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[チベット史年表/1895-1912] の変更点


 #navi(チベット史年表)
 *&size(18){&color(Silver){(18) }; ダライラマ13世 執政前期}; [#fc62cf3d]
 
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 **1895 [#aef7e094]
 +チベット
 --ラサの新年大法会で、ダライラマ行列を中国人役人階上から見下ろす不敬事件起こる。駐蔵大臣(アンバン)謝罪【ダライラマ1989:413】中国人官吏がダライラマの行列をわざと階上の窓から見下ろしていたことに関して、チベット人が抗議デモ。暴力沙汰回避のため、アンバンが中国人官吏に命じてダライラマに陳謝させ、同じ過ちをしないと書面にしたためさせた【シャカッパ:239】
 --[3月7日 チベット暦1月11日]ダライラマ、チョカンのシャカムニ像の前で受戒【TADA1965:28】
 --ラサの新年大法会で、ダライラマ行列を中国人役人階上から見下ろす不敬事件起こる。駐蔵大臣(アンバン)謝罪【ダライラマ1989:413】中国人官吏がダライラマの行列をわざと階上の窓から見下ろしていたことに関して、チベット人が抗議デモ。暴力沙汰回避のため、アンバンが中国人官吏に命じてダライラマに陳謝させ、同じ過ちをしないと書面にしたためさせた【シャカッパ:239】
 --[9月26日 チベット暦8月8日]ダライラマ、即位(当時20歳)【TADA1965:31】
 --[8月]第13世ダライラマ政権の座につく。前摂政デモによるダライラマ呪殺陰謀事件露見【ダライラマ1989:413】
 --ダライラマ即位。当時清朝はチベットに対しほとんど影響力を行使できず、ダライラマの権力掌握になんら異論を唱えなかった【シャカッパ:240】
 --ダライラマ、チベットの領域・民族・学問・宗教・民族性に関する5か条の布告を発する【TADA1965:32】
 +周辺
 +メモ
 --3月7日にダライラマが受けた戒は、371の戒律を守るというもの【TADA1965:28】
 --ダライラマは即位の前、18際の時から政治に参加していた【TADA1965:30】
 
 **1898 [#kf38dfae]
 +チベット
 --ロシア・バラノフ使節団、ラッサに至る【山口1988:xiv】
 --ドルジ(ドルジエフ)、初めてサンクトペテルブルクヘ旅行【グルンフェルド:72】ドルジェフ、ロシアへ【TADA1965:39】
 --ドルジ(ドルジエフ)、初めてサンクトペテルブルクヘ旅行【グルンフェルド:72】ドルジエフ、ロシアへ【TADA1965:39】
 --ダライラマによるニャロンの併合、清朝政府により正式に確認【タイクマン:48】
 +周辺
 +メモ
 
 **1899 [#v2da6f6b]
 +チベット
 --寺本婉雅・能海寛、リタンを経てパタンに至る【山口1988:xiv】
 --テモ・フトクト(bstan gling de mo ngag dbang blo bzang 'phrin las rab rgyas)、ダライラマ呪殺を企てたとして、兄弟のノーブ・ツェリン、ニャクトゥー(nyag sprul)らとともに逮捕。自宅監禁下で死亡。フトクトのラブランは財産を没収され、政府は以後テモ転生者を認定しないことを言明【GOL:42-43】テモとニャクトゥーら、逮捕。学堂(grwa tshang)の財産はそのままで、ラブランの財産を没収。テモはトゥー地方サガ(sa dga')に流罪となり、その地で死去。ニャクトゥーはポタラ宮東大楼(shar chen lcog)に投獄され、自殺【西蔵歴史年表:80】前摂政デモ・ティンレー・ラプギェーが復権を狙ってダライラマを呪い殺そうとした事件で、前摂政の弟子らがアンバンに賄賂を送り、釈放に尽力してくれるよう依頼。アンバンは調査委員会の会合出席に同意したが、チベット政府がそれを拒否【シャカッパ:241】
 --テモ・フトクト、ダライラマ呪殺を企てたとして、兄弟のノーブ・ツェリン、ニャクトゥーらとともに逮捕。自宅監禁下で死亡。フトクトのラブランは財産を没収され、政府は以後テモ転生者を認定しないことを言明【GOL:42-43】テモとニャクトゥーら、逮捕。学堂の財産はそのままで、ラブランの財産を没収。テモはトゥー地方サガに流罪となり、その地で死去。ニャクトゥーはポタラ宮東大楼に投獄され、自殺【西蔵歴史年表:80】前摂政デモ・ティンレー・ラプギェーが復権を狙ってダライラマを呪い殺そうとした事件で、前摂政の弟子らがアンバンに賄賂を送り、釈放に尽力してくれるよう依頼。アンバンは調査委員会の会合出席に同意したが、チベット政府がそれを拒否【シャカッパ:241】
 --インド総督カーゾン、チベットにブータンのウゲン・カジを派遣し、通商と国境に関する協議を要求。チベットは応じず【TADA1965:37】
 +周辺
 --カーソン、インド総督に【山口1988:xiv】
 --英国科学振興協会、インド国勢調査における民族誌調査を提言。英国政府の裁可。人種に多大なる関心【藤井:4】
 --《インド》カーソン、インド総督に【山口1988:xiv】
 --《インド》英国科学振興協会、インド国勢調査における民族誌調査を提言。英国政府の裁可。人種に多大なる関心【藤井:4】
 +メモ
 --テモ・フトクトに関する記事について,【シャカッパ:241】には年号が記されていないが,【SHAK76(2):75】により1899年と確認。
 
 **1900 [#c6c9dd8b]
 +チベット
 --[3月]ダライラマ一行、ガンデン、チュンコルギェー、ご生地、ショツァリ、ロネーに行幸【西蔵歴史年表:80-81】
 --[6月]河口慧海、ラサ入り【TADA1965:89】
 --河口慧海、中央チベットに入る【山口1988:xiv】河口慧海、第1回入蔵(-1902)【ダライラマ1989:414】河口慧海、ラダック僧を装いセラ寺入り。ダスを通じ英国に情報を送る。英国はそれをもとに、チベットがロシアから「小型の銃砲、弾薬その他の興味深い品々」という軍事援助を受けていると確信【シャカッパ:250】
 --[9月]ダライラマ特使アワン・ロサンドルジ(Ngawang Losangdorj)ペテルスブルグにてロシア皇帝ニコライ2世と第一回会見、ロサンドルジはブリアート・モンゴル僧、通称ドルジエフ。(ダライラマ、ロシアと結び英国と中国の牽制を計る)【ダライラマ1989:413-414】
 --ダライラマ13世特使ドルジエフ、ロシア皇帝の謁見を受ける【山口1988:xiv】ドルジェフ、ヤルタでニコライ2世に謁見し、チベットの状況を報告【TADA1965:39】
 --河口慧海、中央チベットに入る【山口1988:xiv】河口慧海、第1回入蔵(-1902)【ダライラマ1989:414】河口慧海、ラダック僧を装いセラ寺入り【シャカッパ:250】
 --[9月]ダライラマ特使アワン・ロサンドルジ(ブリアート・モンゴル僧、通称ドルジエフ)、ペテルスブルグにてロシア皇帝ニコライ2世と第一回会見【ダライラマ1989:413-414】
 --ダライラマ13世特使ドルジエフ、ロシア皇帝の謁見を受ける【山口1988:xiv】ドルジエフ、ヤルタでニコライ2世に謁見し、チベットの状況を報告【TADA1965:39】
 --デゲ公国の王位継承争いに関し、王子、ダライラマにより王としての地位を確認される(正確な年次、未確認)【タイクマン:18】
 +周辺
 +メモ
 --【TADA1965:3】の表記を参照し、「チューコルギェー」を「チュンコルゲー」とした
 --【TADA1965:3】の表記を参照し、「チューコルギェー」を「チュンコルゲー」とした。
 
