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[チベット史年表/1876-1894] の変更点


 #navi(チベット史年表)
 *&size(18){&color(Silver){(17) }; ダライラマ13世 摂政時代}; [#wbd9d6cd]
 
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 **1876 [#nb66dcef]
 +チベット
 --[6月26日 チベット暦5月5日]ダライラマ13世、ランドゥン村で父クンガリンチェン、母ロサンドマの間に生まれる【TADA1965:4-5】
 --[6月]ダライラマ13世、タクポで誕生。3年後にダライラマと認定【GOL:41】
 --清、イギリスと芝罘条約を結ぶ【山口1988:xiv】英清芝罘条約特別条項。英国、探検使節のチベット派遣を強要。これに清国政府は便宜供与の約束【ダライラマ1989:397】英国と清国は芝罘協定締結。その特別条項は「清国政府は、英国探検使節が中国からインドへ、チベット経由で通行することを許可する」と規定していた。これを駐蔵大臣から伝えられ、チベット国民議会は「英国人をチベット領に絶対入れない」ことを宣誓【ダライラマ1989:412】
 +周辺
 +メモ
 
 
 **1877 [#t15a803d]
 +チベット
 --[3月9日 チベット暦1月25日]チベット政府、ダライラマ候補の幼児に白ターラの像を奉呈し、政教の統治者として登位することを要請【TADA1965:6】
 --[11月24日 チベット暦10月20日]ダライラマ近侍の三役ら、ダライラマを迎えるためポタラを出発。ランドゥンへ【TADA1965:9】
 --[12月5日 チベット暦11月1日]ダライラマ一行、ラサへ向けてランドゥン発【TADA1965:9-10】
 --[12月16日 チベット暦11月12日]ダライラマ、デチェンにて摂政タツァー・フトゥクトゥを初めて引見【TADA1965:10】
 --[12月18日 チベット暦11月14日]ダライラマ一行、ツェー・クンタンへ。約2ヶ月をそこで過ごす【TADA1965:10-11】
 --ダライラマ選出に際し、金瓶掣籤は行われず【GOL:44】【TADA1965:6】
 +周辺
 --[1月]インド帝国の成立(イギリス国王がインド皇帝を兼務)【藤井:3】
 --《インド》[1月]インド帝国の成立(イギリス国王がインド皇帝を兼務)【藤井:3】
 +メモ
 
 **1878 [#nc87d126]
 +チベット
 --[2月5日 チベット暦1月4日]パンチェンラマ、ダライラマの剃髪および命名の儀式のため、ツェークンタン着【TADA1965:11】
 --[2月8日 チベット暦1月7日]ダライラマ剃髪・命名式。ガワン・ロサン・トゥプテン・ギャーツォ・ジクテー・ワンチュー・チューレー・ナムゲー【TADA1965:11】
 --[2月20日 チベット暦1月18日]ダライラマ一行、ツェー・クンタンを発ち、キチュ対岸のリギャへ。ダライラマはそこで1年余を過ごし、教師であるプブチョー・チャンパギャーツォの指導を受ける【TADA1965:12】
 --ギシェン・シン、ラッサに入る【山口1988:xiv】
 +周辺
 +メモ
 
 **1879 [#uf344e05]
 +チベット
 --[7月31日 チベット暦6月13日]ダライラマ、初めてポタラに入り、即位【TADA1965:16-17】
 --第13世ダライラマ、トゥプテン・ギャツォ即位【ダライラマ1989:412】
 +周辺
 +メモ
 
 **1880 [#dac65af7]
 +チベット
 --ナクチュカに白人の探検隊が入ったが、チベット政府派遣の官吏により退去【シャカッパ:243】
 --ドルジェフ、デプン寺で20年学んだのち帰郷していたが、この頃再びラサへ。ダライラマの教育に携わるツェニー・ケンポの地位を得る【TADA1965:38】
 +周辺
 +メモ
 
