑問を投げかけたために,モンゴル人の学問僧の一グループが腹を立てて,先生をさんざん殴るなどのことがおきたため,そこに居られなくなりそうになった。ちょうどそのころ,ラサにインドのパンディットでラーフル*18という名の,黄色い僧衣をまとい,比丘の姿をした方が訪れていた。ラーフルは,先生が一方ならぬ博識の持ち主であるという名声を耳にして深い感銘を受けた。インドでは以前から,外道によって仏の教えが滅ぼされ,完全に失われてしまったため,チベットの経・論をサンスクリット語に逆に翻訳しなおさなければならない。その特別な目的のために[チベットを訪れていた]ラーフルは,先生に「今日に至るまで,インドとチベットの翻訳者たちが,互いに行き来することが途絶えて久しい。だからあなたがインドにいらして,サンスクリット語を勉強され,将来,翻訳者をなさいませんか。もしそうお考えになるなら,私と一緒にインドにいらしてください」と申し出た。先生はそれを受け入れて,インドとセイロンに赴かれた。*19 (三浦)

[1-05] p.528 

寺での学業に満足できず
インドとセイロンに赴いて
サンスクリットなどの学問の聖地において
研鑽を積むことが後世の人々のためであるとお考えになった

とも言えよう。 (大川)

[1-06] p.528 

では,先生の常の行いについて大まかなところを,私の見聞きしたことにもとづいて順に述べていきたい。 (大川)

[1-07] pp.528-529 

先生は大変学識豊かな方で,特に仏教哲学の問題について真摯な態度で中立を保った議論を行う方であった。仏陀や聖地インドの大学者,さらにチベットのサキャ派,ゲルー派,カギュー派,ニンマ派など諸宗派など[の特定の宗派に]偏らない[立場をとる]先達の智者たちをこよなく崇敬し,ひとつの宗派を信奉して他の宗派を見下すなどということはおろか,他人がそのようなことをするのもお嫌いであった。チベットの学者の一部が,チベットの古い思想家*20やポン教やニンマ派やカギュー派などにたびたび反感を示していることに対しても,気に入らないという態度で

ばらばらのものをわざわざ分けたうえ
よその宗派を的として並べて武器で刺し貫き
自分の側の学者を戦神の軍と称えても
相手方の英雄をまだ殺したことにはならない*21

とおっしゃって,宗派や哲学のこだわりを一掃して,他宗の敗北者に力強い後ろだてと慰めを与えられた。 (大川)

[1-08] pp.529-530 

先生は世間八法の戯論*22を排し,見かけはごく普通の人に見えるよう実践しており,外見からは本当に仏教者だろうかと思われるような様子だったので,デプン寺ゲーバ学堂の元学堂長ジャンベーティンレーが冗談で「あなたの態度はまるで外道のようだ。仏陀は外道とは親しくするなとおっしゃっているので,今後あなたは私のところに現れないでください」と言った。すると[先生は]「私が外道であるかどうか,我が家に見に来られたし」と言うので,ジャンベーティンレーが先生のところを訪ねると,先生の枕元には小さな携帯用の釈尊像*23が本尊として安置されており,口頭でも「私はあなた方のように仏法を喰らう者ではない」と冗談めかしておっしゃったという。 (大川)

[1-09] p.530 

仏教哲学については,先生はとても関心を持っておられた。[先生の教えを受け]ダワサンボ が口述筆記した『龍樹の思想の飾り』 という著作*24は高く評価するむきもあるが,論争のネタにしたりする宗派もあり,それについて私は,ここが正しいとか正しくないとか分析するに耐える縁を持ちあわせていない。しかし先生はいつも論理の問題についてできるだけ正しく,かつ念入りな見方[をしており],それに基づいてみれば,その著作は[まさに]龍樹の思想の飾りとなっており,表題通りのものであるのは無論のことである。だが,[先生は]今の時点でほかの見方に反論しておられない。このことについては

