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第4章 帝国主義者と内閣が結託して先生を無実の罪に陥れたことについて 

[4-01] pp.552-553 

ノルブリンカからラサヘ戻った翌朝,テントン・ラクラ活仏トゥプテンチューター師が私に1通の手紙をくださった。そこには「昨晩ゲンドゥンチュンペー先生がラサのミプン(ラサ市内監督官)に逮捕され,お住まいが封印されています。聞くところによると,先生が100サン紙幣の偽札作りに加担した嫌疑があるそうです。どうしたらいいでしょうか」と書かれていた。

それで[私は]すぐにラクラ・リンポチェのところに伺って*1,「先生はふだんから正直なお人柄ですから,偽札作りに加わるなどありえないことです。こんな無実の罪をきせてはなりません。私たちであらゆる方策を総動員して無実の罪が晴れるよう,何としてもお助けしなければ。まずこの問題が起きた原因を調べるのが重要です」と申し上げた。

するとリンポチェも同意なさり,まずは詳しく話を聞くため,当時ミプンであった俗官のタシペーラプ*2とシャクチャンスルパを訪ねることにした。そしてタシ・ペーラプのところへ行って尋ねると,「あれは内閣の命令でしたことで,ゲンドゥンチュンペーの罪状は私たちも知りません」とのことだった。当時チベットの摂政はタクターであり,大臣はランパ,スルカン,プンカン,カプシューパの4人だった。ラクラ・リンポチェはランパの親戚なので主席大臣ランパと,ついでにカプシューパのもとを訪ね*3,私がスルカンのところへ行き,プンカンも人を介しそのように[接触し]た*4。しかしランパとスルカンの言うことは同じで,「あなた方,こういうことに手をつける(関係する)と,これからテントン家もホルカン家も名前しか残らなくなる恐れがありますよ。それより放っておいた方がいいですよ」*5と,執拗におっしゃった。それで私たちは困難な状態に陥り,もはや打つ手がなくなった。

しかし,先生が留置されているのはラサ治安監督署(ナンツェシャー)の南の角の2階で,そこは厳重に警備されていたが,牢番を金品のわいろで手なずけて,先生のお好みに合う食べ物や,特にいつも必要とされていたたばこを差し入れできるよう努め続けた。 (浅井)

[4-02] pp.553-555 

先生がなぜそのように投獄され,無実の罪を着せられるという仕打ちに合わねばならなかったのか,その理由を当時の私たちが何度探ろうとしても核心には突き当たらず,曖昧なままであった。しかし後になって,当時ナンツェシャーの書記をしていたソナムトプゲー氏[に聞いたところで]は,「当時インド政府がチベット駐在代表の英国人リチャードソンに対し,『ゲンドゥンチュンペーがチベットに向かった。彼はインド共産党に入党しており,さらにはパンダ[ツァン]・ラプガや,チャン[ロ]チェン公,クンペー(本文註:パンダ・ラプガらは当時チベット地方政府に対し謀反を企てる組織*6を作っており,その組織にゲンドゥンチュンペーも参加していると非難された)らも加わっているという件について内閣と連絡を取りたい』との機密電報が送られていたようだ」という話だったので,その通りなのであろう。しかし経緯を知らない一般の人々の前ではしばらく百サン紙幣偽造という煙幕を張って逮捕したのである。カリンポンでも当時パンダ・ラプガらの家を家宅捜索した上,彼らがインド領内に留まることを禁ずると厳命し,さらにモンゴル人のダルマという者*7もカリンポンで逮捕したのである。

こうして先生に着せられた無実の罪は,非常に重大な事件と見なされて,取り調べも,ザサーや軍総司令官など,四品官以上の位の高い貴族四名*8が命じられて厳しく行われただけでなく,反帝愛国の偉大な闘士とも言うべきこの素晴らしい先生のお身体に少なからぬ鞭打ちを浴びせたなどの話は,耳にしただけで総毛立った。

その時私は,あらゆる面で卓越した天賦の才知と学問による知力を兼ね備え,真摯で,チベット民族への愛情をこれほど持った人に対し,政府が善悪の判断すらせず,まるで狂った犬を放つようにこれほどの耐えがたい責め苦を与えるということはどう考えてもおかしいと思い,私自身,自分が苦しめられるよりもずっと辛かった。当時権力を握っていた内閣も,帝国主義者らに脅され悪霊に苦しめられているようなものだった。 (星)