 **1901 [#l2674b50]
 +チベット
 --[7月]ドルジェフ、再度ニコライ2世に謁見。ダライラマからの手紙を渡す【TADA1965:39】
 --[7月]ドルジエフ、再度ニコライ2世に謁見。ダライラマからの手紙を渡す【TADA1965:39】
 --ロサンドルジ、再度ダライラマ親書を携え、ニコライ2世と会見、英国驚く【ダライラマ1989:414】
 --[9月2日]駐ロシア英国公使、チベットに対するロシアの関与について強硬に抗議【TADA1965:40】
 --[12月]成田安輝、ラッサに至る【山口1988:xiv】
 --成田安輝入蔵(ラサ滞在18日間)【ダライラマ1989:414】
 --インド政府、カジ・ウゲンにインド総督カーゾンからの手紙を持たせ、ラサへ派遣。ダライラマは受取を拒否【BELL1946:61】
 +周辺
 +メモ
 
 **1902 [#f478243e]
 +チベット
 --パンチェンラマ、ラサでダライラマから受戒【BELL1946:64】
 +周辺
 --清露秘密条約締結の噂。ロシアがチベット、モンゴル、新疆における行動の自由と引き換えに中国の領土保全を保証したと【グルンフェルド:72】
 --《ロシア》《中国》清露秘密条約締結の噂。ロシアがチベット、モンゴル、新疆における行動の自由と引き換えに中国の領土保全を保証したと【グルンフェルド:72】
 +メモ
 
 **1903 [#r86310d4]
 +チベット
 --[2月]英国、チベットによる1890年と1893年の条約違反などを表向きの理由に、ラサ進出を決定【TADA1965:41】
 --[3月]英国、チベットへのヤングハズバンド派遣を決定【TADA1965:41】
 --[6月19日]英国使節団、シッキムのラチェンを出発【シャカッパ:253-254】
 --[7月]フランシス・ヤングハズバンド(Francis Younghusband)大佐率いる英国遠征軍チベットに入る。チベット軍数次の戦いに敗れる【ダライラマ1989:414】
 --[7月]フランシス・ヤングハズバンド大佐率いる英国遠征軍チベットに入る。チベット軍数次の戦いに敗れる【ダライラマ1989:414】
 --[7月 チベット暦6月]ヤングハズバンド大佐率いるイギリス軍が、貿易交渉の開始と、英国=チベットの国交問題を討議する目的でカムパ・ゾンに迫りつつあるとの知らせがラサに入る【シャカッパ:253】 
 --チベットとの直接交渉を求め、イギリスがチベットへ進攻【タイクマン:22】ヤングハズバンド使節団、カンバゾンに入る【山口1988:xiv】
 --[チベット暦9月17日]ヤングハズバンドら、シッキムに帰還【シャカッパ:256】
 --[11月6日]英国当局、使節団に前進を命令【TADA1965:42】
 --[11月7日]駐ロンドンロシア大使、英国使節団前進の通知を受ける【TADA1965:42】
 --[12月12日]英国使節団、ザレプラを越える【TADA1965:42】
 --[12月]英国の軍事遠征隊、ナドンに到着【シャカッパ:258】
 --ダライラマ、親英派であるとしてシャタ・シューカン・チャンキム大臣を罷免【GOL:49】
 --ダライラマ、親英派であるとしてシャタ、シューカン、チャンキムの各大臣を罷免【GOL:49】
 +周辺
 +メモ
 
