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第2章 インドとスリランカへ赴き,勉学に励まれたこと 

[2-01] pp.539-541 

インドに赴かれた理由と,[それを]勧めた人については以前に述べたごとくである。先生は御歳30歳で癸酉(みずのととり)年(1933年)前後に*1インドに赴かれるとき,初め言葉の便のために,ラサのドゥンツェスル*2で外国のさまざまな薬を売っているインドのバブー・セントビリなる人物*3のところへ行かれて,数日間英語の読み書き学ばれたが,先生の知力に,バブーは驚いたという。インドで最初にサンスクリット語の読み書きを学ばれた場所はベナレスである。当時クヌ・ラマ・テンジンゲンツェン*4(「『正字の灯明』注釈」*5の著者)とお会いになっている。

その後,スリランカに赴かれ,一年四ヶ月滞在された。サンスクリットの大学*6で勉強され,最も優秀だったものの,パンディットの称号は受けられなかった。先生自身はスリランカについて,「スリランカは特に尊い仏教の中心地である。かの地には,律の教えが大いに広まっているため,その昔,釈迦牟尼が生きておられた時代に実践されていたように,寺では毎朝,夜明けに,『無常なる死は今にでもここに訪なうであろう』という声が響き,皆が怖れおののいて,目覚めるのだ」というお話をなさった。また,家の中にも在家信者がたくさんいることや,沙弥と在家信者がお経を読み,読経し,瞑想する場所もお寺の中だけでなく,チベットの瞑想庵をおもわせる,湖のなかの大小さまざまの岩の塊の上につくられたとても快適な涼しい庵がたくさんある,とおっしゃったことがある。 (三浦)

先生はスリランカで当地の上座部派の『ダンマパダ』*7,チベット語でいえば宗教詩というものを翻訳なさったその後書きに,「偉大な導師尊者ダンマナンダ*8のおそばで[不明点などを]お尋ねし,スリランカの剣山寺*9でゲンドゥンチュンペーが訳した」と書いた。これは後にシッキムで活版印刷・出版され,ラサでも木版印刷された*10。末尾にシュローカを数篇書いておられる。その意味程度[を知らせるため]に2篇引くと,以下のようである。

ずっと慣れ親しんだ我が家[仏教]を認識し
前世の因縁を見いだして
末法の時にも不足のない仏陀のお言葉を
新たに訳した喜びをどう表そう

四つの印を持ち悟りを開いた[仏陀の]お言葉を
代々伝えてきた上座部の経や
真珠,籐,喜びのこの書簡を
雪をかぶった山[チベット]に届けたのだ*11

また,インド滞在中,自分に満足したことをふざけてお詠みになった詩,

800年というものインドへ
行かなかった,遅れた[国の]翻訳者
[しかし]サンスクリットの論を本当に読む者が
今マガダにいるそうだ*12

これもまたうれしさを表そうと書かれたものである。(浅井)

[2-02] p.541 

また先生は,今後チベットの学者がインドの文法書をチベットで学び,サンスクリットを書く*13などということは実に可笑しいことであると言って,

カギャとゲンギャ*14の間は遠いが
ウーとアムドの間は相当遠い
マガダとチベットはさらに遠く隔たり
本物のサンスクリットと[チベット人の書いた]サンスクリットは遙かに遠く隔たっている *15

と[詠んでおられ],サンスクリットの重要な問題については後世の者たちは詳細に分析するべきであって,簡単に済ませてはならないとも教えている。さらに先生はセイロンで,インドのあらゆる経典の韻文を集成した『サンスクリットの蔵』という著書も物しておられる*16。 (星)

[2-03] p.541-542 

パンディット・ラーフルは,当初やりたかったことを中断せざるを得ない,よんどころない事情で時間がとれなくなったらしく*17,その後*18しばらく先生はインドの他の地方で暮らしていたが,その時期はロシアの画家,レーリッヒ*19という人にインドのクル*20に誘われ,そこで『青冊史』を英訳するお手伝いをなさっていた。さらに先生は英語が相当に熟達して,大部な英語の原書も難なく読みこなし,チベット語への翻訳も自在にできるほどだった。彼の名声はインドだけでなく,フランスなど他の国にも広く知れわたるところとなった。誰もが[先生を]誉めたたえ,その賞賛のことばは花の雨の降りそそぐがごとくである*21。後にまた先生の生涯に関心[が集まり],先生の著作は大変に重要なものと見なされているようである。 (星)

