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[チベットの学校教育] の変更点


 かつてのチベットの学校教育のいろいろに関する覚え書きのページ
 
 #contents
 
 *学校のリスト
 僧院以外で教育が行われていた学校についてリストしていきます。チベット人の伝統的な学校の他に,ムスリムの学校や,清朝が作った学校,中共が作った学校,イギリスが作った学校などがあります。今のところラサの情報収集が中心ですが,他の地域も気づいた折りにはメモっておきましょう。(しかし,僧院の教育もなかなか面白そうだな...やっぱ外せない,と思っている今日この頃)
 **チベット人の伝統的な学校(ラサ)
 チベット政府が管理していた学校として,官吏養成のための学校が二校,医学校が二校あり,また,政府の書記官や医師,僧官などが個人で開設した多数の私塾があった。
 ***官立学校(官吏養成学校)
 ''rtse slob grwa''(ツェ・ラプタ)
 -rtse rig gnas slob grwaとも言う
 -僧官養成学校 
 
 ''rtsis khang slob grwa''(ツィーカン・ラプタ)
 -財務局の中にあり,財務官を養成するための学校
 
 ***官立学校(医学校)
 ''lcags ri 'gro phan rig byed gling''(チャクリ・ドペン・リクチェーリン)
 -チャクポリ医学校
 -摂政サンゲーギャツォが設立。
 
 ''sman rtsis khang grwa tshang''(メンツィーカン・タツァン)
 -ダライラマ十三世代の1916年に創設。
 ***私塾
 当時私塾が存在したのはほぼ都市に限られ,田舎の特に牧民の居住区にはほとんど見られなかった(『チベットの教育』p.92)
 
 |学校の名称|読み方|通学していた有名人|メモ|
 |skyid ras dar po gling slob grwa|キレー・タルボリン・ラプタ|タリン夫人,ホルカン・ソナムペンバー|いわゆるキレー・ラプタ|
 |dga' ldan shar slob grwa|ガンデンシャー・ラプタ|ルカンワ首相||
 |nyag rong shar slob grwa|ニャロンシャー・ラプタ|ルカンワ首相の息子ティンレーナムギェー||
 |tar khang slob grwa|タルカン・ラプタ|サムドゥプポタン・テンジントゥンドゥプ|電報局の敷地内に設置された学校【CHMO(20):267-271】|
 |nang rong shag slob grwa|ナンロンシャー・ラプタ||【RDORJE:90】|
 |g-yul kha sgang slob grwa|ユーカガン・ラプタ|ツィープン・パラ【BELL1928:105】|【RDORJE:90】|
 |sbyar pa khang slob grwa|ジャーバカン・ラプタ||【RDORJE:90】|
 |rta gtong slob grwa|タトン・ラプタ||【RDORJE:90】|
 |spel gong slob grwa|ペーコン・ラプタ||【RDORJE:90】|
 **ムスリムの学校(ラサ)
 -回民小学校【岡本:442】
 --『当代中国的西蔵(下)』は,1910年,ラサのイスラム寺院が回民小学校を開き,ここではアラビア語によるコーラン,ウルドゥー語(現パキスタンの公用語)の他に,チベット語と漢語も教え,在校生は110人ほどいたと記している。
 --馬光耀は,ラサの回民はアラビア語やコーラン,ウルドゥー語を教える私塾を開いていたが,1910年代初めに,すべての私塾をラサのイスラム寺院内に集め,一つの学校にしたという。
 --1931年,イスラム寺院の執事らが,この回民学校の中から4,50人の生徒を抜き出し,半日アラビア語を学び,半日チベット語や漢語を学ぶ半日学堂を作り,1937,8年頃,この回民半日学堂の生徒が増えたため,チベット政府の通訳官の家を借りて,そこに学校を移した。
 --1938年,国立ラサ小学校が創立されると,イスラム寺院の回民学校と回民半日学堂はそこに生徒全員が転入して廃止された。
 **清朝が作った学校
 