[4-03] pp.555-556 

その際,私を含め先生と関係している全ての人が暫くのあいだ嫌疑をかけられた。内閣は公式にかつ内密に*9事細かな調査を幾度も行ったが,疑惑の証拠となるような新たな事実は何も出てこなかった。先生のご自宅の所持品も書籍[類]も徹底的に調べられ,英文の文献は全て,デキーリンカ[の英国インド代表部]駐在のインド代表なるイギリス人,リチャードソンに提出しなければならなかった。先生は普段から,誰から本を借りてもそれに貸し主と日時をはっきりと書き留める良い習慣をお持ちで,ホルカン家とテントン家から借りたものにもそれらが記されていた。そしてテントン家から借りた本の中に,英文のスターリンの伝記があり,リチャードソンがこれを危険なものと判断したため,数ヶ月にわたってラクラ・リンポチェは私達よりも危険な状況に陥った。 (ダワ・ツェリン+小沢朋子)

[4-04] pp.556-557 

先生の入獄中,私が途切れることなくおつきあいすることができたことについて。チベット暦の丙戌年(西暦1946年*10),11月30日,「白冊」の未完成部分を執筆されることについて,私は牢獄に秘密裏に信書をおくり,そのお返事[としていただいたお手紙]には,

このような陰鬱なときであっても,当初の理想を捨てていない*11のは素晴らしいことだ。この歴史書[を著すにあたり],なにか障害がおきるに違いないとはなから思ってはいたが,これほど極端な障害とは[思いもよらなかった]。しかし,ミラレパも「ラマの教えが深遠なものでなければ,魔物の障りがどうして生じよう」とおっしゃっているごとくである。[歴代の]王たちに守り神がいて,その守り神に力があるならば,まだこの歴史書が完成する幾ばくかの望みはある。そのほかには私には護ってくれる者は誰ひとりいない。先日尋問のさい,私はチベットに対してなんら悪心を抱いていない証として,このような歴史書があるのだと述べたところ,彼等は言葉尻をとらえて「このような歴史書がチベットに利益をもたらすことと,パンダ・ラプガへ定期的に通信文を送っていたことの,どちらが重大な問題か」と,ことの善悪を逆用して無理矢理話をでっち上げた。私自身は,歴史書に未完成部分がこれほど残ったとしても,今回の私の罪がいかほどのものであったか[については]将来チベットの全学者の前で必ずや判断が下されるであろう。そうなれば,これ以上の幸せ,これ以上の満足はあるまい。

と書かれていた。[また,]未完成の歴史書の最後の部分に記すべき一篇のシュローカ*12を牢獄から賜り,また「歴史書の未完成部分については,一時筆をおく」と記すようにと書かれていた。*13 (三浦)

[4-05] p.557 

おお,碩学の先達が
衆生の貧困を除くため
善き教えの宝珠を捜し求めて
大海奥深くに乗りだすも
大海には凶悪な生きもの
摩伽羅たちに恐るべき風
ひどく荒れ,帆はちぎれる
先達はたった一人さまよう
怒りの空間に,恐るべき姿のものが
さまざまな相で顕われるとき,
親しげだった船客たちはすべて去り
おお,誰が先達を護ってくれるのだろう
碩学の先生は
畜生にお生まれになった菩薩のごとく
残忍な猟師の悪意のはかりごとの罠に落ちられた
なんと哀しいことだろう

とも言えよう。 (三浦)

[4-06] p.557 

またある日,密かにお菓子やお見舞いのお手紙をお届けすると,そのお返事として,「戌の年に王がキの国ラサの地*14の獄中からつかわした書簡*15」[という次のようなお手紙をいただいた。] (星)

[4-07] pp.557-558 

戌の年に王がキの国ラサの地の獄中からつかわした書簡

01 ここでは誰も知るもののない
02 永久不変の天上につながる長い綱によって
03 無辺の空性は心の本質の中にくくりつけられ
04 心の本質の幼な子は肉体の中にくくりつけられている

