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〜 GC_whoswho 〜

GC Who's Who

ゲンドゥンチュンペーと交流のあった人々,恩師,弟子,友人,家族などについてメモをしていくコーナーを設置しました。今のところ順不同です。伝記などで出てきた順に記しています。chime

mkhan chen dge 'dun rgya mtsho  

  • [mkhan chen dge 'dun rgya mtsho]
  • ケンチェン・ゲンドゥンギャツォ(1852-1912)
  • アムド時代のディツァ寺における恩師で,ゲンドゥンチュンペーという名の名付け親。*1【Tethong:17-18】
  • tbrc data

dge bshes shes rab rgya mtsho  

  • [dge bshes shes rab rgya mtsho]
  • ゲシェー・シェーラプギャツォ(1884-1968)
  • デプン寺における「師匠」(GCの言では「何も教わっていないが師匠だと言っておくと何かと都合がよかった。たとえばパボンカ様のところに教えを請いに出かけても叱られず,大目に見てもらえた。」)【Tethong:34-38】
  • 中国へ行く途中のカルカッタで再会したGCに「私はこれから中国に行くが,世界は丸いなどと言っている連中に仏教の教えを示して否定してやろうと思うがどうか」と言うので,GCが「先生,世界は平らだなどとおっしゃったら相手に反論されるならまだしも,冷笑されるようなことになったら恥ずかしいですよ」と「助言」した。【Tethong:34-38】
  • tbrc data

bla chung a pho shes rab rgya mtsho  

  • [bla chung a pho shes rab rgya mtsho]
  • ラチュン・アポ・シェーラプギャツォ(1905-1975)
  • GCの弟子であり親友。GC伝の著者。
  • この著者のGC伝によれば,1942年に聖地巡礼で訪れたインドのサールナートでGCの著作「インド聖地案内」に出会い,あまりの面白さに感銘を受け,GCを探し回るも会えず。それから四年後,ラサで初めて会う機会を得て以降,GCが亡くなるまで親交を深めた。GCの葬儀,火葬にも立ち会っている。
  • カム地方コンジョのラチュンツァンという家に生まれる。1975年,ダージリンにて死去。【Mengele:16】
  • tbrc data

dge bshes chos kyi grags pa  

  • [dge bshes chos kyi grags pa]
  • ゲシェー・チューキタクパ(ゲシェー・チューター)(1897?1898?-1972)
  • 1897年(1898年?),ブリヤート・モンゴルに生まれる。18歳のときにラサに仏教の勉強に来て,セラ寺で修行を重ね,ゲシェーの学位を取得。辞典編纂を何度も思い立ったものの,十分な資金がなく,編纂活動も滞り気味であった。しかし1936年,ホルカン・ソナムペンバー氏と出会い,氏がパトロンとなることによって,編纂活動を進め,1946年には辞典の編纂が完了した。1949年に木版が完成し,ラサの印刷所で印刷され,出版された。(蔵文辞典 増補改訂版(1957年)「原著者小伝」より)
  • 1933年にラーフルと知り合い,インドでサンスクリットを勉強することを勧められるも同意しなかった。【杜2000:408】
  • 1934年,インドへ巡礼に行き,カリンポンでチベット・ミラーの編集に従事。病気でラサに戻り,再びセラ寺で修行。【杜2000:408】
  • 1936年,タルチンの紹介でホルカン・ソナムペンバーの家庭教師となる。【杜2000:409】
  • GCは辞典の編纂を手伝った。辞書にはGCの名は記されていない。
    • GCがインドから帰国してから逮捕されるまでの間の半年足らずの間に手伝ったのであろう。釈放された1949年には木版が完成しているので,GCは本を見ることができたはず。

hor khang bsod nams dpal 'bar  

  • [hor khang bsod nams dpal 'bar]
  • ホルカン・ソナムペンバー(1919-1994)
  • GCの弟子の一人。GCのパトロンとなって『白史』の執筆を支援し,またGCの碑文調査にも同行している。GCの伝記を執筆。
  • GCのカルチュン碑文調査に同行した記録などをもとに書いたskar chung rdo ring la rags tsam dpyad paが,bod kyi yig rnying zhib 'jug (民族出版社,北京,2003)のpp.2-7に収録されている。