 -駐蔵大臣松筠(在任1794-1798)がラサで漢文学堂を開いた。当初チベット人、さらにはネパール人の有力者らが子弟を送り込むほどの盛況となり、ネパール人学生の中にはついに四書を自習する者も現れ、「彼は中華の宝である」と師匠が思うほど儒学経典の学習成果を得た。しかし、多くのネパール・チベット人有力者に「仏教ではない学問を教えることには何らかの意図があるのではないか」と警戒され、学生たちは鬱々とした心情を抱えながら漢文学習から離れていった。【平野2004:194】
 -清朝は1906年から1909年の間にウ、ツァン地方の靖西,コンポ(工布),ダム(達木),ロカ(山南)などに初級小学堂,藏文伝習所(漢人10人),陸軍小学堂などの教育施設を16ヵ所設立している。(『西藏的教育』)【岡本:442】
 -清朝の駐藏幇辨大臣,聯豫が1906年,ラサに初めてつくった初級小学堂は,チベット人には歓迎されず,結局入学したのは漢人の生徒30人だけだったという。【岡本:443】
 
 **中華民国が作った学校(ラサ)
 -国立ラサ小学校【岡本:443】
 --1938年,国立ラサ小学校を開校(『蒙藏委員会簡史続編』)
 --在校生は100人足らずだった。チベット人も通ったが数は少なく,回民と漢人の子供が主で,ネパールの管理の子どもなども通っていたという。
 --授業はチベット語,アラビア語,国語(漢語),算術,歴史,地理などで,チベット語はラマ僧が,アラビア語は寧夏から招聘したアホンが教えた(後に英語も加わる)。
 --1940年代になるとチベット語,アラビア語,漢語の3クラスに分かれ,生徒数は1940年代前半に150人,後半には300人に達したが,中退する者が後を断たず,国立ラサ中学の11年の中で高級小学校卒業まで至った生徒は12人だけだったという。
 
 
 **中共が作った学校(ラサ)
 |学校の名称|読み方||メモ|
 |zas zhim slob grwa|セーシン・ラプタ|||
 |drung spyi gling ga'i slob grwa|トゥンチリンカ・ラプタ|||
 |spyi tshogs slob grwa|チツォー・ラプタ|||
 