05 積まれた石のごとき肉体は食物にくくりつけられ
06 食物は物質界という[外部の]要因にくくりつけられている
07 このように綱に綱が連なり
08 [それを]断ち切る境界は二つしかない

09 一つの境界は誰しも望まない
10 肉体と心が断ち切られてしまう死そのもの
11 もう一つの境界は誰にも分からない
12 [そこは]綱も滅び去り*16,法界*17と意識の混じり合うところ

13 この心は無辺の女神
14 女神の出自はこの俗世ではないが
15 心と等しい女神の足の小さな親指は
16 糸でこの肉体と堅く結びつけられている

17 そしてこの糸が切れてしまうまで
18 肉体の経験することは心の経験することと同じ
19 指が縛り付けられるのは女神が縛り付けられているのと同じ
20 指が痛めば女神が痛がっているのと同じ

21 この指にどんな良いこと悪いことが起こっても
22 女神が苦楽を味わっているに他ならない
23 この綱もその綱も切れてしまえばよいけれども
24 綱が切れることを世間のあらゆる者が恐れる

25 綱につながれていようと努力をすると
26 綱の先すべてに茨がからみついているのを目の当たりにする
27 棘の先を一つ一つ抜き取るために
28 智慧の技の数々を一つずつ学ぶ

29 そうして棘を抜くというこの労役に
30 死ぬまで忙殺されるしかないのだ
31 この終わりのない止めようのない苦役は
32 あらゆる者が[この輪廻世界に]生を受けたことに起因するのであろう

33 天にも等しい[広がりを持つ]心の一部も
34 血肉[ある]肉体のもとに入れば
35 暑さや寒さ,飢え,渇き,期待,不安,恐怖という
36 この苦しみも尽きることのないものと思われる

37 しかし百の努力を積み重ねて成し得た
38 素晴らしい智慧をまとったこの肉体は
39 空性の天の女王の預言の通りに
40 この地上に数年間は生きるしかないのだ

 このような歌を詠んだ

(本文註:この中の否定辞などは古文書に記されているように下接字yが[記されており]*18,また名詞の一部に'aなどの後置字が記されているもの*19は,実際のお手紙に書かれている通りに写した。)

(訳者註:1999年版では9,10行目が欠けている。初版を参照して訳した。)

このようなお手紙をいただいた。王がキの国ラサの地の獄中からつかわした書簡,というこの詩は自分に対して冗談めかして獄中で詠んだものという意味であるが,この詩の内容は深い理解を必要とすることは言うまでもない。先生が無実の罪の嫌疑をかけられてこのような投獄の憂き目にあったしばらくの間,先生のお心には輪廻世界の本質と諸行無常のことばかりが思われ,われわれのこの世間における生き様を,慈悲と遊び心をもってお考えになったのである。 (星)

[4-08] p.559 

01 無謬の縁起について
02 御心に確信を心底から得て
03 素晴らしい意味を含む喩えと
04 ともに美しく詠まれたこの詩

05 宝石や金の数々を
06 美しい種々の文章によって
07 光放つ姿のままに表すことができたなら
08 その価値は誰がはかることができようか

09 しかし私のようなものには
10 解釈する自信は全くない
11 それゆえこの詩,[どなたか]真正な
12 学者に解釈していただければ素晴らしかろう

13 不理解や誤解のまま解釈すれば
14 役立つどころかあまりに害が大きい
15 それよりも自分が理解した通りに
16 自分のための教えとして受け取ればよい

とも言える。 (星)

[4-09] pp.559-561 

それからの時の流れは険山の瀑布さながらで,はや戌の年も暮れようとしていた。丁亥(西暦1947)年には前摂政レティン・ホトクトと[現]摂政タクターの対立が先鋭化し,ラサの大祈願会が終わるやレティン逮捕,そして軍がセラ寺を包囲,砲撃するなどのことが行われた。先生に対し無間地獄に落ちるほどの罪を犯した者たちにもさまざまな変化が起きた。

それから丁亥年が明けて神変月1月恒例のラサ大祈願会が行われている間,慣わし通りラサ市街はデプン寺大集会堂司法僧の教規のもとに一括管理された。ナンツェシャー管轄の囚人らが大祈願会期間中,シュー局に移されることになっている時期であり,先生もナンツェシャーからシュー局最上階の小部屋でいくらかゆったりとした状況に置かれた。[しかし]大祈願会が終わりほかの囚人たちがナンツェシャーに戻されても,先生はシュー局に留められた。

