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第3章 『白史』を執筆なさったことについて 

[3-01] pp.546-548 

先生は国内外どこにおられても,歴史上の諸問題について深い考察と分析をおこない,チベットの歴史書*1を執筆したいと常に考えておられた。しかし,しばらくの間条件が整わなかったようで,そのまま手つかずになっていたことは,前述の私が初めて[先生に]お会いしたときのお話の断片から推し量ることができる。ようやく歴史書を執筆するのに機が熟したとお考えになり,私が[先生と]日頃お会いしていたとき,[先生は]インドに滞在していたおり,新疆や敦煌などの地から出土した,かつての仏教王国の時代の古文書の断片をいくつか直接手にすることができたため*2,チベットの歴史書を執筆したいという強い思いが生じたのだということについて[お話になった。また,]そうした歴史書が完成すれば良いけれども,どのようなことで邪魔立てが入らないとも限らないと[もおっしゃり],しばらく前に先生がインドからチベットにお戻りになる道中でトゥー地方ガルシャ*3の観世音菩薩像*5を拝みに行った際[に見た]夢のしるしの断片*7についておっしゃっていた。また,「あなたにも歴史書の執筆を援助していただいているのは良いことだ」とおっしゃり,私がほんの少しご援助差し上げていることを尊重し,信頼を寄せてくださっていた。 (星)

本題の,歴史書執筆の準備を実際に始められた事については,チベット暦の丙戌(西暦1946)年2月5日に,先生と私はラマガン*8へ,ムティク・ツェンポ別名セナレク・ジンユン[あるいは]ティデ・ソンツェンとして知られる者によって建立されたカルチュン・ドルジェインキ・キンコルキ・ラカン*9というツクラカンの遺跡にある崇仏誓約詔勅*10,そしてウシャン*11にある,レパチェンことティツク・デツェンによって建立された事で知られている,ウンチャンド,すなわち現在ウシャンと呼ばれる地区にあるペメ・タシ・ゲンペーリンキ・ツクラカンという遺跡にある石碑,これら2基の石碑の文中に,歴史上の重要な事柄がどのように刻まれているのかを調査しに行った。そのとき[見た]カルチュン石碑は頭部から礎石にいたるまで損傷がなく,また全ての文字が損傷を受ける事なく残っていた。[われわれがその]文面を写し取ったところ,[そこには]ソンツェンからティデ・ソンツェンまでの歴代国王の名称,ツクラカンの所在地名等々,他の歴史書には記されていない,いくつかの重要な事柄が記されていた。先生が,「このカルチュン碑文によって歴史書の誤った部分を訂正することができるから,あなたがこの碑文の解説を書きなさい」とおっしゃった。それをうけて私はその解説を執筆した。[先生はまた]ウシャンの石碑に文字が[刻まれてい]ない事について,「これで石碑に文字を刻む機会が無かった事は間違いない。レパチェンが長期にわたり政権を握る事が出来なかったのは本当だったのだ」とおっしゃった。 (ダワ・ツェリン+小沢)

ついでにシュプセー*12へ行って,100歳を超える高名なジェツン・リンポチェ*13にも拝謁した。ウシャン・ラカンで2日過ごし,帰路サンダで食事休憩した折,先生はうれしそうに「チベットの大寺院において[学問寺の]教義道場の伝統を創始したのは,チャパ・チューキセンゲ*14だ。[その伝統が]谷の奥のこんな小さなサンプの里から,北の果てのロシアの地まで広がったのだ(今や北の果てのみならず南の果てにも広まっている)」とおっしゃった。それからまたカルチュンの遺跡に来ると,そこのサンゲー寺*15という尼寺の集会堂に,発掘された石碑の頭部があった。それと,当時カルチュンに損傷なく残っていた石碑の頭部とで,異なるところがまったくなかったことから,まだほかの石碑(本体。頭部以外)が砂の下に埋まっていることは疑いない。それについて[先生は]「たいてい石碑は仏教と政治とについて[記してある]はずだから,もうひとつが見つかれば歴史書執筆にとても役立つだろう」とおっしゃった。それから[そこを]出発しラマガンで人馬ともにみな船に乗り,無事キチュ川を渡って,気候のよい麗しのラサの町へ,そして珍宝を手に入れようとした商人が大海で望みを達し[た*16が如く,目的をすっかり果たして]つつがなく自宅へ戻った。 (浅井)