[2-04] p.542 

先生がスリランカからインドに移った後のある時,パンディット・ラーフルとともにチベットを一度訪れている*22。その時はサキャ,ペンボ,レティン,サムイェなどの古い聖地や遺跡のたぐいを訪れている。当時,サキャなどにおいて,数多くのインドの経典をご覧になっており,当時の巡礼の際に知り得た多くの重要な問題について追究なさり,その成果を『世界知識行 黄金の平原』という著書の中に書いておられる。その後再びインドに戻られた。 (星)

[2-05] pp.542-543 

その後,インドのクル在住ロシア人レーリッヒのもとで三年[を過ごし],カルカッタなどに滞在した際には、生活状況が次第に悪化して,生活の手段を求めざるをえなくなった。 (三浦)

[2-06] pp.543-544 

こうして御年30歳から,42歳まで*23(癸酉年から乙酉年まで 1933年-1945年),インドに前後二度ほど赴かれ,滞在された。最終的にチベットに帰国された理由は,先生がインドに滞在のおり,インドは英国の植民地であったが,先生は当時のインド政府からチベット語で書かれた仏教と文化に関する一群の文献を翻訳するよう仕事を与えられ,[先生は]生活のために働かざるを得なかったので,“Royal Asiatic Society”*24なる部門で,お仕事をなさっていた。このころ,聞くところによると,ひとりのアメリカ人が,インド政府と接触して,先生を米国に招待する計画であったという。一説にはフランス人が招待する計画だったともいうが,いずれにせよ,米国人なりフランス人なりが,しごくよい給料を約束して招待してくれようとしたときに,先生自身も,生活が苦しかったこと、他の国を見学したかったこともあり,行くと約束された。しかしインド政府はパスポートを出さずに,妨害した上,先生自身も,どこへ行くにもひとりのイギリス人が監視役に仕立てられていることを知って,このような下劣なやり口にうんざりなさっていた。そこへティチャン・リンポチェとカプシューパ大臣の二人から,チベット帰国をうながす真剣な手紙が届き、それ以外,いかなる理由があったか定かではないが,いずれにせよ,チベットへ戻られることをお考えになりはじめ,インド政府から与えられた仕事もきっばりやめられた。 (三浦)

[2-07] pp.544-545 

[先生は]結局,ムン地方タワンを経てチベットへ帰還なさる[のだが,その]時に地図を描かれたという。その地図は「マクマホンライン」という国境の状況を調査するために,荷を負って一歩一歩進みつつその地域の状況を探りながら書かれたのだと,人から聞いた。これも,先生はいつも正しいことをやりとげ,どんな不合理や不正ともたたかい,あるいは[それらに]反対するのが習い性となっていたが,その通りに,帝国主義者がわが国の国境地域を蚕食するという憎むべき正体をあばき,直接間接に立ち向かうためそのようになさったものである,という可能性が非常に大きい。イギリスが先生を警戒するのもこうした問題と関係あるに違いないと言っても,不適切ではない。先生が勧める人もないのに進んでわが国辺境の領土を熱烈に愛したこの行動からも,反帝愛国を全うするという誓いが先生の心にあり,それが石に刻まれた絵のごとく確固たるものであったことも見て取ることができる。そう言ってもかまわないだろう。 (浅井)

[2-08] p.545 

このようにお帰りの旅の間にも必要で意味のあることをしながら,乙酉(1945)年の前半にラサヘお戻りになった*25。まず,帰還を勧められたティチャン・リンポチェとカプシューパ大臣のもとへ出向いたところ,ティチャン・リンポチェは「これから何か困ったことが起きたら,ここへおいでなさい」とおっしゃったようだ。 (浅井)

カプシューパ大臣は,「ゲンドゥンチュンペーというのはあんたか。まるでツォナの唐辛子売りみたいだな」とおっしゃって,当初帰還を勧める手紙を出したことは話にも出なかった。(本文註:その時の先生の出で立ちは,着古しの灰色の薄物の毛織りの着物を着て,後ろは少し襞を寄せており,[靴は]履き古した茶色のブーツ,[帽子は]オレンジ色のフェルトの生地にすり切れた毛皮のついた古ぼけた錦帽*26をかぶっておられた。先生の表情*27は,眼を少し細めるようにしてじっと見つめ,ほんの少し笑みを浮かべているというご様子だった。)

これで大学者ゲンドゥンチュンペー先生の伝記より第2章をこの辺で終わりにする。

大海のかなたの異国で
果てしない学問の道を追究する苦難を乗り越え
無限の智慧の宝というすばらしい贈り物を
あますことなく故国にもたらしてくださった

(海老原)