[一方]私は西暦1947年から1951年,チベット暦辛卯年2月ごろまでまる4年というもの,やむをえずカム総督ラルのスタッフとしてチャムドで俸給局長官の仕事をせねばならないことになった[が,その]間に先生が釈放された。それについて,[ナンツェシャー]書記のソナムトプゲー氏がおっしゃったところによると,その頃インドからチャンロチェン・ソナムゲーポが許されてラサに戻っており,クンペーラも戻ろうとしている時期で,宗務・財務長官会議の席上,上席財務長官*20が,「今,チャンロチェンやクンペーラなど,インドの共産党に入っていると言われる者らも許しを得て,ラサに戻ってきている。くたばりかけたアムド人を牢に入れておいては,政府の名折れなのではないか」と言うと,みな「そのとおりだ」と同意した。

ゲシェー・チューキタクパとコンジョ・ラチュンアポらも手を尽くしたため,デプン寺ルンブム学寮の長老らが身元を引き受けるというかっこうで釈放が決まった。当初ナンツェシャーの管轄下にあったので再びそこに[戻され],以後違法行為をしない旨の誓約書を受け取るという慣わし通りのことが行われ,釈放された。 (浅井)

[4-10] p.561 

先生は獄中にある間,顕教や密教の勤行をつづけておられた。一方,丸3年余りも投獄されていた間,外部の人が多く訪れ,お見舞いに来る人や教義について教えを乞う人などが先生を喜ばせようと,お酒を供するなどしたために,ついには,お酒ばかり召し上がるようになった。(海老原)

[4-11] pp.561-562 

先生は釈放された後,タクター・ラブランの招待を受け,タクターの別院[においでになった。そこでは,以前の小規模な建物に増築が施されており*21,[先生は,]新しく建てられた大殿や上階の集会堂,お部屋などに扁額を[書いてほしいと]頼まれ,その通りにお書きになった。その後ラサに戻られると,カプシューバが[先生を]お招きして,十分なお世話をしたが,[先生はそのことについて]「私への償いだと言って毎朝3回五体投地などされ,そして,カプシューバの息子にはふざけて脅された。この2つ以上に厭わしく,恐ろしい目に遭ったことはない」と私に対しておっしゃったことがあった。それと同じことを,ゲーパ学堂の前学堂長ジャンベーティンレーに対しておっしゃったところ,前学堂長は「あなたに対して礼拝したのは格好だけかもしれませんよ。彼が大臣であった時なら,礼拝などしたでしょうか?」とおっしゃった。すると先生は,「その通りですね」とおっしゃったという。 (海老原)

[4-12] pp.562-563 

先生は,獄中にいる間に酒浸りになり,後には精神状態もそれまでのような本来の姿ではなくなってしまった。その様子について,誰もが「これほどの学者がすっかり駄目になってしまった」と言ってたいそう惜しんだが,どうしようもなかった。先生ご自身も投獄されたことについて悔しい思いをされている様子を何度もお見せになった。ある日私に対し,インドの偉大な八人の大学者*22のうちの一人である偉大な導師ディグナーガの詠まれた一つの偈を教えて下さったことがある。今は一字一句を思い出すことはできないが,その内容はこんなふうだった。スリランカとインドの南端の間の海に橋がかけられた跡のような砂州がある*23。それはヴェーダに伝えられているところによれば,猿が橋をかけた跡だという物語がある。人々はそれを認めず,実際にあった話とは考えないが,私は実在と非実在の『法』について分析し,言葉の意味を智慧の秤に十分にかけた。それでも人々が認めようとしないのは嫉妬というものである。「ああ,嫉妬よ,あなたに礼拝します」とおっしゃったという偈を朗唱してくださり,「これほどの学者もこのような嫉妬に妨害されたのだ」と何度も涙を流された。私にも「これを書き留めて肌身離さず持っていなさい」とおっしゃったのは,我々雪の国チベットのこの悪習に注意せよという意味だったと今になって分かる。 (星)