 **1904 [#i26a3538]
 +チベット
 --[1月7日]英国使節団、トゥナ到着【TADA1965:42】
 --[1月12日 チベット暦癸卯年11月29日]将軍ラディン、トゥーナにおもむき、ヤングハズバンドに会見を求めるが拒否され、グルに戻る【シャカッパ:259】
 --[3月3日 チベット暦1月19日]ヤングハズバンド、グルのチベット軍の陣営を訪問【シャカッパ:259】
 --[3月28日]トゥナの英国使節団に援軍が合流し、100名の英国人、1200名のインド人でギャンツェに向けて出発。午後、チベット側と最初の戦闘【TADA1965:42】
 --[3月31日]グルにて英国とチベット戦う【シャカッパ:260】
 --[4月11日]英国軍、ギャンツェに入る【シャカッパ:263】
 --[5月14日]英国政府、ラサへの前進を使節団に命令【TADA1965:43】
 --[5月24日]英国使節団への援軍、ギャンツェ着【TADA1965:43】
 --[6月26日]英国使節団へ、さらに強力な援軍加わる【TADA1965:43】
 --[6月30日 チベット暦5月17日]ダライラマ、英国使節団チュシュー着の知らせを受け、7名の供とともにラサ脱出【TADA1965:43】
 --[7月5-6日]英国軍とチベット軍、ギャンツェで交戦。ギャンツェの要塞崩れる【TADA1965:43】
 --[7月14日]英国軍、ラサめざしてギャンツェより進軍開始【シャカッパ:264】【TADA1965:43】
 --[7月29日]英国軍、ツァンポ河の船渡し場に到着【シャカッパ:265】
 --[7月30日 チベット暦6月15日]ダライラマ、ラサを脱出。北方に向かう【シャカッパ:265】【SHAK76(2):123】
 --[7月30日]第13世ダライラマ北方に向かいラサ脱出、ガンデン・ティ・リンポチェ(Ganden Tri Rimpoche)およびロザン・ギャルツェン・ラモシャル(Lozang Gyaltsen Lamoshar)の二人を摂政に任命【ダライラマ1989:414】
 --[7月30日]第13世ダライラマ、北方に向かいラサ脱出、ガンデン・ティ・リンポチェおよびロザン・ギャルツェン・ラモシャルの二人を摂政に任命【ダライラマ1989:414】
 --[チベット暦6月15日]ダライラマ,少数の供とともにポタラ宮を出発【CHMO(11):126】
 --[7月]13世、外モンゴル亡命に向かう【山口1988:xiv】
 --[夏]ダライラマ、ラサを出てウルガへ。1年滞在【タイクマン:25】
 --[8月3日 チベット暦6月22日]ヤングハズバンド隊、ラサ着【TADA1965:44】
 --[8月3日]英国軍、ラサ郊外に到り陣営を張る【シャカッパ:265】
 --ダライラマ、アンバンの助言に反してラサを脱出。ロシアの援助を期待しモンゴルへ向かう【GOL:45】
 --[8月3日]英国軍、ラサ到着【ダライラマ1989:414】
 --[9月7日 チベット暦7月17日]ポタラ宮殿の謁見室にて協定に調印。チベット側の代表は、摂政の資格によりガンデン大座主、内閣の大臣4名、国民議会の4人の書記、三大僧院の代表たち。英国側の代表はフランシス・ヤングハズバンド大佐、シッキム政務官ジョン=クロード・ホワイト、その他の将校5名。協定に証人として立ち会ったのは駐蔵大臣有泰、ブータンの王で調停役となったトンサ・ペンロップ、ネパール代表ジット・バハドゥル【シャカッパ:267】
 --[9月7日]英国・チベット・ラサ条約締結、立会人は駐蔵大臣、ブータン代表、ネパール代表、チベット側は貿易市場を2ヵ所開くこと、賠償金50万ポンドの支払い、英国の許可なしで外国人に内政干渉させないことなど【ダライラマ1989:414】regent(dga' ldan khri pa bla mo shar blo bzang rgyal mtshan【シャカッパ:265】)、寺院・政府官吏らがイギリスとの協定(agreement)に署名。その中でチベットは、シッキムに対するイギリスの支配権(overlordship)を認め、インドとの通商開始に同意。ギャンツェ、ガルトクに交易所を設け、イギリスの官吏、軍隊が駐留することを許可。外交を放棄【GOL:45】条約調印【TADA1965:44】
 --[9月7日 チベット暦7月17日]ポタラ宮殿の謁見室にて協定に調印【シャカッパ:267】
 --[9月7日]英国・チベット・ラサ条約締結【ダライラマ1989:414】条約調印【GOL:45】【TADA1965:44】
 --[9月]ヤングハズバンド、ポタラ宮でラッサ条約を結ばせる【山口1988:xiv】
 --英蔵ラサ条約。チベット国内に英国市場の開設、賠償金支払、チュムビ渓谷に英国軍駐留など【ダライラマ1989:397】
 --英蔵ラサ条約【ダライラマ1989:397】
 --英国、ラサに外交官を駐在させチベット政府と密接な関係を保つ権利を放棄【タイクマン:24】
 --中国はチベット賠償金の支払いに同意【グルンフェルド:80】
 --[9月23日]英軍撤退開始【ダライラマ1989:414】英国軍、ラサを出発。オコナー大尉が通商官として補佐役のスタッフ数名とともにギャンツェに駐在することに【シャカッパ:270】
 --[9月23日]英軍撤退開始【ダライラマ1989:414】英国軍、ラサを出発【シャカッパ:270】
 --[9/10月 チベット暦8月]ダライラマ、青海のツァイダム着【TADA1965:45】
 --[10月]パンチェンラマ、カルカッタ訪問、英国側に歓待される。これがラサ政府とパンチェン間の摩擦の始まり【ダライラマ1989:414】
 --[10月]パンチェンラマ、カルカッタ訪問、英国側に歓待される【ダライラマ1989:414】
 --[10月]ダライラマ、ウルガ着【GOL:45】
 --[11月]ダライラマ、ウルガ着【BELL1946:66】
 --[11/12月 チベット暦10月]ダライラマ、クロン着【TADA1965:45】
 --[チベット暦10月20日]ダライラマ、ダークレー着【PHUR LCOG:512】
 --[末]ダライラマ、ラサを出てウルガへ。1年滞在【タイクマン:25】ダライラマ、外蒙古のウルガ(今のウランバートル)到着【ダライラマ1989:415】
 --中国政府、ダライラマを廃位【GOL:45】
 --駐蔵幇弁大臣鳳全、国境地方へ進軍し巴塘に根拠地を設置【タイクマン:34】
 --寺本婉雅入蔵、滞在3ヶ月半【ダライラマ1989:415】
 +周辺
 --チャールズ・ベル、ブータンに遠征し、カジウゲンと親交を結ぶ【BELL1946:80】
 --《ブータン》チャールズ・ベル、ブータンに遠征し、カジウゲンと親交を結ぶ【BELL1946:80】
 +メモ
 --1月7日の英国使節団トゥナ到着を【TADA1965:42】は1902年のこととしているが、前後の文脈から、1904年の間違いではないかと思われる。
 
 **1905 [#pb8d0315]
 +チベット
 --[春]巴塘付近でチベット人蜂起。鳳全殺害。国境地帯で反乱多発【タイクマン:34-35】
 --中国、バタンで寺院の僧侶数を減らすよう布告を発し、以後20年間、僧の補充を禁止。カトリックのフランス人聖職者に土地を提供。それに対し、僧侶率いるチベット人が蜂起。一連の措置の立案者である鳳全とその護衛、カトリック聖職者2名を殺害。四川当局がただちに軍を派遣しバタンを奪取、寺院を破壊。鳳全の後任に趙爾豊を任命【GOL:46】
 --東チベットにおける中国の武力行使スタート【タイクマン:25】
 --[旧暦3月20日]寺本婉雅,ラサ到着【寺本S49:177】
 --[4月]パタン事件起こり、鳳全殺される【山口1988:xiv】
 --[春]巴塘付近でチベット人蜂起。鳳全殺害。国境地帯で反乱多発【タイクマン:34-35】
 --中国、バタンで寺院の僧侶数を減らすよう布告を発し、以後20年間、僧の補充を禁止。カトリックのフランス人聖職者に土地を提供。それに対し、僧侶率いるチベット人が蜂起。一連の措置の立案者である鳳全とその護衛、カトリック聖職者2名を殺害。四川当局がただちに軍を派遣しバタンを奪取、寺院を破壊。鳳全の後任に趙爾豊を任命【GOL:46】東チベットにおける中国の武力行使スタート【タイクマン:25】
 --[5月]ダライラマ、ロシアのツァーに対し「チベットに関する保護の責任を負う」ようウルガにて訴え【グルンフェルド:79】
 --[旧暦6月8日]寺本婉雅,ラサ発【寺本S49:185】
 --[6月]趙爾豊、カム地方掌握工作始める【山口1988:xiv】
 --[6月]新ロシア公使ポコティロフ、ウルガに至りダライラマにロシア皇帝からの贈り物を手渡す【BELL1946:66-67】
 --[7月 チベット暦5月]駐北京ロシア公使、ダライラマを訪問【TADA1965:46】
 --[初夏]四川省最高軍司令官馬維騏将軍、軍を率い成都出発。巴塘を鎮圧。道台(清朝時代の地方官吏。省内各府県の政務監察)趙爾豊、総督の命を受け、国境地帯を平和に保つ仕事に乗り出した【タイクマン:35】
 --[初夏]四川省最高軍司令官馬維騏将軍、軍を率い成都出発。巴塘を鎮圧。道台の趙爾豊、総督の命を受け、国境地帯を平和に保つ仕事に乗り出した【タイクマン:35】
 --[夏]チベット、アンバンを通じて中国皇帝に、ダライラマの復位を依頼。ダライラマに帰国要請【GOL:48】
 --[秋]ダライラマ、ラサへ向けて出発【タイクマン:25】
 --[12月]パンチェンラマ6世、イギリス・インド政庁訪問。寺本婉雅、青海から中央チベットを経てインドに出る【山口1988:xiv】
 --[末]郷城(シャンチェン)に集結したチベットが再反乱。1906年夏までに趙爾豊が鎮圧。以後、打箭炉から巴塘へ通じる南公路とその周辺は中国の掌中へ【タイクマン:35】
 --[12月]パンチェンラマ6世、イギリス・インド政庁訪問【山口1988:xiv】
 --[12月]寺本婉雅、青海から中央チベットを経てインドに出る【山口1988:xiv】
 --[末]郷城(シャンチェン)に集結したチベットが再反乱【タイクマン:35】
 --[末]清朝,ラサ条約に規定されたイギリスへの賠償金支払いを肩代わりする旨,チベット国内で布告【山口1988:134】
 --ダライラマ、日露戦争におけるロシアの敗北を知りペテルスブルグ行きを中止【ダライラマ1989:415】
 --ダライラマ、1903年に罷免したシャタ・シューカン・チャンキムを、内閣より上のルンチェンの地位に任命【GOL:49】
 --ギャンツェのイギリス通商部初代代表オコナー(W.O'Connor)がパンチェンラマを訪問し、ラマがイギリスの援助でラサから政治的に独立する意向があると判断【GOL:62】
 --この頃(1904年以後)、アンバンが「イギリスのラサやチュンビ谷からの早期撤退は、中国を恐れてのこと」と吹聴。チベット政府改革とチベット人エリートの中国化を実施(大規模な軍隊を訓練、俗人の評議会を設置、道路・電信線敷設、資源開発を検討。中国式の学校や陸軍大学を開校)【GOL:47】
 --ダライラマ、1903年に罷免したシャタ、シューカン、チャンキムを、内閣より上のルンチェンの地位に任命【GOL:49】
 --ギャンツェのイギリス通商部初代代表オコナーがパンチェンラマを訪問し、ラマがイギリスの援助でラサから政治的に独立する意向があると判断【GOL:62】
 +周辺
 --[8月]趙爾豊、四川総督に任命される【TADA1965:50】
 --この年以降、インドでカースト改革とヒンドゥー教擁護の一体化始まる【藤井:4】
 --《中国》[8月]趙爾豊、四川総督に任命される【TADA1965:50】
 --《インド》カースト改革とヒンドゥー教擁護の一体化始まる【藤井:4】
 +メモ
 
