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[チベット史年表/1913-1934] の変更点


 #navi(チベット史年表)
 *&size(18){&color(Silver){(19) }; ダライラマ13世 執政後期}; [#j1d08dec]
 
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 **1913 [#m4623bd0]
 +チベット
 --[1月]ダライラマ13世、ラッサに帰る【山口1988:xiv】【ダライラマ1989:416】【GOL:59】【TADA1965:60】
 --[チベット暦1月8日]ダライラマは全チベットの官吏と人民に布告を出した。チベットにおいては、この布告は、袁世凱からの復位申し出への拒絶とならび、正式な独立宣言とみなされている【シャカッパ:304】[1月8日]チベット独立宣言発布【ダライラマ1989:416】
 --[1月]蒙蔵条約を結ぶ【山口1988:xiv】】【TADA1965:60】
 --モンゴル・チベット条約。友好と相互援助取り決め【ダライラマ1989:397】
 --[1月22日]青木文教,ラサに到りヤプシィプンカン家に滞在【青木1995:111】
 --[3月]「五カ条宣言」布告【山口1988:xiv】
 --[4月]ルンシャー一行、ロンドン到着【GOL:159-160】
 --[7月]多田等観、ブータンを経てチベットの首都ラサに入る【多田1999:231】
 --多田等観、ブータン経由でラサ着。ダライラマに謁見。ダライラマの指示でセラ寺チェー学堂ケーマン・タツァンのハムドン・カムツェンに入り、以後10年を過ごす【TADA1965:88-89】
 --[8月11日 チベット暦10月10日]チベット全権代表ルンチェン・シャタ、領土や中国人のチベット立入禁止などの要求を、この日付で文書化【GOL:71】
 --[10月]シムラ会議始まる【山口1988:xiv】インドのシムラでチベットの主権、領土その他について英国、中国、チベット三者会談【ダライラマ1989:416】
 --[末]中国、中蔵境界紛争解決とチベットの政治的立場に関する合意を望むチベット・イギリスとの話し合いに応じる【GOL:68】
 --中国軍、郷城を陥落【タイクマン:58】
 --ダライラマ、チャンパテンダーやナムガンをアドバイザーに、軍の増強・近代化を図る【GOL:66】
 --ダライラマ、寵臣のナムガンにザサー位を授与【GOL:66】
 --中国軍への協力の廉で、テンゲーリン僧院破壊。保有荘園没収【GOL:109】
 --ダライラマ、パンチェンラマに対し、1888年の対イギリス戦以降の戦費負担(穀物2.7万ケー)を要求。パンチェンラマはこれを認めず、小額のみ支払い【GOL:111-112】
 --チベットを中国の領土とみなし、東チベットを中国の省に組み込もうとする袁世凱に対し、英国は抗議するも、中国のチベットに対する宗主権承認の態度は変えず【TADA1965:60-61】
 +周辺
 --《中国》中華民国で第二革命失敗、孫文日本亡命【世界史1993:239】
 --《中国》1916年まで大総統、袁世凱【世界史1993:239】
 +メモ
 
 **1914 [#kabc412d]
 +チベット
 --[3月]シムラ会議のチベット全権代表シャタ、イギリス全権大使マクマホンの提案する国境線を受け入れ。これによりタワン地区はインド領に【GOL:300】
 --[4月27日]シムラ条約署名【ダライラマ1989:416】
 --[4月]シムラ条約草稿に3人の全権代表が頭文字で署名【タイクマン:62】
 --[7月3日 甲寅年チベット暦5月10日]英国政府とチベット政府、シムラにおいて条約調印。中国は署名拒絶【シャカッパ:315】
 --[7月3日]英国とチベット、シムラ条約と蔵英通商条約署名。中国は署名拒否【TADA1965:63】
 --[夏]中国が署名を拒み、何らの協定も結ばれないまま打ち切りに。しかし中国は、辺境に駐屯する中国軍が攻撃されない限り、現在掌握している位置以上に前進しないと保証。この了解に基づき、続く数年間辺境で休戦【タイクマン:62-63】
 --シムラ会議、イギリス・チベット間で調印【山口1988:xiv】シムラ条約。英中蔵3カ国会談。英蔵のみ正式調印【ダライラマ1989:397】調印終了2日後、中華民国政府は、中国代表の調印行為を否認し、正式調印を拒否【ダライラマ1989:416-417】協定不可能に【タイクマン:60-61】
 --[夏]郷城、ドラヤで再反乱。鎮圧【タイクマン:60】
 --[9月]ルンシャー夫妻、帰国のためイギリスを出発【GOL:162】
 --[末]郷城中国人兵士が現地人に合流して、中国当局に対し反乱。打箭炉を占領し、後解消。その後陳遐齢大佐により秩序回復【タイクマン:64】
 --カムでは趙爾豊によって創設された中国支配の骨格再建。ココノールは過去10年の事件によって影響を受けず、以前通り西寧駐在アンバンの名目的支配下【タイクマン:61】
 --チベットは、第一次世界大戦勃発でイギリスの関心がヨーロッパに集中していることを、中国が利用するのではないかとおそれ、イギリスに武器売却を依頼。ライフル5000挺ほかがチベットへ【GOL:77】
 --河口慧海、2度目のチベット入り。ダライラマの謁見はかなわず、入蔵の理由を書いた書面を提出。文献収集にはパンチェンラマが協力【TADA1965:90】河口慧海、第2回入蔵(-1915)【ダライラマ1989:414】
 