実り豊かな木*25が誇らしげに輝いている時
この世のおろかな子供が石を投げたりふりかざしたりするが
この大きな木はそれに動じることもなく
さえぎるもののない法性を考え禅定に入っている

とも言える。 (浅井)

[1-10] p.530 

先生はいつも見えないところで本を読み,一心に観修*26にふけっているようだったが,その証拠が「ものの見方については,たとえば分析対象を土壁にたとえてみるならば,それを突き破りむこう側へ出て,もう一度こちらを見て分析が終わる」とおっしゃったことなどに表れている。 (浅井)

[1-11] pp.530-531 

また,密教のえせ修行の類は決してなさらず,それを好まないようでもあった。それについて先生は

はてのない昔から常にともにある
変わらぬ心の本質すら見えないのなら
厳格な瞑想修行によって初めて生み出される
神秘的な成就者の世界観をどうして体験できよう*27

とおっしゃった。 (浅井)

[1-12] p.531 

先生は,外見を偽ることの類を好まない方だった。自分が出家者の出で立ちをしていては,他人を騙すもとになるからと考えて,ご自身で別解脱戒を守っていない様子をはっきりと示し,一般の人と基本的に変わらないような行いばかりなさっていた。このことについて先生は,

偉くなりたいという願いのもとを火に焼いて
やりたくもない義務の僧形を灰の穴に捨て
思いのまま心のままの瘋癲のなりをして
国から国へと渡り歩く自由があれば

この世の存在の印である*28朽ちた城塞を跡形もなく破壊し
八つの極端*29を信じようとする*30こだわり*31がその場で断ち切れて
心の中に立ち上る全ては空性と心得て
心の底から安寧の喜びが生じれば

端もなければ中心もない空性の光明の中に
執することのない心の本質が一味に融合し
自らの言葉では言い尽くせないほどの*32無漏の幸せ*33
夜昼なく享受する幸運が得られれば *34

とおっしゃっている。 (星)

[1-13] pp.531-532 

他にも,進んだ世の中の流儀とも一致するが,女性を決して軽視しない人だった。この点についてはまた,

自分個人のことであれ国の公務であれ
王のまつりごとであれ乞食の生業であれ
大小のいかなる仕事をするにも
欠かすことのできぬものは女なり

と『愛欲の書』*35に賞賛のことばを記している。 (星)

[1-14] p.532 

先生は,大変慈悲深い方であった。内閣に無実の罪を着せられるという仕打ちを受けたにもかかわらず,特筆に値することとして*36,そうしたこと根に持つことなく,後に内閣の望み通りに,チベット軍の軍事演習で使う号令などを,以前は英語のみで言わなければならなかったのをチベット語にお訳しになった*37のである。 (星)

[1-15] pp.532-533 

特に強調して述べるべきは,先生自身がチベットの旧制度に対して批判的であったことと,社会の新制度のあり方に大いに関心を抱いていた点である。そしてそれらが有効なものであることについても

すべてを内部につつみ隠して深遠さを装い
すべてを疑って,賢いふりをする
一切の旧きものを神の慣わしと呼び
一切の新しきものを魔の化身とおもう
一切の驚異のものを凶のしるしそのものと考える
これぞ,法の王国チベット
これまでの我らチベットの慣わし
すべてに利する,驚くべき物質の変化(へんげ)
全てを害する不吉な変化(へんげ)
智慧の諸刃の刃
片方と親しめば,もう一方も到来すると考えよ *38

とおっしゃっている。同様に,アーリヤデーヴァの説かれたひとつの偈頌(げじゅ)

世間の有り様それぞれに
そのつど「法」は順応する
それゆえに「法」よりも
世間のほうが力を持っているようにみえる

と,[あるのを]引用なさった。先生自身,インドなどに滞在なさっていたおりに,英語でマルクス主義の書物やさまざまな科学の書物を読まれたことがあり,「このチベットにも,毛沢東がマルクス主義革命という事業を完全に達成したなら,新旧交代の時代の変化という大成果があらわれるであろう」とおっしゃったことがある。これは,将来このチベットが祖国と一致団結しないかぎり,政教合一の封建農奴制度が変化するさいに,大きな困難と多くの内紛を伴うことになると[人々に]理解させるため[の発言]だったのではないかと思う。 (三浦)