 **イギリスが作った学校
 -士官訓練学校(ギャンツェ)
 -英語学校(ギャンツェ)
 -英語学校(ラサ)
 -無線電機技術学校(ラサ)
 
 *私塾の時間割
 
 *持ち物リスト
 -どうしても必要なものは,お尻の下に敷く座布団,竹ペン,焦がした大麦から作った茶色のインク,煤から作った黒いインクだけです【タリン:70】
 
 *私塾で学ぶ教科と教科書
 ドジェツェテン著『チベットの教育』(bod ljongs kyi slob gso)pp.91-92によると,下記の課題を習熟すれば卒業とのこと。普通は四年かかるが,早い子供は三年て修了,また五年かかる子もいた。&color(red){(このあたりの記述は藏文版のほうが中文版より詳しい)};
 -読み書きの課題
 --習字:紙に&ruby(キュイー){草書体};('khyug yig)(早書きの書体)が自在に書けるようになること
 --読解:多種多様な草書体で書かれた陳情書や通達文書,証文,告示など,古文書を含めた政府の公文書を自在に読めるようになること
 --暗唱:&ruby(タイー){正字法};(dag yig)(正書法を暗記するための暗唱本)をそらで言えるようになること
 ---byis pa dag yig
 ---dag yig gsal sgron
 ---dag yig ngag sgron
 ---sum rtags kyi rtsa ba dang ljon dbang
 ---dka' gnad sel ba'i me long
 -算術の課題
 --数取算(rdel rtsis;石ころや棒きれで数を数える算術)
 --暗唱
 ---dgu zla(九九)
 ---cha phran bre khyad(bre khyadと同義ならば,複数の体積単位から体積を算出するための分数算法)
 ---nyag khyad(複数の重量単位から重量を算出するための分数算法)
 ---phul grangs(phul grangs khal bsgrilと同義であれば,大麦や米を量る際の体積単位変換法で,phul(合)からkhal(斗)に合わせた単位表記に変換する計算法)
 ---spor grangs(spor grangs khal bsgrilと同義であれば,重量単位変換法の一つで,spor(銭)をkhal(斤)に合わせた単位表記に変換する計算法)
 -暦法の課題
 --暗唱
 ---lnga pa 'phrod(?)
 *中国側から見た20世紀前半の教育関連の流れ(勉強中のまとまらないメモ)
 まずは岡本さんの本とかドジェツェテンの「チベットの教育」,大石敏之「中国語<普通話>の形成について」などで勉強~
 **年表を作って概観
 ネタ本は上述三冊のみ。引用文献の記録をサボタージュ中。ほとんどが岡本さんの本からの引用なので,それ以外の引用についてのみ記述したほうが見た目がよさそうではある。~
 |''年号''|''清朝〜中華民国〜中華人民共和国の動き''|''言語改革''|''特にチベットに関連した事柄''|
 |1900|義和団事件が起因となって,八カ国連合軍により北京が蹂躙される|||
 |1901|清朝,新政担う人材養成のため教育改革へ|||
 |1902|改革派の張之洞,袁世凱らが科挙制度の廃止を奏上|||
 |1905|科挙制度廃止||聯豫が駐藏大臣に任命(チベット入りは翌年)|
 |1906|||朝廷から派遣された張蔭棠がチベット入り(駐藏大臣として,ダージリン経由でチベット入り。聯豫より先?),チベットの教育の現状等についても調査/駐藏大臣・聯豫チベット入りし,ラサに初級小学堂※を設置。|
 |1907|清朝の学部が満蒙文高等学堂※を設立||張蔭棠は朝廷に「治藏大綱十九条」奏上,三大寺に「チベット支援のための二十四条」を提出,教育の必要性を訴える(張蔭棠は7月には離藏【天朝:627】)/駐藏大臣公館で働く漢族,チベット族の翻訳者養成のため,漢文伝習所と藏文伝習所を設立|
 |1908|||陸軍小学堂設立|
 |1909|北京に殖辺学堂※設立||1906年以降,靖西,コンボ,ダム,ロカなどに徐々に小学堂を設置,1909年までに16校が設置された|
 |1911|辛亥革命,清朝滅ぶ|||
 |1912|中華民国教育部によって満蒙文高等学堂と殖辺学堂が合併/袁政権により理藩部廃止,内務部の下に蒙藏事務処設置/蒙藏事務処を蒙藏事務局に改め,国務総理直属の機関とする|||
 |1913|蒙藏学校※設立|||
 |1914|袁世凱は蒙藏事務局を蒙藏院に改め,大統領直属の機関とした。ここに教育関係の部局が置かれた|||
 |1917||この年から1921年にかけて新文化運動(五四運動),文学革命,白話運動||
 |1918||[[注音字母:http://www.honco.net/japanese/04/caption/caption-1-02-j.html]]が正式公布,ほどなく全国各地に設けられた「国語伝習所」や「暑期国語講習所」で教えられるようになる||
 |1919||国語統一籌備会成立(国語統一の問題を研究)||
 |1920||教育部が新式標点符号を公布(句読点方式の採用),国文科を全て国語科に改めるよう正式に訓令,「国語」の登場||
 |1927|蒋介石による南京国民政府樹立|||
 |1928|蒙藏院の職権が蒙藏委員会※に引き継がれる|||
 |1929||||
 |1930|教育部により蒙藏教育司(局)を設立|||
 |1931|||チベット政府内閣が南京にチベット駐京辨事処設置|
 |1932||国語統一籌備会により標準的発音を定めた「国音常用字匯」出版||
 |1934|||国民政府がダライラマ十三世追悼式典のために派遣した黄慕松がチベット政府内閣と協議した結果,教育部が「国立ラサ小学校」の設立を決定,国民政府蒙藏委員会が駐藏辨事処を設置し直接管理することに|
 |1935|国民政府はこの年から少数民族教育専門の予算をもうける|||
 |1937||国語統一籌備会により「国語辞典」出版||
 |1938|||「国立ラサ小学校」設立(〜1949年廃校)|
 |1940|||蒙藏委員会,ラサに駐藏辨事処設立|
 **注釈(※印)
 岡本さんの本からの引用です
 -満蒙文高等学堂満洲学科
 --モンゴル文科,チベット文科
 --予科2年,正科3年
 --言語,地理,近代史などを教授
 --ロシア語,英語,日本語の教員も
 