 +周辺
 --《》[7月]第一次世界大戦(-1918年11月)【世界史1993:238】
 +メモ
 
 **1915 [#l405a28d]
 +チベット
 --[夏]袁世凱、ココノールの行政組織を変更。西寧のアンバンが廃され、行政は回教徒の将軍へ【タイクマン:65】
 --[9月]ツァロン、シッキムへ。中国に対しシムラ条約批准を求めるため、ベルを通じイギリスに協力依頼。戦費調達に苦しむチベットへの経済的援助(関税の許可)、チベット軍近代化への援助も依頼。インド政府はそれを拒否【GOL:77-81】
 --[11月6日 チベット暦9月29日]ツァロン、武器売却に関するインド政府への照会を、文書により再度ベルに依頼。インド政府、関税は認めたものの、武器については拒否【GOL:82-83】
 --ダライラマ、1908年五台山での約束通り、西本願寺にチベット大蔵経を贈る【TADA1965:48】
 --ダライラマ、ノルブリンカで数千人を前に10日間ラムリムチェンモを講ずる【TADA1965:64】
 +周辺
 --《中国》袁世凱、帝政計画【世界史1993:239】
 --《中国》中国各地に反袁運動(第3革命)【世界史1993:239】
 +メモ
 
 **1916 [#gfd68045]
 +チベット
 --[1月26日]青木文教,ラサ発【青木1995:269】
 --[春]西寧の馬将軍、ジャデ(辺境のチベット側)の住民に宛て、ナンチェン(辺境の中国側)における権威を主張する旨宣言【タイクマン:65】
 --この頃、英国登山者協会がエベレスト測量の許可を求めるが、チベット政府は却下【TADA1965:72】
 +周辺
 --《中国》[10月]殷承(王へん+献)雲南辺境弁務官、雲南軍とともに打箭炉着。辺境の管理を引き継いだ【タイクマン:67】
 --《中国》[末]袁世凱、洪憲の新王朝を創設して皇帝に即位【タイクマン:67】
 --《中国》袁世凱、帝政取消し宣言【世界史1993:239】
 --《中国》袁世凱、死す。大総統、黎元洪(1916-17)【世界史1993:239】
 +メモ
 
 **1917 [#o621fc0c]
 +チベット
 --中国、リウォチェに進軍。チベット軍が反撃し、1年のうちにチャムドやデゲなど、シムラ会議の時点で中国が占めていた地域を獲得【GOL:83】チベット軍、チャムドを四川軍から奪回【山口1988:xiv】第一次世界大戦で英国は欧州に釘づけ、これを好機として中国は東チベットを攻略【ダライラマ1989:417】
 --中国支配から解放され、数年間国内の平和と繁栄を享受し、辺境軍隊を再組織、強化した自治チベットが、カムにおいて中国辺境軍より優勢に。しかし1914年の協定にしばられ、中国軍を攻撃せず【タイクマン:68-69】
 --タイクマン(英国の中国駐在副領事)調停による蔵中休戦協定【ダライラマ1989:397】
 --[夏]雲南省と四川省との間に戦争が起こり、打箭炉にいた殷将軍も退却。四川省政府も北京の中央政府も中国の内戦に忙殺され国境に注意を払うことができず、供給を絶たれた兵士らが盗賊化。行政を掌中にした元盗賊団や軍事的野心家が、現地人に悪政や圧制を行った【タイクマン:68】
 --[末]川軍統領彭日升、過去数年間チャムドと巴塘に駐在し国境北部地域を意のままにしていたが、中国政府と四川省当局に権限を縮小された結果、戦利品や食料品の獲得、川辺鎮守使あるいはチベット弁理公使の地位獲得をめざし、休戦協定を破ってラサ進軍を決意。リウォチェの飼料用の草をめぐる小ぜり合いから戦争へ【タイクマン:69-70】
 --ラサ医薬暦算所設置【CHMO(13):63】
 --「丁未年体制」(ギャンツェ地区のタシルンポの農奴は荷駄獣提供税の1/7を支払う((to pay one-seventh of the horse and carrying-animal corvee tax on levies of over 100 horses and 300 carrying animals 相当額を麦などで支払うということ?))、とするもの)実施【GOL:112】
 --チベット政府、前年却下した英国登山者協会のエベレスト測量を、ラサに来ないことを条件に許可。これ以降、ヨーロッパ人のチベット入域が容易に【TADA1965:72】
 +周辺
 --《ロシア》[3月]ロシア三月革命【世界史1993:238】
 --《ロシア》[11月7日]ロシア、十一月革命(レーニン、ソヴィエト政府樹立)【世界史1993:238】
 --《中国》鐘穎、ラサの反乱を鎮められなかったとして北京で処刑【タイクマン:56】
 --《中国》中華民国総統代理、馮国璋(1917-18)【世界史1993:239】
 +メモ
 
 **1918 [#icd2315e]
 +チベット
 --[1月]チベット辺境軍を指揮するカロン・ラマが戦争回避のため何度か書簡を送付。彭日升からの回答で、彼がラサヘ進攻する意図が明らかに。彭日升、リウォチェから進軍開始。チベット側、ドラヤ、マルカム、ブムラまでを占領しチャムドを包囲。彭日升指揮下の中国軍は数ヶ月にわたって篭城【タイクマン:70-71】
 --[4月末]チャムドの中国軍、降伏。四川辺境軍(辺軍)は存在しなくなった。二、三千人の中国人捕虜はラサからインド、ビルマ、雲南経由で送還【タイクマン:72,75-76】
 --[8月19日]カムにおいてイギリス,チベット,中国の三者が停戦協定調印【DHONDUP:56】
 --[夏半ば]チベット軍がカンゼ、ニャロンへ迫ろうとしている中、辺境にいた中国の指導者らからの依頼で中国西部駐在英国領事が仲介し、戦闘中止。協定を結び、戦闘の一般的停止、双方の軍隊の撤退を決定。その結果、四川とチベットの暫定的国境は、17世紀の線とだいたい一致(巴塘、リタン、ニャロン、カンゼとその東地域が中国領。チャムド、ドラヤ、マルカム、デゲとその西地域がチベット領)【タイクマン:76-77】
 --イギリスの仲介でチベット・中国が休戦協定調印。停戦前のチベット側の優勢は、イギリス製のライフル銃によるもの【GOL:83】中国駐在英国副領事エリク・タイクマンの調停でチベット・中国休戦協定成立【ダライラマ1989:417】
 --[10月10日]10月31日までの撤退と敵対行為の停止をもりこんだ補足協定締結【DHONDUP:56】
 --[末]休戦協定後、交易ルート再開、中国とチベットの平和関係回復【タイクマン:77-78】
 --ダライラマ、3年の瞑想修行に入る【TADA1965:64-65】
 +周辺
 --《中国》[2月]張作霖、満州制圧し北京進出【世界史1993:239】
 --《》[11月11日]第1次世界大戦終わる【世界史1993:238】
 --《中国》中国で軍閥戦争(-1928)【世界史1993:239】
 +メモ
 