[1-16] p.533 

さて,先生は説法と問答,著述のいずれにも長けておられたが,どのような業績をお残しになったのかについて述べることとする。 (星)

[1-17] p.533 

まず,説法の時には,我々の先達の素晴らしい大上人の方々が[菩提]道次第論を説くような教え方を示すことはなかったものの,先生に師事すると,どのような難しい問題をお尋ねしても,最初はあまりたくさんお話なさらずに,徐々に質問をしていくうちに,学説の糸に連なる真珠の瓔珞の[ごとき]素晴らしい御説が尽きることなくあふれ出し,[その御説の数々を]凡夫の首飾りとして途切れることなくお授けになることをとりわけ好まれるような方だった。また,あらゆる時代の人の世の道徳規範*39から,サキャ派,ゲルー派,ニンマ派など諸宗派の戒律*40に至るまで,いずれの面からお話をなさっても,実によどみないお話振りで,数々の聞き手の喜びを持続させることができるような方だった。 (星)

[1-18] pp.533-534 

問答の面では,先生は千の凡夫もかなわない智辯無窮のお方で,その名声はあまねく知られていた。例えば,デプン寺にいらしたとき,文殊冬季法会*41など,多くの学者がその学説を太鼓を高らかに打ち鳴らすがごとく披露する中で,[先生は]怯むことなく学識をさらに大きな声で開陳して,テホル復誦師*42やミニャー復誦師*43など,偉大なゲシェたちとタムチャ竪義(りゅうぎ)*44を行ったため,彼の学識の名声はあまねく広まることとなった。先生ご自身の口からも,当時問答をした方々のうち,もっとも素晴らしいのはテホル復唱師という方だとおっしゃった。また,様々な問答の場面で,先生の学説のまるで獅子の咆哮のごとき激しさのため,相手の攻撃を打ち負かしてしまったことがあった。仏教哲学の書物についてもまた,精査を重ねた上で良いものを選び取っておられた。 (星)

[1-19] pp.534-535 

著述については,先生が著された論著の内容は大変豊かで,[聞けば]表現が心地よくだれの耳にも琵琶の音が響くようであり,[見れば]美しく表現を尽くした歌舞にも等しい。あったものすべてを私がひとつずつ申し上げることはできないが,現在手に入っている著作のリストから紹介すると以下のようなものがある。

[rgyal khams rig pas bskor ba'i gser gyi thang ma] 「世界知識行 黄金の平原」
[bod chen po'i srid lugs dang 'brel ba'i rgyal rabs deb ther dkar po] 「大チベットの政治制度とそれに関わる王統記 白史」(出版ずみ)
[klu sgrub dgongs rgyan] 「龍樹の思想の飾り」(木版で開版されている)
[sing ga la'i rtogs brjod] 「セイロン島史」
[rgyal po ra ma Na'i rtogs brjod] 「ラーマーヤナ」
[bya len ma'i rtogs brjod] 「シャクンタラー」 カーリダーサ著。インドの言葉(サンスクリット語)からチベット語への翻訳(第1章は木版で開版されている)
[sgra'i zin bris] 「サンスクリット文法草稿*45
[gangs ri'i skor] 「雪山について」(木版で開版されている)
[zhang dga' ba'i blo gros la dris lan] 「シャンのガウェー・ロトゥーへの回答」
[rdul chung la dpyad pa'i skor] 「原子の分析について」*46
[dbu tshad dka' ba'i gnad] 「中観と因明の難題」
['du byed mtha' dpyad] 「行と分析」
['dod pa'i bstan bcos] 「愛欲の書」
[rdi tsha skam pos phul ba'i zhu yig] 「ディツァの痩せ*47からの手紙」
[rgya gar gyi gnas chen brgyad kyi lam yig] 「インドの八大聖地案内」(インドで2回出版)
[ke ta ka sogs kyi bshad pa] 「ケタカ*48などの注釈書*49
[zhabs brtan 'chi med dbyangs snyan] 「???阿弥陀の楽神」
[legs ldan nag po'i glu] 「バガヴァッドギーター」(インドで印刷)
[bdag med dris pa zhes bya ba] 「尼乾子問無我義經」*50
[rang bzhin gsum nges pa] 「3つの本質決定」
[gtam gyi tshogs nyin mtshan bdun pa] 「教言集 7番目の昼夜」
[seng ga la'i gnas brtan sde pa'i mdo rdarma pa da zhes bya ba] 「セイロンの上座部の経,ダンマパダというもの」仏教詩。インドの言葉(パーリ語)からの翻訳(木版で開版されている)
[legs sbyar bang mdzod] 「サンスクリットの蔵」