*1 ここまで明らかになっているところでは,インドに向かったのは1934年,32歳の時である。
*2 ドンチェンスルとも言う。パーコーから清真寺へ向かう道の角にある,ダライラマ六世ゆかりの黄色い建物を指す。Tibet Heritage Fundの建造物データ
*3 ドゥンツェスルのバブラー。抜歯や薬売りなどの仕事をしていたという。奥さんはペンボ出身のチベット人。バブラーはラサで亡くなったという。子供たちはシッキムに住んでいる。英語版ではSanta Bellと記されている。
*4 テンジンゲンツェン Link
*5 『正字の灯明』注釈 Link
*6 sam skri ta'i slob grwa chen mo,「サンスクリットの大学」とはいかなるものか?
*7 ダンマパダの日本語訳が読めるサイト LINK byクリシュナムルティ学友会
*8 Dharmananda Kosambiのことでしょうか?Link
*9 dpal ral gri’i ri bo’i dgon pa. 剣山寺という名の寺は確認できていない。
*10 ラサの木版印刷はシッキム版の活字本をもとに翻刻された。GCはこれの校正および末尾に詩を追補している。ちなみにダンマパダ木版印刷のパトロンはラクラ・リンポチェの兄。
*11 この四行は,ラサ版の末尾に付け加えられた詩。ラサ版ではシッキム版になかった二つの詩が付け加えられており,この詩の前に,「スリランカの上座部と/ヒマラヤの説有部はともに/一人の師が育てた弟子/十八の部派が滅び生き延びた者」という詩がある。
*12 最初の詩「ずっと慣れ親しんだ〜喜びをどう表そう」の直後に続く詩。初版のシッキム版を締めくくる詩がもう一つあり,その内容は「明白な因縁の真理を説いても/怒った顔の皺は消えない/所詮嫉妬深いあの人が/好きなものとは他人の凋落」。その後に「これは本当のことだ」として1944年7月15日にインドのクルで脱稿したことを記している。
*13 gsum rkang bsgrigsに対する訳として「経典の表書きなどをサンスクリットで,ランジャ文字とワルドゥ文字とチベット文字の三種の文字で書くこと」を指すという。『西蔵芸術研究』編集部のダワサンボ氏のご教示に基づく。なお,チベット大学のダワツェリン先生からは,gsum rkangとは「"sdeb sbyor byed stangs kyi deb" という事で,サンスクリット上での文字のつなぎ合わせ方の説明書を指す」という別の解釈をご教示いただいた。
*14 アムドの地名。いずれも現在の夏河県に属するようである。参考:伴真一朗,2004,「三藩の乱におけるチョネ (co ne) 領主の軍事活動」,『日本西蔵学会会報』第50号,pp.17-30
*15 この詩はGCの著書legs sbyar bang mdzodの結語から引用されたもの。
*16 legs sbyar bang mdzodの奥書には,「インドのクルタに滞在中に著した」とあるので,脱稿したのはクルだと言える。
*17 例えば1940年のラーフルは会議派社会党大会議長や全インド農民大会議長をつとめたり,繰り返し逮捕されるなど,年譜をみると確かに多忙を極めている。【田中1978:293】
*18 「その後」にあたるチベット語は本文にはない。この文章の冒頭のde sngaは,de snga A, B.という構造の文において,「まずAが起こった,その後Bが起こった」という意味で用いられていると解釈し,うまくはまらないde sngaの直訳「まず,最初に」を割愛し,Bの前に文章にはない「その後」を入れることにした。
*19 画家は父のNicolas Roerich, 1874-1974。息子はチベット学者で『青冊史』を翻訳したGeorge (Yuri) Roerich, 1902-1961。Nicolas Roerichの生涯ついてはこちらも参照:Link
*20 原文にはku muとあるがku luの誤り
*21 brngags brjod kyi me tog 'thor ba dangを意訳。'thorが自動詞の「散る」であることから,「誰もが賞賛の言葉の花を散らす」ではなく,「誰もが賞賛の言葉を述べ,その賞賛が発せられる様子が花の散る様子に似ている」と解釈した。
*22 ラーフルのチベット調査に同行したのは1938年で,スリランカに行く前のことであるので,「スリランカからインドに移った後」という記述は誤りである。GC_chronology参照。
*23 これまでに明らかになったことから「32歳から43歳まで」と訂正される。GC_chronology参照。
*24 カルカッタのRoyal Asiatic Society of Bengalのこと。現在はAsiatic Society。website
*25 英国政府の記録では,GCのラサ入りは1946年1月4日と記録されている。これは,蔵暦では乙酉11月,西暦では1946年の1月となるので,これが正しいとすればホルカンの記述は記憶違いとなる。
*26 dbu zhwa tshe ring skyin khebsに対するとりあえずの訳として。帽子の一部に錦の布を当てたもの。
*27 sku'i dbyibs。直訳すると見目形ということかと思うが,ここでは以下の文脈に合わせて「表情」と意訳。

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