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[チベット史年表/1856-1875] の変更点


 #navi(チベット史年表)
 *&size(18){&color(Silver){(16) }; ダライラマ12世代}; [#zfd67d54]
 
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 #contents2_1(depth=0)
 
 **1856 [#md643fe9]
 +チベット
 --[4月]ダライラマ11世、没。内閣がレティン・リンポチェに摂政就任を要請【GOL:197】
 --第11世ダライラマ死す(即位後11か月)。ラティン、再び摂政となる【ダライラマ1989:411】
 --チベット・ネパール通商紛争で敗戦、清朝援助せず。ネパール・チベット条約締結。ネパールは賠償金とチベット国内に治外法権を得る【ダライラマ1989:412】ネパール・チベット条約。チベット敗戦【ダライラマ1989:397】協約起草。チベットは失地を回復し、ネパールは賠償金とチベット内での治外法権を獲得【シャカッパ:223】グルカ戦争の講和成立【山口1988:xiv】
 +周辺
 +メモ
 
 **1857 [#q3ac47fe]
 +チベット
 --チベット・ネパール戦争。中国の介入なしで決着【GOL:44】
 +周辺
 --《インド》インドにおいて反英大反乱(スィパーヒーの反乱)【藤井:2】
 +メモ
 
 **1858 [#v20c72bc]
 +チベット
 --摂政レティン、シャタ・オンジュー・ゲーポを流罪にする。当初、ニェモのシャタ荘園へ、後西チベットへ【GOL:197】
 +周辺
 --《インド》[8月]インド統治改善法発布。イギリスによるインド直接統治の開始。ムガル帝国の滅亡【藤井:2】
 +メモ
 
 **1858 [#v8f978f3]
 +チベット
 --第12世ダライラマ、ティンレイ・ギャツォ(Trinley Gyatso 1856-75)発見認定される【ダライラマ1989:412】
 --シェーダ、清朝のご機嫌伺いのため、ダライラマ12世選定にあたり無意味な抽籤を実行【シャカッパ:230】
 +周辺
 +メモ
 
 **1860 [#k7874b1f]
 +チベット
 --英国、それより少し前からシッキムより租借していダージリンなどを英国領として併合。シッキムの官吏トカン・ドゥンニェルはそれに抗議してチベット亡命、チベット政府より領地と官吏の肩書きを得る。英国の目的は、チベット内チュンビ渓谷にいたシッキム王をチベットから引き戻し、チベットのシッキムに対する内政干渉を防ぐこと【シャカッパ:242】
 --それより前の48年ころ東チベット、ニャロンの土司グンポ・ナムギェルがリタンにまでその勢力を伸ばしていたが、この当時デルゲに侵入したため、四川総督の駱秉章が明正(メツェ)土司のギェルツェン・リンチェンの協力を得てこれを討った。しかし、解決にいたらなかったので、駐蔵大臣にチベット軍の出動を求めた。シェーダワはこれに応じ、大臣のプルンワを軍とともに派遣して戦いを勝利に導き、シェーダワの没後になったがニャロンの政権はダライラマの手に委ねられた【山口1988:128】ニャロン土司(土侯国の首長あるいは王を中国側がこう呼んだ)ゴンブ・ニャムジェルの乱。デゲほかを征服【タイクマン:16】【山口1988:128】
 +周辺
 +メモ
 
 **1861 [#s023bd4d]
 +チベット
 +周辺
 --《シッキム》イギリス・シッキム間で,シッキム条約Sikkim Treaty調印。シッキムがヨーロッパ人に開放される【LAMB:80,140】
 +メモ
 
 **1862 [#x985c33f]
 +チベット
 --シャタとガンデン寺僧侶、摂政レティン打倒。中国の介入なしで決着【GOL:44】シャタ、ラサヘ帰還。翌日ツクラカンに司令部を置き、デスィー就任を宣言。全官吏にガンデ・トゥンチェ(dga' 'bras drung che)への参加を呼びかけ。ツクラカンから政府の命令を発信。摂政レティン、セラ寺を経て中国へ逃亡【GOL:198】摂政ラティン、宰相ワンチュク・ギャルポ・シャタ(Wangchuk Gyalpo Shatra)と対立、摂政中国へ逃亡、シャタ、政権を握る【ダライラマ1989:412】レティン事件。(シャタ・)ワンチュクギャルポと対立したレティンが北京に逃亡・客死【平野2004:210-211】
 --ニャロン戦争(1865年まで)。中国の介入なしで決着【GOL:44】
 +周辺
 +メモ
 
 **1863 [#lafe728b]
 +チベット
 --東チベット・ニャロン(Nyarong)族首領ゴムボ・ナムギャル(Gompo Namgyar)の乱【ダライラマ1989:412】
 --公国の王らの訴えに応え、ダライラマがニャロンへチベット軍を派遣。乱を鎮圧【タイクマン:16】
 +周辺
 +メモ
 
 **1864 [#o295b175]
 +チベット
 --シャタ死去、パルデン・ドンドゥプ(Palden Dondup)政権を握る【ダライラマ1989:412】
 +周辺
 +メモ
 
 **1865 [#je29b403]
 +チベット
 --ニャチ任命。ニャロン、いくぶん弱いながらもデゲ、ホル公国に対するチベットの支配始まる(チベット政府はその地域を中国に返す代わりに軍事費用の補償金を清朝に要求。しかし清朝はその王国の統治責任を受け入れるのを嫌い、ダライラマの支配下に移した。1911趙爾豊による併合までチベットの支配下に)【タイクマン:16-17】
 +周辺
 +メモ
 
 **1871 [#y60f65c0]
 +チベット
 --国民議会(Tsongdu)設立される【ダライラマ1989:412】
 +周辺
 --《スリランカ》仏教とキリスト教の間で行われた有名な〈パーナドゥラ論争〉で仏教側が勝利をおさめ,スリランカの仏教が蘇生【南アジアを知る事典:698】
 +メモ
 
 **1873 [#sc6f171d]
 +チベット
 --第12世ダライラマ政権の座に就く【ダライラマ1989:412】
 +周辺
 +メモ
 
 **1875 [#n67f97ee]
 +チベット
 --[チベット暦3月20日 光緒元年4月25日]ダライラマ12世、ポタラ宮で没。数ヵ月後クンデリン寺座主タツァー・フトゥクトゥ、ガワンペンデン・チューキゲンツェンが首相(デスィー)に【TADA1965:1-2】
 --第12世ダライラマ死す、19歳。チョキイ・ギャルツェン・クンデリン(Choskyi Gyaltsen Kundeling)摂政となる【ダライラマ1989:412】
 --第12世ダライラマ死す、19歳。チョキイ・ギャルツェン・クンデリン、摂政となる【ダライラマ1989:412】
 --英国官吏、チベット国境沿い地域をトレッキング。英国側がレストハウス建設の許可申請し、チベット政府は抗議するが徒労に【シャカッパ:243】
 +周辺
 --《アメリカ》ニューヨークで神智学協会創設【藤井:3】
 +メモ
 --タツァー・フトゥクトゥは新ダライラマのラサ入りの際には、摂政(regent)となっている【TADA1965:10】
 --タツァー・フトゥクトゥは新ダライラマのラサ入りの際には、摂政となっている【TADA1965:10】

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