[他にも]「三十頌」と「性入法」について少々,および詩の難題について少々[などがある]。 (浅井)

[1-20] p.535-536 

『世界知識行−金の平原』という著作の内容としては, インドでイスラム教徒が政権を握ったことと,異教徒の世界観をもとに形作られた世界の構造などについて解説した偈頌の蔵, 地名の由来,インドの本物の工芸美術*51や絵などについて, 誰しも信じがたいチベット文字の増減について, インド人の日常の風俗について, 古いチベット文字の様々な字形について, 先見の明のある人々への心からの助言?*52, などがある。 (星)

[1-21] p.536 

先生の著作の一部が失われたのは実に残念なことである。どういうことかと言えば,それらの著作は,先生が経論によって詳細かつ緻密に考究なさった学問の結晶であり,純金のごとく純正で限りなく価値の高いものであるうえ,計り知れないご苦労を重ねて著されたものばかりなのである。先生の御詠歌の中にも,

大経典も金の曼荼羅も[なければ]
勧めてくれる人も誰もいないけれど
智慧の宝蔵を捨てるのが惜しいので,心に
みずからの刻苦を背負って書き記した

と詠んでおられる通りである。 (星)

[1-22] p.536 

先生が著作を著される際には,韻文の類でも分かりにくい異名や修飾語などは少なく,事物の性質を直接的な表現方法で美しくかつ分かりやすい修飾法で,音声的な修飾法も少々用いる。散文の場合は耳に心地よく美しい言葉だけを使って執筆するのを好まれた。他にも英語の文字やインドの文字の大小の書体をみな美しくお書きになったが,それだけでなく生物や風景,人物などどんなものを描いても生き生きとして,まるで本物を見ているようだった。例えば,シッキムに滞在中,シッキムの大臣リナンアタンという方を描いた絵をタルチンが新聞[チベット・ミラー紙]に掲載したところ,写真機で撮影したものより実物に近いと皆が驚嘆したという出来事があった。 (星)

[1-23] p.537 

また先生はインドやセイロンへ行ってラーフルとともに再びチベットに戻り,サキャへ行った頃,カーレプ書記*53と手紙のやり取りをなさった。カーレプ書記がスィトゥを論駁するのに「[スィトゥは]最初に『タクシワに礼拝します』と[書いている。こ]の場合のタクシワは観音菩薩と大自在天,どちらにもとれるが,これは大自在天(ラ・オンジュー)*54を意図しているのではなく,世自在(ジクテン・オンジュー),つまり観音菩薩に礼拝する[と言っている]のだ」とおっしゃった。すると先生は,大自在天とはヒンドゥー教徒*55が文字の創造者と見なしている[神である]ことと,ほかにも動作主格と属格,動詞,動作主,対象についてなど,非常に明快な回答をなさったので,カーレプ書記も自身が前に書いた「三十頌」と「性入法」の解説書*56に正しくない点があったことに気付き,後悔の念を抱かれた。そして,先生に信頼を寄せ,会って難解な問題を質問したいと望んだが,当時[先生は]旅立つ前だったため会う時間がなかった。このように〔先生は〕学問の[五]大教科,[五]小教科いずれも徹底的に学び理解して,学識もますます増していった。公正な考え方だけをするようにしておられた。(浅井)