 **1919 [#gc8d608c]
 +チベット
 --[5月]中国、イギリスを通じたチベットの働きかけに応じ、シムラ条約に関し新提案。否妥協的内容のため、チベットは拒否【GOL:83】
 --チベット、武器提供をイギリスに依頼。インド政府にその用意があったものの、イギリスが拒否。ダライラマや官吏たちに、後援者としてのイギリスに不信感発生【GOL:84】
 +周辺
 --《中国》[5月]中国で五・四運動(排日運動)始まる【世界史1993:239】
 --《中国》[10月]中華革命党(1914-)、中国国民党と改称【世界史1993:239】
 +メモ
 
 **1920 [#h2a92b66]
 +チベット
 --[11月]C.ベル、ダライラマの招きを受けてラサヘ。中国との境界を守るためには1.5万の兵が必要と、ダライラマに提言【GOL:93】【GOL:226】
 --ラサ版「チベット大蔵経」開板【ダライラマ1989:417】
 --ラサでチベット人とネパール人商人との間に諍いが起き、ネパール政府が侵略を示唆。カムに兵力を集中させているチベットは対抗できず、やむなく引き下がることに【GOL:84】
 --ツァロン、15000の増兵を提案。新たな歳入が必要に【GOL:84-85】
 --この頃、インド−ギャンツェ間の電信線をラサまで延長(ノルブリンカ経由でラサ電報局まで)【TADA1965:72】
 +周辺
 --《中国》安直戦争(段祺瑞と曹錕)【世界史1993:239】
 --《中国》治外法権撤廃運動おこる【世界史1993:239】
 +メモ
 --ネパールとの緊張が高まっている頃のエピソードが【CHMO(3):[3-5]】にある
 --【ダライラマ1989】のチベット大蔵経に関する記事は,「開版始まる」という意味だと考えられる。完成は1934年。
 
 **1921 [#m0d681d3]
 +チベット
 --[1月25日]ダライラマ、C.ベルに対し、国民議会が1.7万まで兵を増強することを発議したことを伝達。この発議によりラサは不穏な状態に【GOL:95】
 --[2月8日]チベット暦新年のこの頃、大祈願祭のためラサに集まる僧と軍との間で戦闘が発生する懸念、イギリスが軍部への援軍を派遣したとする噂が広まり、多くのラサ市民が財産を疎開。ダライラマはそうした行動を禁止【GOL:95】
 --[3月初め]国民議会のメンバーに選ばれなかったことに立腹した軍部将校らが議会へ押しかけ、不満を表明(表向きは、元commander-in-chiefのガチャン・テンパに質問するため議会へ)。軍クーデターの噂が広まる【GOL:96-98】
 --ラサの町に文官と武官の間に意見の相違があるとの噂が広まった。その噂は、国民議会が内閣の閣僚たちと将軍所有の荘園に対する課税について討議している最中に現実のものとなった。大臣ツァロン麾下の若い将軍(ダプン)たちが、会議の席に乗りこんで、国民議会に軍部の代表を加えることを要求したのである【シャカッパ:327】
 --[3月半ばから後半]ポタラ宮官房長官によりデプン寺ロセーリン学堂tsha phyagら逮捕、投獄。ただちに追放、財産没収などの処罰実施。それに腹を立てたデプン寺僧らがノルブリンカで乱暴狼藉をはたらき、ダライラマやポタラ宮官房長官に対し抗議。ツァロン、ダライラマの命によりラサに兵を集め、デプン寺前に配置。抗議行動の首謀者引渡しを要求【GOL:105】
 --[3月26日]軍将校のシャンカワ、ツォゴ、大臣クンサンツェ、ルンシャーら、降格や罰金の処罰決定。以後、国民議会に軍の代表1名を加えることを決定【GOL:103】
 --[~4月第2週]ラサに3000の政府軍が集結。ロセーリン攻めのため再びツォゴを将校に【GOL:107】
 --[~9月半ば]政府軍に包囲されたロセーリン学堂、他の寺やデプン寺他学堂からも支持を得られず、首謀者を引き渡し。逃げた者を含め60人ほどが逮捕、処罰。荘園没収は行われず【GOL:108】
 --[10月11日]インド政府、防衛目的に限定しチベットへの武器売却を許可するとダライラマに通知。売却(1931年までの間に合計4回)【GOL:120】
 --[10月19日]C.ベル,ラサを出発【BELL1946:340】
 --英国王、ダライラマに馬車3台を馬と御者セットで贈るが、双方の認識不足が原因でチベットの英国に対する不信を助長する結果に【TADA1965:71】
 +周辺
 --《中国》[4月]広東政府成立(総統孫文)【世界史1993:239】
 --《中国》[7月]中国共産党成立(陳独秀ら)【世界史1993:239】
 +メモ
 
 **1922 [#dab32ad9]
 +チベット
 --ギャンツェとインド(現パキスタン)クエッタで将校と下士官の軍事訓練実施(-1925年)【GOL:121】
 --ラサで近代的警察組織創設(-1923年)【GOL:121】
 --チャムドでカム総督をつとめたチャムバ・テンダルが没し、ティムンが後継に【シャカッパ:327】
 --税務局がタシルンポに対し、年額にして穀物3万ケー、銀貨1万の増税を決定【GOL:112】
 --パンチェンラマは、新税を払う余裕がないと主張。ダライラマとの仲介をインド政府に打診【GOL:113】
 +周辺
 --《ロシア》[12月]ソヴィエト社会主義共和国連邦成立【世界史1993:238】
 +メモ
 