 **1906 [#aa5ffd86]
 +チベット
 --張蔭棠、アンバンに任命され、中国のチベット統治権回復を担う【グルンフェルド:81】
 --張蔭棠、チベットでの中国の立場を安定させるための時間かせぎを図り、ダライラマのチベット帰還を遅らせるよう、皇帝に依頼【GOL:48】
 --[始め]ダライラマ、クンブン着。2年滞在【タイクマン:25】
 --[4月27日]チベットに関する英清北京条約、締結【GOL:70】ラサ条約の承認を求めて条約署名直後から中国と接触していたイギリスは、チベットにおける中国の立場を確認。通商のみでチベットに関与することに【GOL:46】
 --[4月27日]チベットに関する英清北京条約、締結【GOL:70】
 --[4月]英清西蔵条約成立。張蔭棠による宗主権回復工作進む【山口1988:xiv】チベットに関する英清北京条約。1904年の条約を北京にて清朝政府承認【ダライラマ1989:397】英中条約【TADA1965:50】英清条約、北京で調印【BELL1946:78】
 --[5月]張蔭棠,朝廷から副都統の職階,アンバンの身分を与えられ,チベット派遣決定【天朝:620】
 --張蔭棠、アンバンに任命され、中国のチベット統治権回復を担う【グルンフェルド:81】
 --張蔭棠、チベットでの中国の立場を安定させるための時間かせぎを図り、ダライラマのチベット帰還を遅らせるよう、皇帝に依頼【GOL:48】
 --張蔭棠,チベット政府大臣サルチュン・ツェテン・ワンチュクをカルカッタに呼び出し,ラサ条約に規定された賠償金を英印政庁に払わせる(賠償金の負担者は清朝)【山口1988:134】
 --[7月22日]張蔭棠,チベット入り(海路でインドに入り,ダージリンを経由して入蔵)【天朝:620】
 --[秋]趙爾豊軍が道を開くのを1年以上国境で待っていた新アンバン聯豫、ラサ到着(1912までラサに)【タイクマン:36】
 --[10月13日]張蔭棠ラサ入り【天朝:620】
 --[10月]ダライラマ、アムド着。中国皇帝からの命令を受け、チベットに向けて出発せず約1年間そこに滞在【GOL:48】ダライラマ、甘粛省Kanchow着【BELL1946:69】
 --[秋]趙爾豊軍が道を開くのを1年以上国境で待っていた新アンバン聯豫、ラサ到着【タイクマン:36】
 --[10月]ダライラマ、アムド着。中国皇帝からの命令を受け、チベットに向けて出発せず約1年間そこに滞在【GOL:48】ダライラマ、甘粛着【BELL1946:69】
 --[11月]ダライラマ、西寧着。クンブム寺訪問【BELL1946:69】
 --[11月]寺本婉雅、青海に至ったダライラマ13世に会う【山口1988:xiv】
 --[11月]趙爾豊、受勲。辺務大臣に任命され、広大な地域(甘粛、ココノール、雲南、ビルマ、アッサム、打箭炉、中央チベットまで)の独立した統括権を掌握。ラサや西寧のアンバンの任命権も持った【タイクマン:36-37】
 --[年末]趙爾豊、チベット東部に軍を進め、バタンを占拠【TADA1965:50】
 --チャールズ・ベル、パンチェンラマを訪問。パンチェンラマは、ラサから独立し、独立国として英国政府と関係を結びたいと発言【BELL1946:128】
 +周辺
 +メモ
 
 **1907 [#k2da10ae]
 +チベット
 --[3月]趙爾豊、四川総督の代理として1年以上執務。その間にブムラまでの地域全体が直接中国行政下に入り、行政官が打箭炉、巴塘などに着任(これらの県はこれまでもラサより北京の影響下にあった領域であり、東チベットのラサ支配地域はまだ残っていた)【タイクマン:37】
 --[3月]趙爾豊、四川総督の代理として1年以上執務。その間にブムラまでの地域全体が直接中国行政下に入り、行政官が打箭炉、巴塘などに着任【タイクマン:37】
 --[7月]英中、チベットに対する中国の宗主権を確認する条約を結ぶことに合意【TADA1965:50】
 --[8月]ぺルシャ、アフガニスタン、チベットに関する英露条約。チベットにおける清国の宗主権を認める。両国はチベットの領土保全を尊重し、その内政にいっさい干渉しない。チベットにおける英国の既得権は変更しない。両国は代表をラサに送らない。チベット国内で鉄道、道路、電信、鉱山などの利権を求めない。他【ダライラマ1989:397】英露協約締結。両国とも正式にチベットに対する中国の宗主権を確認、チベット内部問題への不干渉を保証。英国の特殊な通商利益は承認【グルンフェルド:80】英露条約。両国がチベット内政への不干渉に合意。ロシアは、チベットの対外関係における英国の現特別権益の維持を承認【BELL1946:69】
 --シムラで三者会談。ただしチベットの出席者は「代表」、英中の出席者は「全権代表」【グルンフェルド:81】
 --シムラで三者会談【グルンフェルド:81】
 --[年末]13世、ラッサに帰らず、北京に向かう【山口1988:xiv】13世,西安府到着【シャカッパ:272】
 --ダライラマ、中国皇帝からの招きを受けて、北京へ向けて出発【GOL:49】
 --中国による施策の一環として、ラサに中国式の学校開校【GOL:47】
 --イギリスに2度目の賠償金支払い。ツァロン・オンジューゲーボがインドにて【タリン1991:47】
 --イギリスに2度目の賠償金支払い。ツァロン・オンジューギェーボがインドにて【タリン1991:47】
 +周辺
 +メモ
 