bkras mthong thub bstan chos dar, rak ra rin po che  

  • [bkras mthong thub bstan chos dar], [rak ra rin po che]
  • テントン・トゥプテンチューダー,ラクラ・リンポチェ(1925-)
  • GCの弟子の一人。GCの伝記の著者。GCを最もよく知る人物の一人。
  • デプン寺で修行。1945年にはゲシェーの学位を修得。【TBRC】
  • 1949年にインドに渡り,カリンポンでジョージ・レーリッヒにサンスクリットの手ほどきを受ける。そのままインドに留まった。【TBRC】
  • 1951年のGCの死に目には会うことができず,ホルカンからの手紙で知る。【Tethong】
  • 1960年にスイスのペスタロッチ子供村にチベットの難民の子供たち20名を連れて移住。ペスタロッチ子供村で非ヨーロッパ圏の子供を受け入れた最初だったという。ラクラ・リンポチェは子供たちの「親」の役割だった。GC伝のコロフォンには「ペスタロッチ子供村にて執筆した」と書かれている。【TBRC】【pestalozzi
  • tbrc data

zla ba bzang po  

  • [zla ba bzang po]
  • ダワサンボ(生没年不明)
  • GCの出獄後に弟子入りした。GCの教えを受け,それを『龍樹の思想の飾り』という書物にまとめた。
  • ニャロンの人?
  • tbrc data

sgrol ma dbyangs 'dzom  

  • [sgrol ma dbyangs 'dzom]
  • ドマヤンゾム(1884-1965?1966?)
  • GCがダージリン時代の交流をもっていた女性。ダージリンではGCは彼女の家に逗留していた。GCは彼女に詩と自筆のタンカを贈っている。*2【Menlgele:131】
  • カム地方タヤプの出身。インドへ旅する途中,トモでWilliam Henry Luffというイギリス人軍曹と知り合い,彼と結婚,ダージリンに居を移し,11部屋ある家に暮らしていた。満月の夜には定期的にカンギュルを読む会を開き,数々の化身やラマを滞在させていた。有名な賓客の一人がGCであった。【Menlgele:131】

khu nu mthar phyin (Tharchin Babu)  

spom mda' tshang rab dga'  

  • [spom mda' tshang rab dga']
  • パンダツァン・ラブガ

ka shod pa chos rgyal nyi ma  

  • [ka shod pa chos rgyal nyi ma]
  • カプシューパ・チューゲーニマ(1903-??)
  • GCのパトロンの一人。GCはカプシューバ邸に虎の図案を描いたことがある。
  • GCはインドからカプシューパに「愛欲の書」の抄本や「インド聖地巡礼案内」を送っている。
  • GCはインドから帰国後,カプシューパの息子の英語の家庭教師を務めた。
  • 1945〜1949年,大臣を務める。
  • GCに帰国を促す手紙を書いたとされる。

snar skyid ngag dbang don grub  

  • [snar skyid ngag dbang don grub]
  • ナルキー・ガワントゥンドゥプ
  • GCの弟子。

Rahul Sankrityayan  

  • ラーフル・サーンクリッティヤーヤン(1893-1963)
  • インドの思想家。仏教学者。社会主義者。共産主義者。
  • Maha Bodhi Societyの会員【Huber:15】
  • インドで失われたサンスクリットの仏典をチベットにもとめ,1934年,1936年,1938年の三回にわたってチベットに調査旅行に赴く。1934年,ラサで調査を手伝ってくれる人を探していたところ,ゲシェ・シェーラプギャツォのもとでGCに出会い,親しくなった。その後GCはラーフルの調査に同行して,レティン,サムイェ,サキャなどを訪れている。彼らが収集したチベットの貴重な文献が現在パトナの博物館 (Patna Museum) に所蔵されている。【Karmay1980:145-148】第一回目のラサ入りは1929年7月19日で翌年の4月24日にラサを離れています。【rahul sankrityayana 1950 p70,p98】*3
  • GCにサンスクリットの手ほどきをする。
  • GCに出会った時,「七歳の子供程度にはチベット語ができた」(世界知識行)
  • 参考資料「ラーフル・サーンクリティヤーヤンの作品(I)~(III)」田中敏雄、東京外国語大学論集26・28・29、1976・1978・1979
  • 参考資料「インド政庁文書にみるラーフル・サーンクリッティヤーヤンの活動」藤井毅、印度学仏教学研究 84(43-2)、1993
  • 参考資料「瑜伽論声聞地・第一瑜伽処ーサンスクリット語テキストと和訳ー」@声聞地研究会(ラーフルらの1938年のシャル寺調査の際に発見されたテキストについて)
  • 彼の辞書(Tibetan-Hindi Dictionary)が出版されています。