[3-02] pp.548-549 

こうして,準備が全て完了したので,「白史」の執筆*17にとりかかられた。その時,私は,地方政府において[ダライラマの]護衛隊*18のルプン*19の責任を負っていたので,軍営の中に,宿舎と,その住居警備の兵も1人もっていた。その時の任務は,ルプンとギャプン*20の共同の任務として軍営の当直*21という1週間交替の任務が回ってくる時以外は,いつもラサの家にいた。軍人たちも宮殿の周りを警備するくらいしか仕事がなかったので,軍営内は静かだった。先生が歴史を執筆なさるときに多少静かに落ち着いて住まわれる場所が必要だった。軍営のわたしの宿舎は,それにぴったりだと見受けられた。そこで,それでいいかどうか尋ねたところ,ぜひそうしたいということになって,そこに住みこまれて執筆をなさった。「白史」という本の題名はその時点でつけられた。その[ようなタイトルをつけた]お考えは,サキャ・ゲルク・カギュ・ニンマの4宗派のどの色にも染まらず,公平な立場であるという意味であると思う。他にはこれまでのチベットで,「白史」という歴史書を,学者の誰かが書いたのを見たことはおろか,耳にしたこともない。 (海老原)

[3-03] pp.549-550 

その後,丙戌年*22のチベット暦四月のある日,軍営での私の当直番が明ける日,先生がやってきて,「今晩我々はここに泊まって,明日の朝,ティチャン・リンポチェ*23のところに『白史』の冒頭の数ページをご覧に入れるためにお預けしているんだが,それを返してもらいに行く。それから我々はラサに一緒に帰ろう」とおっしゃった。翌朝早く[出かけ],ノルブリンカ宮の塀の中に[入るとき]は,インド靴*24を履いてはいけないとおっしゃって,ある兵卒にブーツ*25を借りて履き,ノルブリンカの中に入り,すぐに戻っておいでになった。先生は,「私が執筆している歴史書について,摂政のタクター・リンポチェが良くできているとおっしゃっていた。ティチャン・リンポチェも高く評価してくださった」と嬉しそうにおっしゃった。 当時ティチャン・リンポチェはダライラマ[十四世]の仏教哲学の教師というポストについておられたので,政治には関わっておられなかった。摂政タクターは,先生の歴史書に「良くできている」とおっしゃったけれども,本当はその日の晩,先生を逮捕するつもりだったのである。それから先生と私は軍営から歩いてラサの町まで出る途中,ポタラ宮前のシュー地区の外側の石碑*26のところで,望遠鏡を設置して碑文を読んでいると,リンコー途中の人々やその他の一群の人々が我々を見物するので,先生はまだ碑文を読んでいる最中だったのを中断して,「もう行こう」と[おっしゃって],私の家においでになった。そしてお住まいのワンデンペンバー*27にお戻りになったその晩,ラサのラサ市内監督官二名によって逮捕された*28。このような想像を絶する事件により中断を余儀なくされ*29,結局歴史書は完成することなく,このように書きかけのまま残される結果となった原因もここにある。書きかけのまま完成しなかったことは言葉では言い尽くせないほど残念なことである。 (星)

[3-04] p.550-551 

釈放後の庚寅年(西暦1950年)に,地方政府は先生に,歴史書の残りを書くようにと命じ,毎年俸給として60ケーの穀物と三千サンの金額を支給するという証書と,住居としては,農務局が所有するガルシャー[という建物]の三階の三部屋ある立派な住まいが提供された。あまりに不幸なできごとと投獄による辛労のため,年中酒なしにはいられないほどであったため,お体を大変悪くされた上,物忘れがひどくなり,歴史書の残りを書き続ける事は,空には花が咲かないように現実化が難しくなった。 (ダワ・ツェリン+小沢)

[3-05] p.551 

このような不幸な事件のため,白史が未完のまま出版された経緯は[次の通りである。]丁亥年(西暦1947年),私はカムへ行かなければならずラサを留守にしていた*30が,その間に私の依頼通りにゲシェー・チューキタクパが責任を持ってくださり,[白史が]刊行された。第三章は,この辺で終わりにする。 (ダワ・ツェリン+小沢)

[3-06] p.551 

世界[的視野]の学者[である先生]*31は偏ることなく
典籍と歴史文書に[取り組み,それらに対する]
惜しみない努力と入念な徹底した研究*32により
チベットの叡智*33を明らかになさった

(ダワ・ツェリン+小沢)