[4-13] pp.563-565 

チベット暦辛卯の年(西暦1951年)三月になって,私はチャムドからラサに戻ってきた。そして人々が「ゲンドゥンチュンペーは酒におぼれて気狂いになってしまった」と言っているのを耳にした。そのころ先生はラサのガルシャーというところで,釈放後に知り合ったチャムド出身の妻,ツェテンユドゥンという女性と一緒に暮らしていた。お身体は重い病に冒されていた。召し上がるものはほとんどお酒ばかりで,朝起きるとすぐに蒸留酒を一二杯飲まなければお身体が震えてじっとしていられないほどだった。先生は私と会うとすぐにこれまでのあらゆる出来事についてお話になりたいというご様子であったが,口からは[言葉が]思うようには出てこなかった。しかしながら一言二言おっしゃったことからは狂ったとか錯乱しているような様子はまったくなかった。さらに冗談めかして「もうすぐ私は浄土に行くことになるに違いない。いつもと違って仏法のことばかり頭に浮かんでくる」とおっしゃった。健康状態はこのようにとても悪かったが,「いつかあなたの家に行ってゆっくり過ごしたい」とおっしゃって,ある日我が家にお越しになってくつろいで過ごされ,嬉しそうな表情を何度もお見せになった。私たちはその日写真も撮影した*24

当時チベットは帝国主義の呪縛から永遠に放たれて,祖国の大家族の中で漢族とチベット族が緊密に団結するための十七条協定が調印された後だった。そのため駐チベット中央政府代表,張経武が先に派遣されてきて,ラサのティムン家に滞在していたとき,とある側近がわざわざ面会にやってきたというこんな話をしてくださった。「私は中央政府代表の側近に『チベット政府の言うには,私をこんな風にせざるを得なかったのは赤い共産党のせいだそうだ』と言ってやった」とおっしゃるのだった。中央政府代表張経武が連れてきていた名医が検査をしたけれども,もう長くはないという診断であった。

そして辛卯(西暦1951年)8月14日の夕刻,ラサ時間の4時頃,ラサでお亡くなりになった。そのとき御年49歳になっておられた。先生が亡くなられる直前,コンジョ・ラチュンアポ氏らや私たちごく少数の人間がお側にいた。チベット政府に選り分けられ,手元に戻ってきた著作をご覧になって,遺言として「私のこの『荘園』はあなたが引き継いでくれ」とおっしゃった。ツェテンユドゥンにも「私が死んだらすぐに私の原稿を入れたこの鉄製の箱をホルカン家に運びなさい」とおっしゃり,愚昧なこの私に全ての望みを託された。しかし文化大革命のとき,四人組が計り知れないほどの破壊行為をおこなったさいに,文書類は引き渡すか火に焼くかしなければならなかったため,先生のお望み通りに全てを保管することはできなかった。このことはどれだけ悔やんでも悔やみきれないが,どうすることもできなかった。先生が御存命中,私は『如意藤』の十数章について直接ご指導いただいたけれども,それ以外は時間ができるとお話ばかりして,あまり熱心に教わらなかったことは,今となってはたいへんに悔やまれる。 (星)

[4-14] p.565 

また,特に強調して言いたいのは,先生の著作である詩の一節に,

嫉妬とは血に酔いしれる強情な虎
恐ろしい唸り声が響く密林の中
孤独に立ちつくす真理の子を
賢者よ,哀れと思っておくれ

とあるとおり,嫉妬の魔物に唆された容赦のない一部の者たちの妨害を受けたため,先生は長く生きることができず,お亡くなりになった。ゲシェー・シェーラプギャツォは先生の訃報を聞いたとき,「千人の人が死ぬよりも彼[一人]が亡くなられた事の方が残念だ」とおっしゃり,涙をこぼされたという話を私達は実際に聞いた。 (ダワ・ツェリン+小沢)

[4-15] pp.565-566 

そのとき先生のご遺体を[荼毘にふすため火葬場に]お運びするなどの後事は友人のソナムプンツォー氏とナンツェシャーの書記ソナムトプゲー氏の両名に託し,無事[葬儀を]終えさせた。先生が耐え難い仕打ちのために長く生きられず,私たちとも永久に別れることになってしまった[ことを思うにつけ,]悲しみで胸が潰れそうになる。先生の栄誉と功績が永遠に精彩を失わないようにと心から願いつつ,第4章をここで終える。 (ダワ・ツェリン+小沢)