 **1923 [#pd2bc98f]
 +チベット
 --[1月?2月?]多田等観,ラサを発つ【多田1999:95】
 --[チベット暦1月?]マクガヴァン((オクスフォード出身の哲学博士。西本願寺の僧侶。ロンドン大学日本・中国語講師【マクガヴァン:紹介】)),ラサへ。ダライラマに非公式に謁見【マクガヴァン:】
 --[チベット暦?3月24日]マクガヴァン,ラサを去る【マクガヴァン:328】
 --[8月]インド政府よりシッキム人警官ラデンラを借り、ラサの警察組織近代化実施【GOL:122】
 --[12月26日]中央政府より納税を求められたパンチェンラマ、ひそかにモンゴルへ向けて逃亡【GOL:113】
 --[チベット暦11月15日]パンチェンラマ6世、ナムルと西寧経由で中国に逃亡【シャカッパ:325】
 --パンチェンラマ6世、チベットを脱出(2年後北京に至る)【山口1988:xiv】パンチェンラマ、チョキィ・ニマ(Choskyi Nyima)、ダライラマとの対立関係悪化し北京に逃れる【ダライラマ1989:417】パンチェンラマ、タシルンポ寺に対する課税と自分に近い高官の投獄が原因で、チベットを出てモンゴルへ【TADA1965:75】
 --パンチェンラマ6世、チベットを脱出(2年後北京に至る)【山口1988:xiv】パンチェンラマ、チョキィ・ニマ、ダライラマとの対立関係悪化し北京に逃れる【ダライラマ1989:417】パンチェンラマ、タシルンポ寺に対する課税と自分に近い高官の投獄が原因で、チベットを出てモンゴルへ【TADA1965:75】
 --[12月26日 チベット暦癸亥年11月18日~1926年6月12日チベット暦庚寅年5月2日]中国へ逃亡したパンチェンラマとラサのダライラマとの間で、数次にわたり書簡のやりとり。ダライラマはパンチェンラマの帰還を求めるが、パンチェンラマ、拒否【GOL:115-120】
 --[年末]多田等観、ヒマラヤを越えチベットより出国【TADA1965:93】
 --多田等観、帰国【多田1999:231】
 --チベット政府、パンチェンラマの所領を没収【GOL:265】
 --ギャンツェに英語学校開設【ダライラマ1989:419】
 --癸亥年体制(1917年の丁未年体制をタシルンポの全農奴に拡大)実施【GOL:112】
 +周辺
 --《中国》[2月]孫文、大元帥となる【世界史1993:239】
 +メモ
 --ギャンツェの英語学校開校を,【GOL】【TADA1965】は1924年のこととしている。
 
 
 **1924 [#q3020bbe]
 +チベット
 --[5月はじめ]軍部と警察の抗争事件。軍部の決起とダライラマによる処罰に発展する危険【GOL:121-122】
 --[8月8日]シッキム政務官F.M.Bailey少佐、ラサ入り。ツァロンとも会談【GOL:131】
 --[9月]ツァロン、ヤトゥンの国立貨幣鋳造所視察のため出発。視察後、インド聖地巡礼【GOL:132】【タリン1991:137-138】
 --[10月頃]ダライラマ、ノルブ・トゥンドゥプに「ラデンラがマクドナルドの後任としてヤトゥンの通商部代表になると聞いたが、そうならないよう取りはからってほしい」と依頼【GOL:134】
 --[12月]チベット政府、軍備・通信の費用捻出のため、シムラ条約に従って、インドからチベットへの輸入品への課税許可をイギリスに求めるが、イギリスは拒否【GOL:86】
 --ギャンツェにラドロウ(F.Ludlow)指揮下で英語学校開校。貴族の子弟が入学(約20名?)【GOL:121】チベット政府、ギャンツェに自費で英語学校設立【TADA1965:72】
 --この頃、数名のヨーロッパ人に入国を許可【TADA1965:72】
 +周辺
 --《中国》[1月]第1次国共合作(一全大会)【世界史1993:239】
 --《モンゴル》[11月]モンゴル人民共和国誕生【宮脇2002:239-240】
 --《モンゴル》外蒙古、独立宣言【世界史1993:239】
 +メモ
 
 **1925 [#q36474d8]
 +チベット
 --[1月]ラサの路上でラサ警察の警官と僧侶がけんか。それに端を発し、ダライラマは警察上層部を降格処分【GOL:134-135】
 --[4月1日頃]ツァロン、インドから戻り、軍総司令官からの解任をチュシューにて告げられる【GOL:136】
 --[秋]ラデンラ、チベットを離れる。ラデンラはその後、昇進【GOL:134】
 --ノルブ・トゥンドゥプ、チベットの反英、反近代化志向を逆転させるべきだと警鐘を鳴らすが、イギリス政府は却下。ダライラマも、ノルブ・トゥンドゥプの新兵訓練の援助申し入れに応じず【GOL:137】
 --ツァロンに代わってルンシャーが大きな権力を握る(-1931年)【GOL:162】
 +周辺
 --《中国》[3月]孫文死【世界史1993:239】
 +メモ
 
 **1926 [#s2514825]
 +チベット
 --ギャンツェの英語学校閉鎖【ダライラマ1989:420】
 --ティムンが3年の任期を終え、大臣メンカプ・トゥーパが後任のカム総督に。苦労の末ポユルを下し、カナム首長(デバ)とその部下がアッサムに亡命【シャカッパ:329】
 --[9月7日]パンチェンラマの官吏ツァセルカン、北京でイギリスのプリンス・ジョージと会談【GOL:252】
 --[11月]タバコ(巻タバコのみ?)の輸入・使用禁止を可決。続いてラサのネパール人長官commissionerもタバコ貿易を禁じ、闇市場が発生【GOL:163】
 +周辺
 --《中国》[7月]中国国民党の北伐(-1928年6月)【世界史1993:239】
 --《中国》[12月]武漢政府成立(汪兆銘)【世界史1993:239】
 +メモ
 
