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[GC_BBS*] の変更点


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 GCの話題専用の掲示板です。
 
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 これまでのスレッドはこんなかんじです
 
 #contents
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 **『インド聖地巡礼ガイド』 [#k58ce2d9]
 >[[dekipema]] (2005-01-14 (金) 12:33:59)~
 ~
 [[インド聖地巡礼ガイド:http://nakanishi.minpaku.ac.jp/search.jsp?pre_proc=chizu&area=%e6%9d%b1%e3%82%a2%e3%82%b8%e3%82%a2&letter=%e3%83%81%e3%83%99%e3%83%83%e3%83%88%e6%96%87%e5%ad%97&type=*&page=4&BACK=http://www.minpaku.ac.jp/database.html]]、民博の中西コレクションにもあるそうです。気づいたので、報告まで。~
 
 //
 
 **Latseの雑誌2004年秋号が出てた! [#df3f02b3]
 >[[chime]] (2005-01-12 (水) 19:58:31)~
 ~
 [[ここから閲覧・ダウンロードできます:http://www.latse.org/newsletter/2004vol2num1/index.html]]。GC特集よ〜。ファンはpdfゲットすべし!あたしはこれから見るところ。うひゃーどきどき。直筆の絵もカラーで拝めるわよ〜。~
 
 //
 -GC国際会議の様子が,しばらく後には[[Latseのホームページ:http://www.latse.org/]]でvideoで配信される予定だそうです。こりゃあ楽しみだ。 -- [[chime]] &new{2005-01-13 (木) 19:27:51};
 **馬歩芳の秘書? [#gcb15995]
 >[[chime]] (2005-01-06 (木) 09:36:09)~
 ~
 rdo rje rgyalのGC伝を読んでいたら,アムドを出てラサに行った理由として,馬歩芳の秘書にさせられそうになったから,という証言をしている人がいると書かれていました。信憑性はどうなんだろう。~
 
 //
 -馬歩芳だったら、「辰郎」くんが何か知っているか。聞いてみます。 -- [[dekipema]] &new{2005-01-06 (木) 10:33:39};
 -辰郎情報なし、でした。残念。 -- [[dekipema]] &new{2005-01-06 (木) 21:28:05};
 
 **angry monk [#wab872d0]
 >[[chime]] (2005-01-04 (火) 14:36:50)~
 ~
 GCの映画,[[angry monk:http://www.angrymonk.ch/current_project/]]が2005年の国際映画祭に出品されることになるようです(4月のニヨンか8月のロカルノのいずれかのもよう)。今年中には欧米各地で上映されることになる予定のようです。日本の配給会社は動いてないのでしょうかねぇ。ぜひとも見たい!新しいスチール10枚がangry monkのホームページで公開されていますのでご覧下さい。~
 
 //
 -どれくらい史実が再現されているのか、とても興味があります。現地ロケをしているようなので、映像的にも期待できますね。国際映画祭で受賞でもしないと、日本での公開はむずかしいのかなあ? -- [[dekipema]] &new{2005-01-04 (火) 17:43:14};
 -映画,というかドキュメンタリーといったほうが正確のようです。役者が演じるタイプではないです。~
 話はずれますが,この間チベットに行ったとき,あるチベット人とGCの話題で盛り上がりました。その人は伝記をいろいろ読んでいて,「ゲンドゥンチュンペーのドラマを作りたいとかねがね思ってるんだよね〜」と言ってました。 こんなのも実現されたら面白いのに。-- [[chime]] &new{2005-01-06 (木) 09:30:04};
 **1910-20年代のラプラン [#c0627540]
 >[[chime]] (2004-12-28 (火) 11:46:46)~
 ~
 GCは1926年にアムドを離れ,ラサに向かったのですが,当時GCが勉強していたラプランの地はとても落ち着いて勉強のできる状況ではなかったようですね。orubhatraさんがご紹介くださっているNietupskiのLABRANGによれば,激化する民族間の抗争,盗賊団の横行,度重なる飢饉,1926年には馬軍閥の軍団がラプランを占拠して僧侶たちに機銃掃射までしたという,とんでもない状況だったようです。~
 