 **1881 [#h0a5c7da]
 +チベット
 --インド英国政府情報員サラト・チャンドラ・ダス、学僧を装いシガツェに来り、ラサその他を旅行(1881-83)し、地図を作成【ダライラマ1989:413】サラット・チャンドラ・ダス、仏教学生に扮しチベットへ。貴重な情報を収集、チベット政府の逮捕令をくぐりぬけて脱出。チベットの地理に関する報告書編纂。これに類似した事件がいくつも発生したため、チベット政府は英国領インドとの国交を疑問視【シャカッパ:238】
 +周辺
 --《インド》ブッダガヤ,1870年代から仏教聖地として再興がはじまったが,1881年から英国インド政庁がブッダガヤ大塔の修復と周辺の発掘事業に乗り出す
 +メモ
 
 **1882 [#e8b48197]
 +チベット
 --[2月23日 チベット暦1月6日]ダライラマ、沙弥戒を受ける【TADA1965:19】
 +周辺
 --神智学協会、マドラース近郊に移転【藤井:3】
 --《インド》神智学協会、マドラース近郊に移転【藤井:3】
 +メモ
 
 **1883 [#bd470b7b]
 +チベット
 --ネパール人商店略奪事件。チベットとネパールの代表が会見し、チベット政府がネパール商人に賠償することに同意するが、賠償金を実際に払ったのは、当時ダライラマ拝謁のためラサ滞在中だったモンゴル人チェイェン・ホトクトゥ【シャカッパ:238】
 --シッキムの統治者トゥトップ・ナムギャル、ダライラマ拝謁。チベット政府は異例の歓迎【シャカッパ:243】
 +周辺
 +メモ
 
 **1885 [#c9593edc]
 +チベット
 --ドルジエフ(ガワン・ロサン・ドルジェ)、デープン大僧院に入る【山口1988:xiv】
 --ダライラマ、ブータンの内紛に調停を求められ代理人(大臣ラムパ)派遣。調停成功。チベットの大臣がシッキムの国境近くに来た時、シッキム王がパリで会見する慣例を破り、王弟らが出迎え。同じ頃英国人数名が西チベットを経てシガツェに入ったとの報告があり、政府は滞在を拒否【シャカッパ:244】
 --英国政府からの圧力が次第に高まり、さまざまな形でチベット政府が悩まされていた頃、芝罘条約に従い清が英国に対し、チベット経由で中国とインドの間に遠征隊を送る許可を与えたことを知る。国民議会(ツォンドゥ)は、チベットが英国より四方八方から挑発されてきたこと、清皇帝は何者に対してもチベットを通過する許可を与える権限を有していないことを宣言。満州人はチベット人を従わせられず、英国のビルマ併合を承認【シャカッパ:244】英国マコウリー使節団、旅行完遂できず【グルンフェルド:67】
 +周辺
 --[3月]英印官僚の民族誌学者らによる北インド民族誌会議開催【藤井:3】
 --[12月]インド国民会議創立大会開催【藤井:3】
 --《インド》[3月]英印官僚の民族誌学者らによる北インド民族誌会議開催【藤井:3】
 --《インド》[12月]インド国民会議創立大会開催【藤井:3】
 +メモ
 
 **1886 [#o1c4ce6e]
 +チベット
 --[6月9日 チベット暦4月8日]摂政にしてダライラマの師クンデリン・タツァー・フトゥクトゥ没。後任はテンゲーリン寺のデモ・フトゥクトゥ【TADA1965:23】
 --摂政クンデリン死去、デモ・ティンレイ・ラブギェ(Demo Trinley Rabgyas)新摂政となる【ダライラマ1989:413】
 --[7月24日]英国と清朝政府、「ビルマとチベットに関する条約」締結。これにより、英国は芝罘条約で得たチベット入域の特権を断念【TADA1965:35】
 --[7月]英国と清国は北京で「ビルマおよびチベットに関する条約」を締結。英国は清国の属領であった、ビルマの事実上の主権を獲得し、代わりに、チベットに対する使節派遣、通商強要の権利を放棄【ダライラマ1989:413】
 --[10/11月 チベット暦9月]三大寺、外敵駆逐を祈願する儀式挙行の許可をダライラマに求める【TADA1965:35-36】
 +周辺
 +メモ
 