 **1908 [#u4c1ad42]
 +チベット
 --[1月]ダライラマ、駐中国英国公使ジョーダンに文書と使者を送り、インドとの親しい関係を望んでいると伝える【BELL1946:69】
 --ダライラマ、北京駐在イギリス公使ジョーダンに「イギリスとの友好を望む」旨、口頭で伝達【GOL:49】
 --[2月]清朝、肩代わりを決めたチベットの対英賠償金の最終分250万ルピーを支払い。英印軍はチュンビ谷から撤退へ【TADA1965:51】 
 --[3月7日 チベット暦1月5日]ダライラマ、北京へ向かうためクンブム寺を出発【TADA1965:46】
 --[4月]清朝政府、英印側とインド・チベット通商条約の細部を詰めるようアンバンに指示【TADA1965:51】
 --[5月 チベット暦3月]ダライラマ、五台山へ【TADA1965:47】
 --[春]ダライラマ、山西省五台山訪問。その後北京へ【タイクマン:25】
 --山西省五台山にてダライラマ、西本願寺の大谷尊由と、北京にて日本公使林権助、福島安正中将らと会見【ダライラマ1989:415】ダライラマ、西本願寺の大谷尊由、北京公使館付武官福島安正、公使林権助と接触【TADA1965:87】
 --[6月 チベット暦4月]大谷光瑞、五台山のダライラマのもとへ弟の尊由を派遣【TADA1965:47】
 --[6月]ロックヒル、大谷尊由・寺本婉雅ら五台山にダライラマ13世と会う【山口1988:xiv】
 --[6月 チベット暦4月]大谷光瑞、五台山のダライラマのもとへ弟の尊由を派遣。会見の通訳はおそらく寺本婉雅【TADA1965:47】
 --山西省五台山にてダライラマ、西本願寺の大谷尊由と、北京にて日本公使林権助、福島安正中将らと会見【ダライラマ1989:415】ダライラマ、西本願寺の大谷尊由、北京公使館付武官福島安正、公使林権助と接触【TADA1965:87】
 --[8月 チベット暦6月]皇帝特使のロシア公使、ダライラマを訪問。王子誕生祈願を依頼【TADA1965:48】
 --[9月 チベット暦7月]ダライラマ、清朝より正式な北京招待を受ける【TADA1965:51】
 --[9月27日 チベット暦8月3日]ダライラマ、北京到着【シャカッパ:273】
 --[9月27日か28日 チベット暦8月3日]ダライラマ、皇帝の用意した輿で北京入城【TADA1965:51】
 --[9月28日]ダライラマ、北京到着【タイクマン:26】【GOL:49】
 --[秋]趙爾豊、デゲに向かって進軍開始。王子兄弟を追放し、中国による統治導入。チベット政府、アンバンを通じ皇帝に原状復帰を懇請【タイクマン:38、40】
 --[10月14日 チベット暦8月20日]ダライラマ、西太后・光緒帝と会見【TADA1965:51】
 --[10月25日 チベット暦9月1日]ダライラマ、雍和宮で法要司宰。皇帝と西太后も臨席【TADA1965:51】
 --[11月3日]ダライラマ、西太后と会見し、名誉(honors)と称号などを贈られる【GOL:49】
 --[11月3日]ダライラマ、西太后と会見し、名誉の品(?honors)と称号などを贈られる【GOL:49】清朝、ダライラマに勅令発布。新しい称号授与。ダライラマを皇帝の忠実で従順な在外使臣と任じ、ダライラマへ行動指針を与え、すべてについてアンバンを通じて皇帝に建白建議させ、皇帝の御意を謹んで待つよう命令【タイクマン:27】
 --[11月]ダライラマ、西太后と会う【山口1988:xiv】
 --ダライラマ、西太后、光緒帝と会見【ダライラマ1989:415】
 --[11月3日]清朝、ダライラマに勅令発布。新しい称号授与。ダライラマを皇帝の忠実で従順な在外使臣と任じ、ダライラマへ行動指針を与え、すべてについてアンバンを通じて皇帝に建白建議させ、皇帝の御意を謹んで待つよう命令【タイクマン:27】
 --[11月28日 チベット暦10月5日]ダライラマ、光緒帝・西太后の弔問へ【TADA1965:52】
 --[12月2日 チベット暦10月9日]ダライラマ、光緒帝の後継者を選ぶよう請われ、溥儀を指名【TADA1965:52】
 --ダライラマ、在北京日本公使館に約1週間滞在(林権助、テーカンの証言)【TADA1965:51】
 --ダライラマ、在北京日本公使館に約1週間滞在【TADA1965:51】
 --[12月21日 チベット暦10月28日]ダライラマ、北京発【TADA1965:55】
 --[12月21日]ダライラマ、北京発【タイクマン:28】
 --趙爾豊、カムを鎮圧。カムを中国の行政区に組み込むための施策を、まずバタンで実施【GOL:46-47】
 --[年末]西太后没後、ダライラマ帰国の途につく【山口1988:xiv】
 --趙爾豊、カムを鎮圧。カムを中国の行政区に組み込むための施策を、まずバタンで実施【GOL:46-47】
 --中国による施策の一環として、陸軍大学開校【GOL:47】
 +周辺
 --[3月]趙爾豊、北京府の長官の地位で駐蔵大臣に、その兄趙爾巽を四川総督に任じる勅令発布【タイクマン:37-38】
 --[4月]英清通商協定締結【山口1988:xiv】英清通商条約。1906年の条約を修正【ダライラマ1989:397】これは印蔵交易を律するもの【タイクマン:24】
 --英清通商条約締結【BELL1946:78】
 --[11月14日 チベット暦9月21日]光緒帝、没【TADA1965:52】
 --[11月]光緒帝、没【シャカッパ:274】
 --[11月15日]西太后、没【TADA1965:52】
 --[チベット暦10月9日]宣統帝、即位【シャカッパ:274】
 --《中国》[3月]趙爾豊、北京府の長官の地位で駐蔵大臣に、その兄趙爾巽を四川総督に任じる勅令発布【タイクマン:37-38】
 --《中国》《イギリス》[4月]英清通商協定締結【山口1988:xiv】英清通商条約。1906年の条約を修正【ダライラマ1989:397】これは印蔵交易を律するもの【タイクマン:24】
 --《中国》《イギリス》英清通商条約締結【BELL1946:78】
 --《中国》[11月14日 チベット暦9月21日]光緒帝、没【TADA1965:52】
 --《中国》[11月]光緒帝、没【シャカッパ:274】
 --《中国》[11月15日]西太后、没【TADA1965:52】
 --《中国》[チベット暦10月9日]宣統帝、即位【シャカッパ:274】
 +メモ
 --多田は西太后の死亡(11月15日)を光緒帝死亡の翌日としているが、チベット暦が連続した次の日であるとは限らないので記入しなかった
 --多田は西太后の死亡(11月15日)を光緒帝死亡の翌日としているが、チベット暦が16日であるとは限らないので記入しなかった。
 