[1-24] p.537 

普遍なる世界の知者の
学問の書を熱心にご覧になり
自らの理解が高まった時
とりわけ慢心を捨て凡人を装う

と言えよう。 (浅井)

[1-25] pp.537-538 

私と先生が初めて会ったことについて[述べると],先生には前にお会いしたことがなかったが,私が28歳の時,乙酉年(西暦1945年)の年末か丙戌年の初めに,ゲシェー・チューキタクパ師がこうおっしゃった。「あなたは英語が少しわかり,チベットの学問を理解しているが,それを向上させようと思うなら,今アムドのゲンドゥンチュンペーさんがラサに来ておられる。あの方は大変な学者であるから,ここへ来てもらったらいいだろう」。そのお名前を聞くや,[私は]心動かされ,我が家にお迎えした。 (浅井)

初めてお会いしたときは,他に何もおっしゃらずに,ただ「私はチベットの歴史書を新しく書こうと思っているのですが,あなたからそのためのご援助をいただければ良いのですが」とだけおっしゃった。私も「どのような史書を書くおつもりですか」などとお尋ねするなどし,それ以来,先生と私はお互いに親交を深めていくこととなった。

先生の業績の概要についての説明はこの辺りに留め,その他の件については,第2章はインドとセイロンにお出かけになったことについて,第3章は『白史』の執筆について,第4章は無実の罪に陥れられたことについて,第5章は結びのことば,とこのように少々詳しく,章を改めて下記に記す。

先生の後半生の事績をおおよその年次で示すと,西暦1933年から1945年の前半までのインドを二度訪れて滞在された約12年,1945年の後半から1946年の前半までの『白史』を執筆された一年あまり,1946年の後半から1949年までの投獄されていた三年あまり,最後に御年49歳の辛卯の年(西暦1951年)チベット暦8月14日にラサで逝去されたことなどである。

先生の伝記の第1章はここで終わる。 (星)

[1-26] p.539 

[ここに述べたのは]先生の成し遂げたお仕事のほんの一部
それは誰にとっても美しい甘露。そこに呼び寄せたなら
[そこに花ひらく]諸々の素晴らしいことばの蓮の花園によって
あらゆる聡明な蜂たちは必ずや満足するであろう

(星)