*1 ラクラ・リンポチェは逮捕当日の午後四時頃,テントン家の執事のニマに「本日ゲンドゥンチュンペー様とドゥンチェンスルのシェルパが逮捕されました」と知らされたという。【Tethong:94】ホルカンに翌日手紙で知らせ,すぐにホルカンが訪ねてきたということになろう。
*2 原文にはbkra shis dpal rabとあるが,おそらくタシペーラワ(bkra shis dpal ra ba)の誤り。タシペーラは家の名と考えられる。Kirti1983:140,Stoddard1985:385など参照。Stoddardによれば,この人の名はタシペーラ・ドジェツェテン(bkra shis dpal ra rdo rje tshe bstan)とのこと。
*3 ラクラ・リンポチェによる伝記にカプシュー家でのやりとりが詳しい【Tethong:95-97】
*4 大臣に会いに行く際に,二人とも保釈金として25ドツェーを用意していったという。【Tethong:95】
*5 このあたり,【GOL:462】にも言及あり
*6 西藏革命党。【GOL】,【杜2000】などに詳述あり。
*7 木村肥佐生の「チベット潜行10年」(中央文庫版165ページ)に以下のような記述がある。「ダルマは外蒙古出身,もとラマであったが,ラサでチベット人の女と結婚,非常に手先が器用で絵も描き,金銀細工もやるが一番有名なのは彫刻である。(中略)真偽は別として,チベット政府が100サン(約1000円)紙幣をはじめて発行したとき,彼は得意の彫刻技術で巧みに偽札を造り,それが原因でラサからカリンポンに移住したなどの噂がまことしやかに流れている男である。」
*8 ホルカンの1990年の記述によると,四名とは,ザサー・ゲータクパ・ガワンゲンツェン,軍曹司令部四品僧官ケサンツーティム,四品僧官トゥプテンサンゲー,四品俗官スルカン・ラワントプゲーであったという。ラクラ・リンポチェによると,bsam pho tha'i jiおよびdza sag rgyal stag paの二名が任命されたとのこと【Tethong:106】
*9 phyi nang gsangs gsum。直訳すれば「公的に私的に,そして内密に」の意。
*10 丙戌の11月30日は西暦では1947年となっている。参照:GC_chronology
*11 thog ma'i phugs bsam ma btang baに対する訳として。btangを「捨てる」という意味で解釈しても良いか?
*12 rang sde'i rigs la zhen pa dkar po'i mdangs// rang byung snying gi dbus na gnas pa 'dis// rang yul kha ba can gyi rje 'bangs la// rang gi nus pas sri zhu cung zad sgrub//
*13 この手紙の全文が,天馬版のGC著作集に掲載されている。
*14 skyi'i ra sa thang。skyiはキチュ河流域の古称。ra saはラサの古称。thangについては平原等の意味があるがここでは「地」という程度に訳した。
*15 gtsigs kyi yi geに対する訳として。bka' gtsigsが貴人の手紙を指すとの蔵漢の記述に基づく。
*16 rul「腐る」を「滅び去る」と意訳
*17 意識の対象となるものの範疇
*18 myed, myiなど。
*19 na'の他,kundも
*20 シャカパ・オンジューデンデンのことと思われる
*21 別院とは,トゥールン・デチェンにあるタクルンター・リトゥのこと。19世紀,タクター一世により創建。摂政レティンが1941年に辞職し,タクターが新摂政となった後,資金を投入して別院の増築をおこなったという。【】
*22 rgyan drug mchog gnyisをこのように訳した。rgyan drugとはナーガールジュナ,アーリヤデーヴァ,アサンガ,ヴァスバンドゥ,ディグナーガ,ダルマキールティ。mchog gnyisとはグナプラパ,シャーキャプラバ。
*23 Adam's Bridgeのこと。
*24 そのとき撮影した写真は文革時に焼却され失われた。このとき撮影に使ったカメラは日本製 (made in occupied Japanと刻印されている) で,Olympus Xという機種。

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