*1 rgyal rabsに対する訳として。rgyal rabsは王統紀,年代記などの訳もあてられるが,ここではより一般的な用語として,歴史書とした。
*2 フランスのチベット学者Bacotが敦煌出土チベット語文献を持っており,その解読をGCが手伝ったため,文献を見ることができたということのようである。【Stoddard1980:145】
*3 ga zhaとは,現在のインドヒマラヤ地域ラフールを指す。ラフールのチベット名はガルシャと言う。原文ではga zhaという綴りで出てくるが,gar zhwa, gar zha, ga zha, ga sha, dkar zhaなど様々な綴りで書かれるという。*4
*4 gar zhwa mkha' 'gro'i gling【DUNG DKAR02:492】
*5 ラフールのティロキナート*6の仏教・ヒンドゥー教混交寺院に祀られる大理石の観世音菩薩像【高木2001:33】ラクラ・リンポチェによれば,GCはガルシャをたびたび訪れていたという。この像は今もラフールのTrilokinathの地に祀られている。
*6 TrilokinathまたはTriloknath。ケーロンから約50km,チャンドラ・バガ川(パタン谷)南岸。本尊の代理石像は8世紀頃のものと推測されている。『旅行人ウルトラガイド ラダック』(高木辛哉 2001:33)
*7 夢の内容については,同じ著者による1990年執筆の未発表のGC伝に詳しく記されている。
*8 stod lung rdzong の sne'u shang という地区。The Tibet Visual History Onlineに写真あり。Accession Number: 2001.59.8.88.1
*9 トゥールン・デチェンゾンのネウ郷sne'u shangラマガン村ra ma sgang grong tsho。9世紀,ティデ・ソンツェンによる創建【bshes gnyen:237】
*10 「崇仏誓約詔勅」【山口1983:767】仏教護持,尊重の誓いや命令を記した内容。【DUNG DKAR97:218-220】参照
*11 ラサ南西部キチュ河付近で,現在のチュシュル地区【DUNG DKAR97:1835】チュシューゾンツェーナ郷tshal sna shang。rgyal rabs gsal ba'i me longに建立についての記載あり【bshes gnyen:295】
*12 シュプセー。Link
*13 ジェツン・リンポチェ。Link
*14 チャパ・チューキセンゲ Link
*15 ランダルマの代に損傷したカルチュン・ラカンを,仏教後伝期,あるラマが拡張・新設してサンゲー寺と命名【bshes gnyen:238】
*16 大谷大学の三宅伸一郎氏によると,大乗仏教の経典には「商人」のたとえがよく見られるという。大乗仏教の伝播と商人の深い関係を物語るものか。観世音菩薩普門品第二十五に「其の名号を称せば即ち浅き処を得ん。若し百千万億の衆生あって金・銀・瑠璃・しゃこ・碼碯・珊瑚・琥珀・真珠等の宝を求むるを為て大海に入らんに,仮使黒風其の船舫を吹いて,羅刹鬼の国に飄堕せん。其の中に若し乃至一人あって観世音菩薩の名を称せば,是の諸人等皆羅刹の難を解脱することを得ん」という記述もある。参照Link
*17 白史は,1946年2-4月,ラサのノルブリンカのホルカン(当時ルプン)の事務室で書いたと杜永彬(2000 :172)にある。
*18 第1カ部隊 ka dang dmag sgar。ノルブリンカ常駐
*19 1945年10月より当該職。行政機関・官職のリスト軍総司令部の項参照
*20 行政機関・官職のリスト軍総司令部の項参照
*21 sgri shingに対する訳語として。sgri shingは中国語の值勤zhi2qin2からの借用語である。
*22 1946年
*23 khri byang blo bzang ye shes rgya mtsho 1901-1981,ダライラマ14世の教師を務める。 tbrc data
*24 'jur rta
*25 lham shol tse。shol tseは中国語の「靴子」からと考えられるので,ブーツとしたが,なぜ短靴ではだめで,ブーツなら良いということになるのかよく分からない。
*26 シューの石碑にはシューの内側,ポタラ宮寄りに位置する石碑(rdo ring nang ma)と,外側に建てられた石碑(rdo ring phyi maないしphyi ma'i rdo ring)の二つがある。
*27 dbang ldan dpal 'barは,ラチュン・シェーラプギャツォによると,クンデリン・ラプランから貸借料無料で借りていた住まいだとのこと。この名の建物はAufschnaiterの地図ga 47に記されている。トムスィカンから少し東方向に行ったところ。現在もその場所にワンデンペンバーと呼ばれる建物が残っているが,GCの暮らしていた3階部分は文革時の1971-1972年頃に取り壊された。1989年頃に建て直され,現在は3階立てである。/ワンデンペンバー在住のジャンベーイシ氏のご教示による。
*28 ホルカンの個人的ノートによると,この日は晦日だったらしい。/ホルカン・チャンバテンダー氏のご教示による。
*29 bar chad kyisの意訳。
*30 1947年3月,俸給局長カム担当(?)に任じられた(私資料より)
*31 'dzam gling mkhas paについて意見が一致しなかった。「世界の学者たち」を指すという意見も出た。ここではmkhas pa=GCとし,'dzam glingは「世界的視野をもつ」という意味で解釈した。chime
*32 dpyad gsumは金を精錬する三つの工程bsregs bcad brdar gsumのごとく「入念な徹底した」研究態度を示す。
*33 rig pa'i ngo mtsharに対する訳として。

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