 //
 -1920年代、ガンロ(甘南州)を巡る馬軍閥とチベット人と国民党蘭州政府による三つ巴の抗争については、阿部治平(1998)「チベット族にとって社会主義革命とは何だったか」問題と研究, vol.28, no.3(no.327, 1998/12)の冒頭でも結構詳しく解説されています。本題は、ジャムヤンシェーパ5世の兄ロサンツェワン(黄正清 1903-97)の生涯を追ったもの(+プンツォク・ワンギェルも)。阿部さんの論文はどれも面白い。 -- [[orubhatra]] &new{2004-12-28 (火) 22:44:49};
 -参考文献というかネタ本として、『拉卜蘭寺与黄氏家族』(甘粛民族出版社、1995)という文献が挙げられていますから、当時のガンロの情勢についてはこちらを当たった方が手っ取り早いかもしれません。 -- [[orubhatra]] &new{2004-12-28 (火) 22:45:39};
 -これより時期は少し下がりますが、1935年頃の四川・甘粛・青海紀行に、長征(1938)『中国の西北角』(改造社)というのがありまして、こちらも面白い内容です。当時、甘粛側はかなり落ち着いていたようです(ラブランについては通り一遍の記述があるだけ)が、四川側は悲惨な状況で、どこへ行っても路端に死体が累々、漢族はさもなくばアヘン中毒、山岳部へ入れば山賊だらけ、という有様。1983年に筑摩書房から復刻されていますから、そちらの方が入手しやすいでしょう。個人的にはco ne rgyal po(楊土司)の金満ぶりが興味深かったですね。 -- [[orubhatra]] &new{2004-12-28 (火) 22:46:35};
 -詳しい情報ありがとうございます。ご紹介いただいたものはいずれも面白そうですね。10代〜20代前半のGCが暮らしていた当時のアムドの状況を知るために参考になりそうです。『拉卜蘭寺与黄氏家族』はロサンツェワンの自伝なんですよね。チベット語版も出ていますね。Nietupskiのネタ本もそれのようです。ぜひ読んでみたいものです。 -- [[chime]] &new{2004-12-29 (水) 06:48:14};
 -『中国の西北角』の著者名が間違っていました。長征(誤)→長江(范長江)(正)。失礼しました。 -- [[orubhatra]] &new{2004-12-29 (水) 18:00:17};
 -『拉卜蘭寺与黄氏家族』について勘違いしてました。『甘粛文史資料選集(第三十輯)黄正清与五世嘉木祥』こちらがロサンツェワンのいわゆるオーラルヒストリーです。チベット語版があるのもこちらの本です。間違った情報を流してすみませんでした。 -- [[chime]] &new{2005-01-14 (金) 22:43:20};
 
 **ラブラン寺ネーチュン [#na886a5c]
 >[[orubhatra]] (2004-12-23 (木) 21:31:23)~
 ~
 Paul Kocot Nietupski (1999) LABRANG : A TIBETAN BUDDHIST MONASTERY AT THE CROSSROADS OF FOUR CIVILIZATIONS. Snow Lion Pub., New York. p.20の境内見取り図(1932年頃)によれば、境内の西はずれ、「The Gungtang Stupa」近くに「Nechung Monastery」があります。~
 