 **1927 [#sc4858bd]
 +チベット
 --蒋介石、チベットに統合参加呼びかけ【山口1988:xiv】北京擁和宮のチベット人僧正クンチョク・ジュンネ(Kunchok Jungnas)帰国の際、蒋介石総統第1回目の書簡をダライラマあて送り、チベットが中国の一部となれば、全面的援助を与えると申し入れた。13世ダライラマこれを拒否【ダライラマ1989:417】北京雍和宮貫主クンチョク・ジュンネーがチベットに戻る際、ダライラマ宛て蒋介石の親書を預かってきた。「チベットが中国の一部となることに承諾するならば、ダライラマに全面的援助を与える。また、いかなる条件もつけずにパンチェンラマを送りかえす」とあり、ダライラマは「中国との友好関係は歓迎するが、チベットを中国の一部とするという提案は拒絶する」と返書【シャカッパ:329-330】
 --[3月]パンチェンラマ、奉天でイギリス人官僚ウィリアムソンに対し、早急にチベットへ帰還するつもりであるとことを言明【GOL:253】
 --[5月]パンチェンラマの官吏ツァセルカン、パンチェンラマのチベット帰還に対する支援を求めるため、シッキム政務官ベイリーのもとへ【GOL:253】
 --[8月?]ノルブ・トゥンドゥプ、ラサヘ行き、軍と警察の秩序が乱れている様を目撃【GOL:137】
 --ラサ生まれの中国人女性劉曼卿ら、中国政府の指示を受け非公式の使節としてラサ訪問【TADA1965:73-74】
 +周辺
 --《中国》[4月]蒋介石の上海クーデタ、共産党弾圧【世界史1993:239】
 --《中国》[4月18日]蒋介石,南京国民政府樹立
 --《中国》[9月]毛沢東、井崗山に革命根拠地樹立【世界史1993:239】
 --《ロシア》[12月]ソ連、社会主義的建設方策の決定(コルホーズ・ソフホーズの建設)【世界史1993:238】
 +メモ
 --劉曼卿のラサ訪問を、いくつかの資料は1930年のこととしている。
 --クンチョク・ジュンネー経由の蒋介石からのコンタクトを,【GOL】は1929年末に始まったとしている。また,劉曼卿も別に派遣したとも書いている。出典は,Li,T.T.,The Historical Status of Tibet,1960,New York。LiはShih Ch'ing-yang,Ms.,Tsang shih chi yaoからの引用【GOL:214】(CHMO(11)には記述なし)。
 
 **1928 [#keb0b0c5]
 +チベット
 --ソ連軍人の率いるソ連モンゴル代表団ラサ到着、友好通商関係を求めたが空しく帰国【ダライラマ1989:417】
 --ラサでシガレットを商うネパール人、ゲーボ・シェルパ逮捕【GOL:163】
 --[5-6月]シッキム政務官ベイリー、ダライラマに対し、ダライ・パンチェン両ラマの友人として仲介を申し出。ダライラマは「シムラ条約により、イギリスはチベットの内政に関与すべきでない」と回答【GOL:253-254】
 +周辺
 --《中国》[6月]北伐完成【世界史1993:239】
 --《中国》国民政府主席、蒋介石(1928-31)【世界史1993:239】
 +メモ
 
 **1929 [#me53e176]
 +チベット
 --[4月]ルンシャー、財務局長官に加えて軍総司令官(dmag spyi tsho 'dzin)も兼務【GOL:163】
 --[9月]前年逮捕されたゲーボ・シェルパが脱獄。ネパール公使館に逃げ込むが、チベット軍総司令官ルンシャーの圧力でチベット側に引き渡され鞭打ち。2日後、ポタラ宮の牢獄で死亡【GOL:163】
 --[末]蒋介石、北京雍和宮のクンチョー・ジュンネーを通じ、ダライラマとの接触を図る【GOL:214】
 --インド政府、チベットに対し国境での最大5%までの関税を許可【GOL:87】
 +周辺
 --《ロシア》[11月]ソ連、スターリン独裁【世界史:238】
 --《インド》チャウラースィーヤー、ヒンドゥー後進階級連盟を設立。南北インドの被抑圧者は異なるとの立場が鮮明化【藤井:5】
 --《中国》内戦頻発(-1931)【世界史1993:239】
 +メモ
 --クンチョク・ジュンネー経由の蒋介石からのコンタクトを,【ダライラマ1989】【シャカッパ】は1927年のこととしている(CHMO(11)には記述なし)。
 
 **1930 [#yb6b2942]
 +チベット
 --[2月7日]劉曼卿、ラサ着【GOL:214】
 --チベット人(父親、オーバリン出身回教徒)と中国人(母)の混血児、劉曼郷(ママ)の一時帰国をチベット政府許可。彼女に蒋介石総統第2回目の書簡を託す。チベット政府反応示さず【ダライラマ1989:417】劉曼卿(父が中国人、母がチベット人)が蒋介石からの親書を携え、ラサを非公式訪問。非公式ながら中国とより親密な関係を樹立することを示唆して回ったが、チベット政府からの好意的回答は得られなかった【シャカッパ:330】
 --[6月]ペリ土司(? chief)に追われタルゲー寺にいたニャロン・ラマとタルゲー寺僧侶らが、ニャロン寺掌握。ペリ土司は西康総督の劉文輝に、タルゲー寺僧侶らはラサにそれぞれ救援を依頼。デゲから送られたチベット軍により、ペリとカンゼ地区の大部分から中国軍を駆逐【GOL:221】
 --[6月]パンチェンラマ、シッキム政務官ワイアに対し、チベット帰還のため武器の提供を依頼【GOL:254】
 --前年のゲーボ・シェルパ死亡に関し、ネパール側は謝罪と罪を犯した役人らの処罰を要求するが、チベット政府が拒否。戦争の危機をイギリスの仲裁で回避【GOL:164】
 --チベット軍、四川軍・西寧軍と戦い始める【山口1988:xiv】
 --最初のアメリカ人スーダム・カッティング、ラサ訪問【ダライラマ1989:417】
 --ツァロン、大臣から降格【GOL:136】
 --パンチェンラマ、北京で数万人を前にシャンバラについて説く【TADA1965:40】
 --雍和宮座主ユングン・ザサー、中国政府の指示を受けチベットを公式訪問。歓待される【TADA1965:73-74】
 +周辺
 --《インド》アンベードカルが被抑圧者連盟を結成【藤井:5】
 +メモ
 --劉文輝を【シャカッパ:332】では四川総督としている。
 --劉曼卿のラサ訪問を【TADA1965:73】では1927年のこととしている。
 --パンチェンラマの説法【TADA1965:40】は、1932年10月25-29日の「パンチェンラマ、北京紫禁城太和殿にて時輪の大灌頂を行う【丹珠1998:644-645】」と同じ件である可能性あり。要確認。
 