 **1909 [#r10a3cb2]
 +チベット
 --[2月19日 チベット暦12月29日]ダライラマ、クンブム寺着【TADA1965:55】
 --[春]ダライラマ、西寧着【タイクマン:28】
 --[2月20/21日 チベット暦1月1日]ダライラマ、新年を祝う。ダライラマ、34歳に【TADA1965:55】
 --[3月6日 チベット暦1月15日]ダライラマ、ラサへ向けてクンブム寺出発【TADA1965:55】
 --[夏]ダライラマ、アムドからラサへ向けて出発【GOL:50】
 --[7月か8月 チベット暦6月]ダライラマ、ナクチュカの化身ドゥプカンを訪ね、シャプテン寺に滞在【TADA1965:55】
 --[11月]中国Foreign Office、2000の兵をインド経由でチベットへ送ろうと図り、英印に打診。断られたため,四川の趙爾豊軍のラサ派兵を決定【GOL:50】
 --[12月]ダライラマ、趙爾豊軍がラサに迫っていることを知り、ラサヘ戻る途上で中国とイギリスへアピール【GOL:51】チベット政府、欧米諸国および中国へ電文【タイクマン:41】
 --[11月]ダライラマ、ラサ帰還【タイクマン:28】
 --[チベット暦11月9日]ダライラマ、ラサ入り。2日後ポタラ宮へ【シャカッパ:274】
 --[12月末 チベット暦11月半ば]ダライラマ、ポタラ宮着【TADA1965:56】
 --[12月25日]ダライラマ、ラサ帰還【GOL:50】
 --[12月]ダライラマ13世、ポタラ着【山口1988:xiv】ダライラマ、ラサ帰着。チベット国民、彼に新しい印璽を贈る【ダライラマ1989:415】ダライラマ、ラサ帰還【BELL1946:82】
 --チベット人、ダライラマに新たな印章を贈る【BELL1946:150】
 --[末]趙爾豊軍、ラサ進入の公然たる意図を持って成都出発。チャムド、マルカムなどを占領。ラサ政府は、武力阻止を願う現地住民の願いを拒否し、アンバンとの交渉による進軍阻止を図る【タイクマン:40-41】趙爾豊軍、デルゲ、ターイェー、チャムドまで前進【TADA1965:50】
 --相つぐ英露の干渉に焦慮した清朝は、1908年通商協定に定める市場警備の名目でチベットに大軍を派遣【ダライラマ1989:415】
 --ダライラマ、パンチェンラマに合流を求めるが、後者は拒否し、さらにアンバンの招きによりラサでダライラマに代わるような行動をとる【GOL:63】
 --ダライラマ、駐蔵大臣聯豫に清軍の撤退を要求【ダライラマ1989:415】
 +周辺
 +メモ
 --13世が5年間の在外期間に使った費用のすべては中国政府が四川省の財政から支出した年間給付金により支払い【グルンフェルド:84】【CHMO(11):180】
 
 **1910 [#q4899008]
 +チベット
 --[2月10日 チベット暦1月1日]ダライラマ、35歳に【TADA1965:56】
 --[2月12日 チベット暦1月3日]ダライラマ、避難準備のためノルブリンカへ【TADA1965:56】
 --[2月12日]趙爾豊軍、ラサ着【GOL:50】
 --[2月12日]中国軍、ラサ進入。ダライラマ、インドへ【GOL:53】【タイクマン:30,42】
 --[2月]趙爾豊、四川軍2000とともにラッサに至る【山口1988:xiv】
 --[2月12日]趙爾豊軍、ラサ着【GOL:50】中国軍、ラサ進入。ダライラマ、インドへ【GOL:53】【タイクマン:30,42】
 --[2月]ダライラマ13世、インドに亡命【山口1988:xiv】ダライラマ、インド亡命を決め、ラサを離れる【BELL1946:82】
 --趙爾豊の率いる清軍先発隊ラサ到着。発砲破壊行為はなはだしく、第13世ダライラマ夜間脱出、インドに向かう。ティ・リムポチェ・アワン・ロザン・ツェモンリン(Tri Rimpoche Ngawang Lozang Tsemonling)を摂政に任命【ダライラマ1989:416】
 --[2月]趙爾豊、四川軍2000とともにラッサに至る【山口1988:xiv】
 --趙爾豊の率いる清軍先発隊ラサ到着。発砲破壊行為はなはだしく、第13世ダライラマ夜間脱出、インドに向かう。ティ・リムポチェ・アワン・ロザン・ツェモンリンを摂政に任命【ダライラマ1989:416】
 --[2月13日 チベット暦1月4日]ダライラマ、チャクサムの渡し着【TADA1965:57】
 --[2月]清、ギャンダーまでを削って西康省とする【山口1988:xiv】
 --清朝政府は、英国干渉の対策として、東チベット(打箭鑢より西、コンポ・ギャムダに至る地域)に西康省設立、四川省総督趙爾豊の手に移す(直轄領化をはかる)【ダライラマ1989:415】
 --大祈願祭の実行委員長(administer)タイジ・プンカン(tha'i ji phun khang)と僧官ジャムヤン・ゲンツェン('jam dbyangs rgyal mtshan)がチョカン寺へ向かう途中で、中国軍の攻撃を受け、死傷者発生【GOL:56】
 --大祈願祭の実行委員長タイジ・プンカンと僧官ジャムヤン・ゲンツェンがチョカン寺へ向かう途中で、中国軍の攻撃を受け、死傷者発生【GOL:56】
 --ダライラマ、カリンポン着。ブータンのカジウゲンに迎えられる【TADA1965:57】
 --[2月24日]ダライラマ、ダージリン到着【タイクマン:28】
 --ダライラマ、ダージリンでインド政府の国賓として歓待を受けた後、そこに住まいを借り滞在【TADA1965:57】
 --英国、ダライラマの接遇およびチベット亡命政府との交渉のため、チャールズ・ベルとサルダル・バハドゥル・ラデンラを任命【TADA1965:58】
 --[2月25日]中国、ダライラマを再度廃位。ダライラマへの非難をこめて、ラサの町に告示【GOL:50、52-53】清朝、勅令を発布してダライラマを廃位【タイクマン:29】
 --清朝は第13世ダライラマの廃位を宣言、後日、復位を要請【ダライラマ1989:416】
 --清朝、ダライラマを廃位し、パンチェンラマの摂政就任を図るが、パンチェンラマは拒否【TADA1965:58】
 --清朝、ダライラマを廃位し、パンチェンラマの摂政就任を図るが、パンチェンラマは拒否【TADA1965:58】清朝は第13世ダライラマの廃位を宣言、後日、復位を要請【ダライラマ1989:416】
 --[2月26日]英国政府、中国の行動に抗議する覚書送付【タイクマン:43】
 --[3月14日]ダライラマ、カルカッタで総督ミントー卿と会見【BELL1946:94】
 --[3月]ダライラマ、カルカッタでインド総督ミント公と会見【ダライラマ1989:416】
 --[5月?]ダライラマ、チャールズ・ベルを通じて「英国はチベットと中国の問題に介入しない」旨の通知を受ける【BELL1946:100】
 --[夏]趙爾豊、チャムド、ドラヤなどに中国の県知事を配置。カンゼに兵を派遣。ホル五公国を屈服させた。ジャンダに国境を置くよう皇帝に建議(皇帝は当初拒否。その後賛成)【タイクマン:44-45】
 --[9月]アンバンからダライラマへ、政治的権限を持たないことを条件に帰国を認め、罰しないことを提案。ダライラマは拒否【GOL:54】ダライラマの廃位を宣言したのは間違いであったことに気がついた中国側は、羅長琦をダージリンに派遣し、ダライラマに復位を申し出、チベットへの帰還を要請するよう駐蔵大臣に命じた。中国人官吏は1910年9月に到着した【シャカッパ:288-289】
 --[末]郷城の中国軍守備隊、反乱。現地のチベット人、中国支配に反対して暴動。趙爾豊が鎮圧。ゴンジョ、サンゲンも併合【タイクマン:46】
 --1910年以降鋳造のチベット通貨には、チベット政府の正式名称「ガデン・ポチャン歓喜宮殿」が刻まれることとなった【ダライラマ1989:415】
 --矢島保治郎第1回入蔵(-1911年)【ダライラマ1989:416】
 --チャンバ・テンダルと財務局長官ティムン、ラサを拠点に対中抵抗活動を組織【GOL:164】
 --北京のチベット仏教寺院隆福寺・隆善寺、市街地再開発がきっかけで縮小。後、消滅【平野2004
 :10-12】
 +周辺
 --英国とブータン、条約締結((プナカ条約。ブータンは外交を全面的に英国に委ね、半独立状態に。))【BELL1946:80】
 --《イギリス》《ブータン》英国とブータン、条約締結((プナカ条約。ブータンは外交を全面的に英国に委ね、半独立状態に。))【BELL1946:80】
 +メモ
 