 //
 -『LABRANG:李安宅の調査報告』にも、gnas chung 'phrin las rgyal po を祠った寺院に関する記述がありますから、今もあるのでしょう。ただ、神託官(gnas chung sku rten)自体については、これらの文献でもよくわかりませんね。 -- [[orubhatra]] &new{2004-12-23 (木) 21:32:13};
 -Rene De Nebesky-Wojkowitz (1956) ORACLES AND DEMONS OF TIBET p.454によると、pe harの神託官はクンブム寺にもいたようですね。西川一三 『秘境西域八年の潜行』(上)(中公文庫・版) p.339あたりに出てくる巫僧(ゴルトンバー)がそれらしいですが、ネーチュンという名称は出てきませんね。 -- [[orubhatra]] &new{2004-12-23 (木) 21:33:29};
 -pe harは、もともとBhata Hor(甘州ウイグル)の神様でしたから、アムドで信仰が続いていてもおかしくはないのですが、両僧院とも創建年代がかなり下りますから、むしろデプンのネーチュン寺から逆流してきたと考えた方がいいかも知れません。あまり役に立っていないような気がしますが、参考までに。 -- [[orubhatra]] &new{2004-12-23 (木) 21:35:02};
 -これはまたありがたい情報をお寄せいただきましてうれしい限りです。NietupskiのLABRANGは私も持っているんですが,この件では見ようともしなかった...反省。今確認しました。見取り図の一番左端の小さな建物がそれですね。デプンのネーチュン寺からの逆流か,なるほど,そいうことって実際ありそうですよねぇ。うーむ。 -- [[chime]] &new{2004-12-24 (金) 09:15:13};
 **カルプン・パサントゥンドゥプも [#b2cc82c7]
 >[[chime]] (2004-12-22 (水) 10:38:53)~
 ~
 ダライラマにカルを奉納する歌舞団の団長であったこの方も,晩年のGCに弟子入りしていたそうです。文学を教わっていたらしい。60年代から80年代にかけて20年におよぶ獄中生活を余儀なくされたとか。大変なご苦労をされたようです。その後はチベット大学の先生となり,チベット音楽の復興に尽くされ,1998年に亡くなったとのことです。[[CHMO(17)]]にはパサントゥンドゥプ氏による文章が掲載されており,大変参考になります。GCとのことは書いてないけど。~
 ~
 ちなみに,GCとのことが書いてある出典は,The New Grove Dictionary of Music and Musicians (2001年,第2版)の,Gar dpon pa sangs don grubの項です。~
 
 //
 -チベット音楽の研究者でありパフォーマーでもある坪野和子さんのお師匠さまでもあるようですね。 -- [[chime]] &new{2004-12-22 (水) 19:06:00};
 **現在、醗酵中? [#ta90e1cb]
 >[[dekipema]] (2004-12-15 (水) 10:27:01)~
 ~
 関係のみなさま&br; ホルカン著『GC伝』の翻訳第1稿完成、おめでとうございます&おつかれさまでした。&br; 取り組み始めたころは、ほんとに暗がりを手探りで進むような、足場がまるでないような、不安な心持でしたが、どうにか最後まで読み終えることができたんですね~。感無量。&br; ちょっと寝かせて醗酵させて、またこね、さらにこね・・・。”おいしい”のができるとよいです。~
 
 //
 
 **雑誌『西蔵人文地理』 [#ba889a06]
 >[[dekipema]] (2004-12-13 (月) 17:18:37)~
 ~
 東方書店のHPによると、『西蔵人文地理』(隔月刊 西蔵人文地理雑誌社)という雑誌が創刊され(今年7月?)、第1号に「更敦群培:西藏沒有一個人像我!」なる記事が! もしかしてchime研究室にあったかな?~
 船便でも年間3万円近く(書虫では1冊6千円弱)するらしいけど、どこかの図書館に入る望みがあるでしょうか。。。~
 
 //
 -この夏ラサで買ってきましたよ〜。明日のちゅん平会の際にお見せします。ものすごく贅沢なつくりの本です。 -- [[chime]] &new{2004-12-13 (月) 19:41:32};
 