 **1887 [#q914962c]
 +チベット
 --[10月/11月 チベット暦9月]ダライラマの父クンガリンチェン没【TADA1965:24】
 --チベット政府、英国がザレプラ近くにレストハウス建設を予定していることを知り、国境線確認のためルントゥルに要塞化した検問所設置。英国、敵対的な要塞だと清に通告。シッキムの統治者を通じ、検問所撤去を要請。内閣、軍隊を派遣【シャカッパ:245】チベット側、シッキム国境にリントゥ(Lingthur)検問所を築く。シッキム国王チベットへ移住【ダライラマ1989:413】チベット、ザレプラを越えてシッキムに進出。シッキムによる撤退要求を聞き入れず【TADA1965:36】
 --サラット・チャンドラ・ダスを助けたかどで,センチェン・ラマが溺死の刑に。後年のラサとシガツェ間の不和は,おそらくこれによって始まる【DHONDUP:5】
 +周辺
 +メモ
 
 **1888 [#g5321015]
 +チベット
 --[2月26日 チベット暦1月15日]パンチェンラマ9世、ポタラ宮においてダライラマにより剃髪・命名。ジェツン・ロサン・チューキ・ニマ・ゲレー・ナムゲー【TADA1965:25】
 --[3月]英軍、チュンビ谷まで前進。後、ナトゥーまで後退【TADA1965:36】
 --[4-7月 チベット暦3-5月]ダライラマ、三大寺の7つの学堂それぞれで問答を行う【TADA1965:25-26】
 --ルントゥルの戦い(西欧列強の軍隊との初戦)。チベット敗北【シャカッパ:246】シッキム国境でチベット軍、英軍と数回交戦、敗れる【ダライラマ1989:413】
 --英国勝利の結果結ばれた2つの条約(1890年シッキムーチベット条約、1893年印蔵条約付属章程)で、中国は英国のシッキムにおける権利、国境画定、チベット南部ヤートン市場の英国への開放、チベットにおける英国の治外法権拡大を強いられたが、シッキムにおけるチベット商人に同等の権利は認められず【グルンフェルド:68】
 +周辺
 +メモ
 
 **1890 [#m9062787]
 +チベット
 --[12月5日]英国と清朝政府、カルカッタでチベットとシッキムに関する条約締結。チベット代表は参加せず【TADA1965:36】
 --インド総督ランズダウンとラサのアンバン升泰、チベット政府に諮ることなくカルカッタでチベットに関する協定に調印【シャカッパ:249】イギリス、清にシッキム条約を結ばせ、3年後に通商条約を補足させる【山口1988:xiv】シッキムに関する英清条約。チベット・シッキムの国境確定、シッキムに対する英国の保護権確立【ダライラマ1989:397】シッキム−チベット条約【グルンフェルド:68-69】
 +周辺
 +メモ
 
 **1891 [#rf3b7f1f]
 +チベット
 +周辺
 --シンハラ人アナガーリカ・ダルマパーラによってMaha Bodhi Society設立【Huber:15】
 +メモ
 
 **1893 [#wa55aa12]
 +チベット
 --[12月5日]英国と清朝政府、ダージリンで1888年の条約の通商に関する付帯条約に調印し、具体的措置を決定【TADA1965:36】
 --英清間で1890年の協定に通商規定追加。チベットとシッキムの国境沿いに交易施設を増設する規定あり。チベット政府、状況報告を受けるも、英国との深い接触がチベットの宗教と生活様式をそこなうと信じるため、重視せず【シャカッパ:250】印蔵条約付属章程【グルンフェルド:68】シッキム条約に、印蔵通商の制限に関する通商条項を補足。チベット・シッキム間の貿易、通信、牧場に関する規定【ダライラマ1989:397】
 +周辺
 +メモ
 
 **1894 [#n8e03e83]
 +チベット
 --ニャロンのチベット人、再度蜂起。チャラ公国へ侵入。当時国内的に平穏だった中国は四川総督鹿傳霖を派遣。ニャロンを占領し反乱鎮圧。鹿傳霖はニャロンの中国支配を皇帝に建議するが却下され、チベットの知事が着任【タイクマン:17-18】
 +周辺
 +メモ

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