 **1911 [#p8cb6641]
 +チベット
 --[始め]ラサ駐屯の中国軍、鐘穎将軍とアンバン聯豫の指揮下でボメドで軍事行動。強力な抵抗を受け、趙爾豊が援軍【タイクマン:46】
 --[2月]ダライラマ、インド・ネパールの仏跡めぐりへ【BELL1946:123】
 --[チベット暦12月3-25日]ダライラマ,インド・ネパールの仏跡めぐりへ【CHMO(11):205-206】
 --[3月]矢島保次郎、ラッサを通る【山口1988:xiv】
 --[春]趙爾豊、四川総督に任命。ラサ政府の直接支配下にあるニャロン占領を計画
 【タイクマン:47】
 --[夏]趙爾豊、皇帝の認可を得る前にニャロンのラサ官憲を放逐。東チベットにおけるチベット支配地消滅【タイクマン:48】
 --[11月]チベット各地の清朝軍、反乱。将校殺害、チベット人に対し略奪【BELL1946:124】
 --[11月以降]四川当局の辺境部隊軽視のため、東チベットは年々不安定に【タイクマン:68】
 --パンチェンラマ6世、ラッサに招かれ清軍に協力【山口1988:xiv】
 --辛亥革命の結果、趙爾豊軍四川に撤退、全チベットで清国官吏、兵士を掃討【ダライラマ1989:416】ラサ・カム駐留の中国軍、辛亥革命の報により恐慌状態となり暴徒化。ラサで市街戦。テンゲーリン寺が焼失し、中国軍はそこを接収して兵舎に【TADA1965:60】
 --(~1913年)ダライラマがパンチェンラマに対し、中国軍追放への協力を求めるが、後者は求めに応じず【GOL:63】
 --青木文教、ダージリンでダライラマに謁見。学僧ツァワ・ティトゥー・ガワンロサンジャンペーテンジンを日本に同行【TADA1965:87,95】
 --ツァワティトゥル・ラマ、日本に至る【山口1988:xiv】
 --青木文教、ダージリンでダライラマに謁見。学僧ツァワ・ティトゥー・ガワンロサンジャンペーテンジンを日本に同行【TADA1965:87,95】ツァワティトゥル・ラマ、日本に至る【山口1988:xiv】
 --中国、タワン地区のリマに軍を配置し、ワロンまでインドとの境界標識を設置したのに続き、インドNEFA(North East Frontier Agency。北東辺境管区)のミシュミの族長を服従させようと、人員を派遣【GOL:303】
 +周辺
 --[8月]趙爾豊、四川総督の地位に就くため、成都到着【タイクマン:52】
 --[8月]四川総督(?)傅嵩怵、西康省建省を皇帝に建議【タイクマン:49】
 --[10月10日]辛亥革命おこる【世界史1993:239】日本の陸軍士官学校出身の将校らが指揮する地方の新式軍隊の反乱発生。この武昌蜂起が引き金となり、辛亥革命はじまる【宮脇2002:232】武昌における蜂起、革命で清朝崩壊【TADA1965:59】
 --[10月初め]非中国人(non-Chinese)の支配者、清朝に対し、中国人(Chinese)が反乱。四川を含む中国南西部へ反乱拡大し、諸省が清朝からの独立を宣言。清朝軍の虐殺、発生【GOL:58】
 --[10月]辛亥革命起こり、清滅ぶ【山口1988:xiv】
 --[11月]趙爾豊、反満州王朝の革命軍に降参。四川省の共和制が正式に宣言【タイクマン:52】
 --[12月20日]共和政府樹立【GOL:58】
 --[12月23日]趙爾豊、革命軍により処刑【タイクマン:52】
 --[12月29日]「外蒙古」ハルハ、ジェブツンダンバを元首に推戴し、清朝からの独立を宣言【宮脇2002:232,234】
 --《中国》[8月]趙爾豊、四川総督の地位に就くため、成都到着【タイクマン:52】
 --《中国》[8月]四川総督(?)傅嵩怵、西康省建省を皇帝に建議【タイクマン:49】
 --《中国》[10月10日]辛亥革命おこる【世界史1993:239】日本の陸軍士官学校出身の将校らが指揮する地方の新式軍隊の反乱発生。この武昌蜂起が引き金となり、辛亥革命はじまる【宮脇2002:232】武昌における蜂起、革命で清朝崩壊【TADA1965:59】
 --《中国》[10月初め]非中国人(non-Chinese)の支配者、清朝に対し、中国人(Chinese)が反乱。四川を含む中国南西部へ反乱拡大し、諸省が清朝からの独立を宣言。清朝軍の虐殺、発生【GOL:58】
 --《中国》[10月]辛亥革命起こり、清滅ぶ【山口1988:xiv】
 --《中国》[11月]趙爾豊、反満州王朝の革命軍に降参。四川省の共和制が正式に宣言【タイクマン:52】
 --《中国》[12月20日]共和政府樹立【GOL:58】
 --《中国》[12月23日]趙爾豊、革命軍により処刑【タイクマン:52】
 --《モンゴル》[12月29日]「外蒙古」ハルハ、ジェブツンダンバを元首に推戴し、清朝からの独立を宣言【宮脇2002:232,234】
 +メモ
 