 **1931 [#z21ba3f4]
 +チベット
 --イギリス、中国がパンチェンラマをチベット支配の足がかりにすることを懸念。ダライ・パンチェンの軋轢解消を望み、尽力を続行【GOL:255】
 --揚子江東岸のペリ(白利)とタルゲーの僧院抗争に、四川総督劉文輝がペリ僧院に援護部隊を派遣。デルゲ駐屯のチベット連隊はタルゲー僧院を支援。ペリの中国兵を駆逐し、カンゼ地区まで侵入。数年後、劉文輝側がチベット側を押し戻し、1932年停戦し交渉へ【シャカッパ:332】四川省劉文輝軍と交戦【ダライラマ1989:417】
 --[3月]ペリ・タルゲー抗争調停のため、蒋介石がダライラマの依頼を受けて唐柯三らを派遣。しかしチベット軍が東進を続けたため、蒋介石がダライラマを非難。チベット軍はタルツェンドに迫った【GOL:221-222】
 --インド政府、チベットに武器売却【GOL:120】
 --ポユルに地区長官2名と小規模の軍隊、駐屯開始【シャカッパ:329】
 --ダライラマ、新設のタプチ電機局の局長にクンペーラを任命【GOL:151】
 --ルンシャー、軍司令長官から解任(財務長官職はそのまま)【GOL:164】ルンシャル、ダライラマの承認を得ずにシェルパ・ギャルポをラサのネパール代表部で逮捕するという不始末をして軍司令官の職を解任【シャカッパ:339】
 --[末、あるいは1932年初め]クンペーラ、東チベットでの紛争勃発を契機に、トンダー連隊創設【GOL:152】
 +周辺
 --《中国》[9月18日]柳条湖事件、満州事変おこる【世界史1993:241】
 --《中国》[11月]毛沢東、江西省瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府樹立【世界史1993:241】
 +メモ
 
 **1932 [#u023db7b]
 +チベット
 --[5月]チベット軍、劉文輝指揮の中国軍によりカンゼ、ニャロンより押し戻される【GOL:222】
 --[7月]チベット軍、1919年以来チベットが占めていたデゲを失う【GOL:222】
 --[8月]ダライラマ、中国との調停をイギリスに依頼。ワイア(J.L.K.Weir)をラサに招聘【GOL:222】
 --[10月9日 チベット暦8月10日]ダライラマ、シッキム政務官ワイアの勧めにより、パンチェンラマに帰還を求める手紙を送付【GOL:255-256】
 --[10月10日]劉文輝とチベット(唐柯三とキュンラムによる策定)との間に、停戦協定成立。揚子江が中国とチベットの境界とされ、チベットはデゲを失うことに【GOL:223、231】
 --[10月25-29日]パンチェンラマ、北京紫禁城太和殿にて時輪の大灌頂を行う【丹珠1998:644-645】
 --チベット軍、チャムドまで押し返され金沙江以東を失い、翌年両軍と講和【山口1988:xiv】
 --四川省劉文輝軍と休戦【ダライラマ1989:417】
 --青海省馬歩芳軍と交戦【ダライラマ1989:418】
 --ダライラマ、帰還を条件付で許可するとパンチェンラマに回答【シャカッパ:345】
 --[終わり頃]トンダー連隊、初の演習実施(6ヶ月間、ギャンツェ近くのジャンロにて)【GOL:152】
 +周辺
 --《中国》[1月]上海事変おこる【世界史1993:241】
 --《中国》[3月]「満州国」建国宣言(元清国皇帝溥儀、執政となる)【世界史1993:241】
 +メモ
 --10月25-29日のパンチェンラマ時輪灌頂は、1930年の「パンチェンラマ、北京で数万人を前にシャンバラについて説く【TADA1965:40】」と同じ件である可能性あり。要確認。
 