*1 ドルタク活仏とは,GCの父と交流のあったドルジェタク寺*2のケンボをしていた高僧のこと*3。ラサに勉強に行ったGCの父はこの高僧と知り合い,帰郷時にはレプコンまで同行した。ドルタク活仏はレプコンにあるニンマ派の寺,ヤマ・タシキル寺に二年間滞在し,その後中央チベットに戻り,程なくして他界した。その後生まれたGCはこの高僧の転生者と認定されそうになったが父がこれを忌避したという【杜2000】しかし結局これを受け入れて,GCはヤマ・タシキルに入ることになった。
*2 rdo rje brag ロカ地方タナンにあるニンマ派の寺。Smithによると,200人の僧侶と三人の化身を擁していたとのこと【Smith:19】
*3 天馬版の序によると,ドルタク8世ケサンペマオンゲーであると記されている。p.4。杜は別の名を挙げている。GC_chronology参照。
*4 ダライラマ十三世の先生の一人であるzhwa dmar rdo rje chang【杜2000】
*5 ゲルー派の僧院で山寺(ri khrod dgon pa)。
*6 ダライラマ五世の弟子で,デプン寺ゴマン学堂の学堂長であったアムドの人,'jam dbyangs bzhad pa'i rdo rje(ジャムヤンシェーバ一世,1648-1721/1722)によって1709/1710年に建立された。
*7 tshogs langs:大勢の僧侶の中央で二人の僧侶が立ち上がって行う問答。
*8 ゴマン学堂やラプラン寺で用いられているkun mkhyen yig chaというテキストのことを指す?
*9 ツォムンリンのすぐ側のガンデンカンサーで鉄砲の売買をしていた。
*10 pha bong kha bde chen snyig po。1878-1941。tbrc data
*11 この肖像はクンジョーノルブの家に保管されていたが,文革時に焼かれ,失われた。
*12 ラプラン寺の神託者を指すと考えられるが,要調査。ティンレーゲーボはネーチュンの5つの姿?性質?のうちの1つか。ネーチュン寺?はラプラン寺の西端にある。Nietupski LABRANG
*13 sdod du ma bcug。直訳すれば「居させなかった」
*14 ldog pa brgyabの解釈については,アムド語の口語辞典,『安多蔵語口語詞典』p.299 "rdog ka rgyag"の記述を参考にした。ちなみに,シェーラプギャツォ版の綴りはrdog ga brgyabで,アムド語辞典の記述にほぼ一致する。アムドの友人に送った詩であるから,アムド語として解釈するのが妥当であろう。
*15 民族間抗争をはじめとする争乱が一向に収まらない1920年代中頃のラプランの状況を嘆いているものと考えられる。
*16 GC自身を指すと解釈する。
*17 ゲンドゥンチュンペーが自分の名前をサンスクリットに訳して使っていた名前。サンガ=dge 'dun/僧侶,ダルマ=chos/法。
*18 ラーフル・サンクリッティヤーヤン Rahul Sankrityayan, 1893-1963
*19 ラーフルはモンゴル僧チューキタクパにもインド行きを勧めたが断られている。【CHMO(05):212】
*20 bod snga rabs pa。古代チベットの思想家?RYではprevious Tibetan [thinkers]訳未確定。
*21 この詩の出典はlegs sbyar bang mdzod。
*22 仏教に合わない全ての法
*23 'bral dpangとはラサの言葉でカウの中に安置された小さな仏像,またはカウそのものを指す。GCと交流のあったタシペーラワの口述記録によると,GCの持っていたものにはカウはなく,仏像がむき出しのまま置かれていたという。
*24 ここで「草稿を書いた(zin bris btabs)」とあるのは,GCの死後に木版印刷で出版されたため,その印刷本の草稿という意味であろう。ラクラ・リンポチェによるGC伝には,この著作はダワサンボが書いたものかGC自身の手になるものかについて論争が巻き起こったが,内容をきちんと読めば,いかにもGCらしい詩作も含まれてはいるものの,明らかにGCのものとは違う,ダワサンボ自身の思想が反映されている部分が数多く見られるため,「ゲンドゥンチュンペー師に勧められてダワサンボがしたためた」とこの著作に書かれている部分に関しては間違いないであろう,と書かれている。【Tethong:190-198】
*25 GC自身を指すと考えられる。
*26 dpyad sgom。分析的瞑想法
*27 『インド聖地案内』からの引用。ホルカン版(III)p.342。
*28 tshul gsum rtags
*29 mtha' brgyad
*30 dam bca'
*31 mdud pa
*32 rang myong brjod du med pa'i
*33 zag med kyi bde ba
*34 この詩はGCがカルカッタで詠んだ「悲歌(skyo glu)」と題する長い詩の一部。この詩を作った頃はレーリッヒと『青冊』を訳した三年間の後に当たり,GCは生活も困窮し,かなり辛い時期を過ごしていたようである。【Tethong】 mi rtag pa dran pa'i gsung mgur「無常を思う歌」として著作集(II) p.395-399に掲載