Anagarika Dharmapala  

  • アナガーリカ・ダルマパーラ(1864-1933)
  • イギリス植民地化のスリランカで,仏教復興運動を展開し,シンハラ人の民族意識を飛躍的に高め,独立への道を大きく切り開いたとされる僧【南アジアを知る事典:440】
  • 1891年,仏教の復興と普及のため,マハーボーディ・ソサエティ(Maha Bodhi Society)を設立。
    • 本部はインドのボードガヤーに置かれた。
  • GCがインドに入る前の年に亡くなっていて直接会ってはいないが,GCがダルマパーラの活動に感銘を受けていたことは著作『インド聖地案内』に記されていることがToni Huberによって紹介されている。
  • ダルマパーラの生涯についてはwebsite 大アジア思想活劇に詳しい。

Abdul Wahid Radhu  

  • アブドゥル・ワヒド・ラドゥ
  • GCのカリンポン時代の友人。パンダツァン・ラプガやクンペーラとともに交流を持った。
  • ラダック出身のムスリム。Tibetan Caravans("Islam in Tibet"に収録。pp.184-185にGCに関する記述)の著者。
  • 参考記事:http://www.tibet.com/Muslim/dipolmat.html

Rabindranath Tagore  

  • ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)
  • 1938年5月4日,GCはカリンポンで療養中のタゴールと初めて面会。
  • タゴールはGCに,自身がSantiniketanに創設した大学でチベット語の教授をしてくれるよう依頼したが,GCは断ったと言われている(Rabindranath Tagore invited him to teach Tibetan in Santiniketan but he is said to have declined the comfortable post, preferring his liberty to wander and study.)【Karmay1980:145】

Jacques Bacot  

  • ジャック・バコー(1877-1967*4
  • フランスのチベット学者
  • タルチンを介して知り合い,GCはバコーが敦煌文書を解読する手助けをした(...through him (=Tharchin Babu) came into contact with Jacques Bacot whom he helped read the Dunhuang manuscripts.)【Karmay1980:145】
  • バコーはインドに敦煌出土の古写本のコピーを持参していた。

George Roerich  

  • ジョージ・レーリッヒ(1902-1961)
  • ロシア出身のチベット学者。父は画家のNicolas Roerich。
  • オックスフォード大学,ハーヴァード大学で学び,パリでペリオ,バコーのもとで漢文,チベット語を学ぶ。
  • GCはレーリッヒが『青史』をチベット語から英語に三年がかりで翻訳する手助けをした。

Hugh Richardson  

  • ヒュー・リチャードソン(1905-2000)
  • イギリスのチベット学者,チベット駐在の役人
  • GCは死の少し前,碑文についてリチャードソンから相談を受けた【Karmay1980:145】

出典表記対照表  

詳しい書誌はGC_関係書目を参照してください。

略号著者と発行年
Tethongbkras mthong thub bstan chos dar (= rak ra rin po che), 1980
Karmay1980Heahter Karmay, 1980
MengeleIrmgard Mengele, 1999

*1 ホルカンによればディツァ寺に入ったのは1917年とのことで,没年と一致しない。この辺りについてはもう少し調査する必要がある。
*2 その詩とタンカはMengeleの著書に掲載されている。
*3 彼の辞書(Tibetan-Hindi Dictionary)のチベット語のカバーの紹介文にある1927年7月12日ラサ入りは誤植か)
*4 【スネルグローヴ:422】では没年を1965年としている。

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