 **1933 [#s41c8c43]
 +チベット
 --青海・チベット境界線協定調印四川省劉文輝軍と交戦【ダライラマ1989:418】
 --ダライラマ、レティン寺を訪問。この時、占いに関する写本(一説によればさいころも)をレティン・リンポチェに与えたことが、後に摂政選出の際レティンが推される根拠に【GOL:188】
 --[1月26日]パンチェンラマ、チベット帰還に関する協議のための要員をラサに派遣すると、ダライラマに回答【GOL:256】
 --[6月2日]パンチェンラマの代理、ラサに到着し、帰還に関しパンチェンラマの出した条件について国民議会と協議【GOL:256】
 --[6月]馬歩芳との間で停戦(?)協定成立【GOL:223】
 --[夏]ツァロン、1年の休暇を得て所有荘園へ【GOL:165】
 --[11月]パンチェンラマの代理、ラサを離れる【GOL:260】
 --[12月17日 チベット暦10月13日]ダライラマは風邪をひき、それをこじらせて歿した【シャカッパ:335】
 --[12月17日 チベット暦10月30日]ダライラマ没。午後6時30分頃。享年58【GOL:141-142】ダライラマ没【TADA1965:97】
 --[12月17日 チベット暦11月13日((英語版(Daughter of Tibet,Rinchen Dolma Taring,1986,Wisdom Publications)でも確認))]ダライラマ13世が崩御したとの悲しむべきニュースが伝わった【タリン1991:217】
 --[12月]第13世ダライラマ死去【ダライラマ1989:418】
 --ダライラマ13世没【山口1988:xiv】
 --[12月19日?(ダライラマ没後3日目)]内閣と国民議会の会合中にトンタク連隊の兵士全員がノルブリンカ離宮の前でデモを行い、連帯の解散を自ら求めた。内閣はいずれその要求をのむから、今は自分たちの持ち場につくようにと命じた。しかし兵士たちは政府の造幣局周囲の警備を勝手に放棄してラサに戻ってしまった【シャカッパ:340】
 --トンダー連隊の兵士、ルンシャー一派の扇動で集団脱走。連隊解散を内閣に直訴。約1週間後、1000名のうち250名のみ残すことを内閣が決定。後にそれも解散【GOL:174】
 --[12月20日?(ダライラマ没4日後)]国民議会はルンシャルの提案に従って会合をひらき、ダライラマの突然の死について討議した。その結果、ダライラマの病に関して適切な情報を流さなかった理由によりダライラマの私設侍従2名とクンペラーが逮捕された。彼らは、政府に必要な情報を伝えずダライラマに適切な治療法をほどこさなかった罪があるとされた。こうしてクンペラーと2人の侍従はコンポに流された【シャカッパ:340-341】
 --ダライラマ死去後すぐ召集された国民議会拡大幹部会議で尋問を受けることになったクンペーラは、無実の罪をきせられるならいっそ武装蜂起をと考えるが、彼のrtsa ba'i bla maであるプルチョー活仏が制止【CHMO(3):148】
 --[12月21日]内閣等、友好関係を望む内容の決議を中国に打電【GOL:143】
 --[12月21日? チベット暦11月4日]ダライラマの遺体に最後の敬意を表するため、全官吏、三大寺学堂長がノルブリンカのジェンセー宮殿へ【GOL:166-167】
 --[12月21日? チベット暦11月4日]国民議会幹部会議、開催。次の執政者選出をめぐって紛糾【GOL:167】
 --[12月23日]クンペーラよりイギリス(シッキム政務官ベイリー)へ、ダライラマ死去を打電【GOL:166】
 --[12月24日頃? チベット暦11月7日頃]クンペーラの支持者パンダツァン、サンドゥツァンが、行動を起こすよう促したがクンペーラは反応せず【GOL:168】
 --[12月29日]中国が弔問団を送ろうとしていることを受けて、「この件に注意を払ってほしい」と、ルンシャーが密かにイギリスに伝達【GOL:144】
 --ダライラマの寵臣クンペラ(Kunphela)は貴族の子弟千名からなる軍隊(Drong Drak Makhar)を新設、権威をふるっていたが、ダライラマの死後、逮捕されコンポ(Kongpo)に流された【ダライラマ1989:418】
 --[末]チャールズ・ベル、私的にチベットへ。約1年滞在【BELL1946:29】
 --シッキム政務官F.M.ウイリアムソン、ラサヘ【GOL:151】
 +周辺
 +メモ
 