 -殖辺学堂
 --モンゴル部,ウ・ツァン部
 --清朝の新政改革を担うモンゴル人,チベット人の養成を図った
 
 -初級小学堂
 --聯豫は2校の初級小学堂の設置を清朝政府に申請
 ---2クラス6年制
 ---初級3年,高等科3年
 ---成績優秀者は四川中学に留学
 --聯豫案が初等5年,高等4年に変更された上,承認,決定
 --ラサの清真寺敷地内にラサ初級小学堂設置
 ---運動場を新設
 ---講堂と休憩室には図書や科学教育器具などを配列
 ---チベット人の師弟はいやがって入学せず,漢族の師弟30名しか集まらなかった
 
 -蒙藏学校
 --蒙藏事務局の総裁グンセンノロブにより設置
 --威安宮学,タングート学(チベット語翻訳官養成所),トド学(オイラート・モンゴル文翻訳官養成所),モンゴル学を基に設立
 --モンゴル,チベット,青海人民の学識を開き,発展させ,文化を向上させることを主旨とすることが「蒙藏学校章程」に規定
 --生徒募集枠は,内モンゴル・外モンゴルが50%,チベットが15%,青海と付近の回民が10%,漢・満洲族が25%
 --各地の盟長,将軍,都統,長官などが生徒を選抜し,北京へ送るよう指示
 --教育内容は予科では漢語漢文,モンゴル文,チベット文,中国及び外国の歴史,地理,理数系の教科など
 --学費免除,食費・宿舎も公費で提供された
 
 -蒙藏委員会
 --総務処,蒙事処,藏事処の三処をおく
 --これらの下にそれぞれ三つの科
 ---第一科 民政,財政,軍事,外交
 ---教育,衛生,宗教,司法
 ---産業,交通
 --構成
 ---正副委員長
 ---委員
 ---参事4名(法令や命令を起草,審査)
 ---翻訳員23名(モンゴル,チベットの各文書を翻訳)
 ---調査員16名(モンゴル,チベット地方の状況及び事件が発生した場合に調査)
 ---蒙藏教育委員会
 --所属機関
 ---北平蒙藏学校
 ---蒙藏招待所
 ---蒙藏政治訓練班
 ---蒙藏旬報社(蒙藏月刊社)
 ---地方に駐藏辨事処ほか
 ---南京,北平にチベット駐京辨事処,パンチェン駐京辨事処,チベット駐北平辨事処,チベット駐西康辨事処など
 
 **学校の写真が載っている本とか

 -The People of Tibet p.204と205の間

 --A small school in Lhasa: Boy showing writing to teacher. The backward boys write on broad, wooden slates; the more advanced on narrow strips of paper【BELL1928】

 

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 *参考文献
 
 とりあえず,必読文献をリストしよう。
 
 -岡本雅享, 1999, 『中国の少数民族教育と言語政策』, 社会評論社
 
 -多傑才旦, 1991, 『西藏的教育』,中国藏学出版社
 -rDo rje tshe brtan, 1995, ''bod ljongs kyi slob gso/'', 中国藏学出版社
 -朱解琳, 1990, 『藏族近現代教育史略』, 青海人民出版社 &color(red){←この本は持っていないぞ〜};
 -馬光耀, 1994, 「拉薩回民教育瑣議」, 『西藏研究』, 1994年第3期, pp.51-52
 -傅崇蘭, 1994, 『拉薩史』, 中国社会科学出版社
 -, 1991, 『当代中国的西藏』, 当代中国出版社 &color(red){←この本も持っていないな〜};
 -張済川, 1994, 「西藏自治区」, 『中国少数民族語言使用状況』, 中国藏学出版社, pp.165-168
 
 -[[CHMO(20)]], 1998, 『西藏文史資料選輯』,民族出版社
 
 -青木文教, , 『西蔵』, 
 -R.D.タリン, 『チベットの娘』,

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