*35 'dod pa'i bstan bcos
*36 dmigs bsal gyis 'chad rgyurに対応する訳として。直訳すると「特別に述べるべきこととして」。
*37 1949年,新たに軍法を設けたのに伴い,それまでイギリス流だった軍服や号令などがチベット式に改められた【CHMO(8):56】
*38 この詩はrgyal khams bskor ba'i snang tshul「世界周遊紀行」という詩の後半部分。前半はイギリスやアメリカ,ロシア,ドイツ,日本,ネパールなどの政治体制について概観する詩となっている。
*39 'jig rten gsar rnying gi mi chos
*40 sa dge rnying gsum sogs lha chos
*41 'jam dbyangs dgun chosに対する訳として。
*42 skyor dponに対する訳として。『チベットの学問仏教』(ツルティムケサン著,新井慧誉訳,寿徳寺文庫,1979年)(p.5) によれば,「大教法」(のクラスの)クラス委員をskyor dponと言う。般若のクラスの暗誦試験(skyor rgyugs)は僧院長(mkhan po)と掌堂師とskyor dponなどのところで受ける。
*43 mi nyag skyor dponは,デプン寺ロセーリン学堂の主学僧だった。Shes-rab rgya-mtsho, 1973
*44 dam bca' bzhag pa。『チベットの学問仏教』(p.27)によれば,ここでいうdam bca'とは,学僧があるクラスに属してそのクラスの科目をマスターした場合,マスターしたという誓いを持ったとみなされ,その誓いが本物であるかどうかを確認するために論争を仕掛けること。竪義とは,古来日本でいう「学僧に教義内容を立てさせること」を意味すると考える,という。タムチャ竪義者に対する質問者はその者の属するクラスまたは他のクラスより選ばれた者が口語に,タムチャ竪義者に対面して問答する,とのこと。
*45 "Draft of Sanskrit grammar"【Mengele:107】による。
*46 本文ではrtul chungとなっているがrdul chungの誤りであろう。
*47 GCのラプラン時代のあだ名で,GC自身を指す。
*48 ke ta kaはサンスクリットでタコノキ科の植物を指すが,チベットではnor bu ke ta kaないしke ta ke'i phreng baなどのように宝石の名称?として使われることが多い。植物としてのketakaとその使用方法など詳しい説明についてはhttp://www-ang.kfunigraz.ac.at/~katzer/engl/generic_frame.html?Pand_odo.htmlを参照。
*49 おそらく'ju mi pham (1846-1912)による入菩提行論の注釈書 shes rab kyi le'u'i tshig don go sla bar rnam par bshad pa nor bu ke ta ka を指すのではないかと考えられるが,nor bu ke ta kake ta ke'i phreng baという表題を持つ注釈書はいくつもあるので,内容を見ないと詳しいことは分からない。この件については【Ruegg1989:309-310】で指摘されている。
*50 bdag med pa dris pa'i mdo。サンスクリットの原典はNairatmyapariprccha Nama Mahayanasutram。尼乾子問無我義經は漢訳仏典名。チベット語にはカマラグプタとリンチェンサンポが翻訳しているが,GCは改めて原典からのチベット語訳を試みたということか?
*51 rgya bzo 'khrul medに対する訳として。
*52 gros 'debs paに対応する訳として。よく分からない。
*53 1858年頃,ツァン地方,トゥー・ティンリ・ゾン下のクラに生まれる。カーレプ寺の書記を務めていたことから,カーレプ書記と呼ばれるようになった。
*54 国語大辞典によれば,「もとは,インド婆羅門教のシバ神の異名で,万物創造と破壊をつかさどる最高神。仏教の中に組み入れられ仏法守護の神となる一方,仏教に敵対する外道の最高神ともされた。(C)小学館」
*55 phyi rol paに対する訳として。直訳では「異教徒」。
*56 参照 dkar lebs sum rtags dka' 'grel, gangs can rig mdzod 6, bod rang skyong ljongs spyi tshogs tshan rig khang gi bod yig dpe rnying dpe skrun khang, 1989, bod ljongs mi dmangs dpe skrun khang

リロード   新規 編集 凍結解除 差分 添付 複製 改名   トップ 一覧 検索 最終更新 バックアップ   ヘルプ   最終更新のRSS
Copyright © 2004 Hoshi Izumi. All rights reserved.