 **1912 [#q13ebf42]
 +チベット
 --[1月23日]青木文教,ツァワ・ティトゥーや多田等観らとともにインドへ向けて神戸港出帆【青木1995:25】
 --[1月]多田等観、ツァワ・ティトゥーに同行しインドへ向けて日本出発【TADA1965:87】【多田1999:13】
 --青木文教入蔵(1912-16)【ダライラマ1989:416】
 --[初め]ツァロン、ダライラマに先立ちラサヘ帰還【GOL:164】
 --[3月]多田等観、カリンポンでダライラマ13世に初めて対面【多田1999:7】
 --多田等観、ダージリンで亡命中のダライラマに謁見。トゥプテンゲンツェンという名とチベット入りの正式な許可をもらう【TADA1965:88】
 --[チベット暦3月28日]大臣ツァロン・オンジューゲーポ、息子サムドゥプツェリンとともに暗殺される【タリン1991:54】
 --親中派とされるツァロン・オンジューゲーポ、息子とともに暗殺される【GOL:64】
 --[~4月]ダライラマ、インドからラサでの軍務局(War Department)創設を命令。チベット軍が中国軍に対し武力で対抗し、勝利【GOL:59】
 --[~4月]ダライラマ、インドからラサでの軍務局創設を命令。チベット軍が中国軍に対し武力で対抗し、勝利【GOL:59】
 --[6月]ダライラマ、ラサへ向けてインド出発【TADA1965:60】ダライラマ、チベットへ向けてカリンポン出発【BELL1946:131】
 --[7月]矢島再びラッサ入り【山口1988:xiv】
 --日本の退役軍人矢島保治郎がラサを訪れた。彼はチベット軍の一分隊をまかされ、日本式の軍事訓練を施した。6年におよぶチベット滞在中に、矢島はチベットの風習と作法を身につけたが、彼がダライラマの護衛隊の司令部として建てた建物は日本の伝統的スタイルを保っていた【シャカッパ:308】
 --日本の退役軍人矢島保治郎がラサを訪れた【シャカッパ:308】
 --[夏]カムの中国軍、尹昌衡(初代川辺都督。趙爾豊を処刑【タイクマン:262】)指揮下に再結集し、パタン、チャムドほかを奪取。西進【GOL:65-66】中国軍、巴塘とチャムドへ撤退し、チベット人(?)に対しはげしく抵抗【タイクマン:54】東チベットにおける中国の地位回復のため、救援部隊が成都を出発。打箭炉、巴塘、ドラヤなどが再び中国の手に【タイクマン:58】
 --[チベット暦5月]ダライラマ、チベットへ帰還。まずチュンビに滞在【GOL:59】
 --ダライラマ、カリンポン発帰国の途へ【ダライラマ1989:416】
 --[9月9日]青木文教,チベット入りを目指しダージリン近郊を出発【青木1995:31】
 --[10月]青木文教、帰国途上のダライラマに会う【山口1988:xiv】
 --[10月28日]袁世凱、ダライラマの復位を指令し、ダライラマにも打電。ダライラマは、それを受け入れる意思のないことを表明(=チベットは中国とのシンボル的つながりも絶った)【GOL:58】中華民国大総統、ダライラマの復位を告示。満州王朝の聯豫を免職し、中国人の鐘穎を新アンバンに【タイクマン:31、55】袁世凱、チベットが中国に属すことをダライラマが認めたと、事実を歪曲し布告【TADA1965:61】
 --ラサへの途上にあるダライラマのもとに、復位を認める袁世凱からの電報着。ダライラマはそれを受け入れず、自らチベットの支配者であることを宣言(チベットではこれを中国に対するチベットの独立表明と認識)【TADA1965:61】
 --[12月?]ダライラマ、C.ベルの勧めにより、4人の貴族子弟をヨーロッパ留学に派遣。付き添い役としてルンシャーを任命。B.グールドが同行【GOL:158-159】
 --チベット駐留中国軍の撤退を協議。ネパールが仲介【GOL:69】
 --中央チベットの中国軍兵士、中国革命を知り反乱。放火略奪【タイクマン:55】
 --ポユルのカナム・デパ,支配地域から中国の徴税官を一掃。度胸あるチベット人のシンボルに【DHONDUP:56】
 --チベット駐留中国軍の撤退を協議。ネパールが仲介【GOL:69】
 --ダライラマと義勇軍がラサで中国軍と戦うが、デブン寺ロセーリン学堂を始めとする多くの僧侶が参加を拒否。テンゲーリン寺は境内に中国軍の駐留を許可(~1913年)【GOL:63-64】
 --ラサの中国軍、親中派のテンゲーリン僧院に篭城【シャカッパ:296】
 --ダライラマと義勇軍がラサで中国軍と戦うが、デブン寺ロセーリン学堂を始めとする多くの僧侶が参加を拒否。テンゲーリン寺は境内に中国軍の駐留を許可(~1913年)【GOL:63-64】ラサの中国軍、親中派のテンゲーリン僧院に篭城【シャカッパ:296】
 --多田等観入蔵(-1923年)【ダライラマ1989:416】
 --矢島保治郎第2回入蔵。ダライラマ近衛軍の教官となる(-1919年)【ダライラマ1989:416】
 --青木文教、カリンポンで再びダライラマに謁見。そこからチベットへ。約1年後、インドへ【TADA1965:87-88】
 +周辺
 --[1月1日]南京で中華民国臨時政府が成立。孫文臨時大総統【世界史:239】
 --[2月12日]宣統帝退位【GOL:58】
 --[2月]宣統帝退位【世界史:239】
 --[2月15日]袁世凱、臨時大総統に選出【GOL:58】
 --[3月]袁世凱臨時大総統【世界史:239】
 --[11月]露蒙協定。モンゴルの独立宣言は、自治宣言に格下げに【宮脇2002:236】
 --《中国》[1月1日]南京で中華民国臨時政府が成立。孫文臨時大総統【世界史:239】
 --《中国》[2月12日]宣統帝退位【GOL:58】
 --《中国》[2月]宣統帝退位【世界史:239】
 --《中国》[2月15日]袁世凱、臨時大総統に選出【GOL:58】
 --《中国》[3月]袁世凱臨時大総統【世界史:239】
 --《ロシア》《モンゴル》[11月]露蒙協定。モンゴルの独立宣言は、自治宣言に格下げに【宮脇2002:236】
 +メモ
 --【TADA1965:87】では多田等観の日本出発を1911年1月としているが、1912年の誤りと思われる

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