 **1934 [#y854a177]
 +チベット
 --[初め]パンチェンラマ、南京で国民党政府より新しい称号を受ける【GOL:262】
 --[1月2日]チベット政府、イギリスに対し友好関係継続の意思を公式に表明【GOL:143】
 --[1月中旬]ルンシャー、テンパ・ジャヤンとともに内閣改革案を起草。同調者を募り、キチョー・クントゥン結成【GOL:191-192】
 --[1月22日頃 チベット暦11月((閏月か?))10日か11日]セラ、デブンの学堂長と僧侶らがクンペーラ((ダライラマ没後数週間、通常通り閣議などに出席していた【GOL:166】))糾弾を意図する決議案を内閣へ提出。内閣からただちにルンチェンへ。両者ともすぐ案に同意【GOL:170-171】
 --[1月24日頃]くじ引きにより、摂政にレティンを選出【GOL:189】
 --[2月12日頃? チベット暦12月29日]クンペーラとその父親ほか、パーゴー引き回しの上流刑先へ【GOL:176】【CHMO(3):150】
 --[2月16日 チベット暦1月3日]ポタラ宮で占いが行われ、「パンチェンラマはすぐに帰還しないと命が危ない」との結果に。内閣、パンチェンラマに帰還を勧める内容で南京代表部に打電【GOL:260-261】
 --[2月23日 チベット暦1月10日]レティン、摂政就任【GOL:189】
 --ラティン・リムポチェ・ジャムパル・エシェ、摂政となる【ダライラマ1989:418】
 --[3月]カムで対チベット政府反乱を起こしたパンダツァン・トプゲー、政府軍に追われ、中国支配地区のバタン、ポへ敗走【GOL:180】1950年の中国共産党勝利後に帰還【GOL:185】
 --東チベット・マルカムの指導者パンダツァン・トプギェルの乱【ダライラマ1989:418】
 --[3月中旬?]キチョー・クントゥン、主要メンバーであるコントゥ宅に僧官を集め、最初の会合。2日後、俗官を交えて2回目の会合。後日、内閣特にティムンを非難する内容を含む、内閣宛ての嘆願書を作成【GOL:193-196】
 --[3月25日 甲戌年チベット暦2月10日]内閣、在インドパンダツァン家資産凍結の要求をインド政府に提出するよう、シッキム政務官に依頼【GOL:181】
 --[4月10日 チベット暦2月22日]馬歩芳がある僧院間にしかけた紛争に、チベット軍が派遣・介入した結果、中国領土内のナンチェン・テツァゴンにおいて馬歩芳との間に条約調印。戦闘開始前のチベット・中国国境を回復・遵守【シャカッパ:333-334】
 --[4月]13世ダライラマの葬儀に際し、中国政府、代表団を派遣、黄慕松ラサ到着【ダライラマ1989:418】
 --[4月]中国の弔問団派遣を知り、イギリスは中国の動向監視のため、シッキム生まれの官吏ノルブ・トンドゥプをラサに派遣【GOL:226】
 --[5月9日]カプシューパ・チューゲー・ニマ、翌10日に内閣改革の嘆願書を内閣に出すというルンシャーの計画を、ティムンに密告【GOL:199】
 --[5月10日 チベット暦3月27日]ティムン、大勢の召使、護衛とともにデプン寺へ避難。内閣はルンシャーの抵抗に備えて、軍隊を動員。ルンチェンのランドゥン、宗務・財務長官会議へルンシャーを召喚し、逮捕【GOL:199-201】
 --[5月11日か12日]キチョー・クントゥンの中枢部、ルンシャー救出を決定。デプン寺ゴマン学堂とセラ寺メー学堂の支援確保【GOL:203】
 --[5月12日か13日]僧侶の一団がルンシャー釈放を求めるが、ルンチェンが拒否【GOL:203】
 --[5月13日か14日]ルンシャーの息子を中心とする一団、牢獄への突入を計画するが、実現せず【GOL:203】
 --[5月14日か15日]ルンシャーの息子であるラルとチャパ、逮捕。sog sde pa dkon mchogらルンシャー支持の僧侶は、寺院が引渡しを拒否したため、逮捕されず【GOL:204】
 --[5月20日 チベット暦4月8日]ルンシャーの刑執行【GOL:208】
 --[5月22日]パンチェンラマ、内閣や議会が条件をのまない限り、帰還しないと回答【GOL:261】
 --[5月24日]巫明遠、中国弔問団の先遣隊を率いラサ到着。弔問団長黄慕松の歓迎方法につき、チベット側と協議【GOL:225-226】
 --[5月]ツァロン、1年の休暇を終えラサ帰還【GOL:165】
 --[8月18日]カプシューパ釈放【GOL:209】
 --[8月]チベット入国を狙う中国が、故ダライラマに供物を捧げ弔意を表すための弔問団派遣許可を求めてきた。宗教上の使節団ということで拒絶できず、黄慕松将軍一行がラサ到着。同時に、インド政府派遣の弔問団(シッキム政務官ライ・バハドゥル・ノルブ・トゥンドゥプ)も到着【シャカッパ:342】
 --[8月28日]80名ほどからなる黄慕松弔問団、ラサ着。政治問題には触れず、寺院参拝、僧侶への布施などを行う。無線使用をチベット政府が許可【GOL:228-229】
 --[9月17日]黄慕松、ティムンやメンチュンら内閣のメンバーとの間で中蔵関係に関し協議【CHMO(5):146】【GOL:230】
 --[10月17日]チベット国民議会、黄慕松の求めにより今後の中蔵関係を協議した結果、中国の要求(チベットが新中国に加わること)を受け入れない旨、黄慕松に通知【GOL:232-233】
 --[11月27日]黄慕松、離蔵をチベット側に通知。無線機とその取扱者をラサに残すことを、チベットに認めさせた(中国人の公式なラサ駐在は1912年以来)【GOL:241、245】
 --[末]ダライラマの死とクンペラー逮捕の報せを受けた、クンペラー支持者でマルカム義勇軍司令官トプギャル・パンダツァンが軍を召集し、国境線守備の政府軍(将軍ノルナン)を襲撃。マルカムを占領。数か月後、政府軍により撃破、中国占領下のバへ敗走。中国側は将来の政治利用の可能性からトプギャルが領内に残ることを許可【シャカッパ:343】
 --[末]パンチェンラマ、ダライラマの死により内閣らの態度の軟化を確信し、帰還に関する前年と同じ条件とともに代理をラサに派遣【GOL:263】
 --黄慕松、13世に「護国弘化広慈円覚大師」の諡を送る。チベット政府に対し、(1)チベットは中国の一部となること、(2)チベットの国防には中国中央政府軍があたる、(3)中国弁務官をラサに駐在させることを提案、チベット政府側は1914年のシムラ協定を中国政府が承認すること、占拠した東部チベット領を返還すること、パンチェンラマが中国側の護衛軍なしで帰るなら帰国を許すと返答。会談継続のため中国側連絡員2名残留。これが1912年以後、チベットに駐在した最初の漢人役人である。彼らは後日、蒙蔵委員会駐蔵代表部を名乗る【ダライラマ1989:418】
 --ラッサ政府、中華民国連絡官の駐在を認める【山口1988:xiv】
 --ラッサ版カンギュル開版【山口1988:xiv】
 --中国共産軍、大長征の途中東チベットの一部を通過【ダライラマ1989:418】紅軍10万が長征でホルコク、バ、リタンなどを通過。チベット政府、侵入状況調査のため軍隊派遣。その結果、中国兵は進路を中国の北西に変更【シャカッパ:343-344】
 +周辺
 --《中国》[3月]「満州国」に帝政実施(溥儀、皇帝となる)【世界史1993:241】
 --《中国》[10月]共産党の長征(-1936年10月)【世界史1993:241】
 +メモ
 --パンダツァン・トプゲーの反乱について、【GOL】と【シャカッパ】の記述に時期のずれがある。1934年末にダライラマの死とクンペラー逮捕の報せがパンダツァンに届いたと、シャカッパは記すが、時間の隔たりが大きすぎるのでは? 他の資料を確認してから修正 6/17。
 --黄慕松のラサ到着時期について、【GOL】【シャカッパ】と【ダライラマ1989】との間でずれがある。
 --9月16日の黄慕松とチベット内閣の協議について、【GOL:230】は【CHMO(5):146】を引いて「9月17日」としているが、引用時の間違いと思われる。

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