 **Abdul Wahid Radhu [#pc8fea92]
 >[[orubhatra]] (2004-12-04 (土) 20:30:55)~
 ~
 これもどっかで見た名前だと思ったら、Janet Rizvi (1999) TRANS-HIMALAYAN CARAVANS. Oxford Univ. Press で散々見た名前でした。Radhu家はカシミールに出自を持つ商人の子孫で、トゥルキスタンやチベットとの交易で財をなしたArghon(ar gon)の名家です。Kalimpongに行ったとかGCと関係があったことなどははじめて知りました。Radhu家の沿革とかラサへの旅については前掲書にも詳しいので、必要でしたら当たってみる価値はあるでしょう(GCとの関係については出てきませんが)。~
 
 //
 -この人のことは,だいぶ前にISLAM IN TIBETで読んですごく面白いと思ったのです。StoddardがGCと交流のあった人の一人として名前を挙げていたのでもう一度本を見てみたら,GCのことが載っていました。Janet Rizviの本は面白そうですね。ぜひ読んでみます。この方はLadakh: Crossroads of High Asiaという本も書いているのですね。最近,GCとは関係ないですが,チベット音楽(とくにナンマとかトゥシェー)のことを調べているのでラダックやガリーのことはとっても気になっているところです。 -- [[chime]] &new{2004-12-05 (日) 17:18:00};
 -チベットからの視点だけでチベット周縁部を見ていると、チベット系民族・仏教徒のほかにムスリムや少数民族が一緒に住んでいるいることをつい忘れがちですが、彼らの文化や動きもなかなかおもしろいです。Rizviの本は安いわりに詳しいし、入門書としても最適ですね。 -- [[orubhatra]] &new{2004-12-06 (月) 21:24:13};
 **khu nu mthar phyin [#s2dbf18d]
 >[[orubhatra]] (2004-12-04 (土) 20:27:06)~
 ~
 GC Who's Whoに、khu nu mthar phyinという方が現れますが、「ラホール生まれ」にひっかかりました。というのは「khu nu」とはサトレジ川沿いにあるKinnaur地方のチベット名ですから、Lahaul生まれの人が「khu nu ナントカ」と名乗るはずがないのです。~
 
 //
 -John Bray (1992) CHRISTIAN MISSIONARIES ON THE TIBETAN BORDER. Proc. of the 5th Sem. of the IATS, Narita 1989, vol.2, p.369-375, 成田山新勝寺 にちょっとだけ出てきました。「G. Tharchin, another Christian from Poo」だそうです。これに続いて、Kalimpongで新聞発行に参加し1976年に亡くなった旨の記述がありますから、同一人物とみてよいでしょう。Poo=Puh=Pooh(チベット名 spu)というのはサトレジ川とスピティ川合流地点近くにある町で、現Kinnaur県Puh郡の中心地です。 -- [[orubhatra]] &new{2004-12-04 (土) 20:28:11};
 -というわけで、khu nu mthar phyinはLahaul出身ではなく、Kinnaur Puh出身であるのは確実でしょう。では何故Lahaul生まれと誤解されたか考えてみると、モラヴィア教会がらみ(Lahaul Keylong同様、Kinnaur Puhにもモラヴィア教会が1924年まであった)だろうと思われますが、今のところはここまでしかわかりません。 -- [[orubhatra]] &new{2004-12-04 (土) 20:29:10};
 -Kinnaur出身者では、GCと同時代に ne gi bla ma bstan 'dzin rgyal mtshan (1894-1977、没後は khu nu rin po che と呼ばれた)という文法学者がいます。年代的にも行動範囲を見てもGCと接触があっても不思議ではないのですが、微妙にすれ違っているような感じで、彼の評伝を見てもGCは出てきませんでしたね。 -- [[orubhatra]] &new{2004-12-04 (土) 20:29:50};
 -khu nuはキナウル,確かにおっしゃる通り!ありがとうございます。あの辺りの地理に疎いのであまりに気にしていませんでした。修正しておきます。 -- [[chime]] &new{2004-12-05 (日) 16:45:56};
 -テンジンゲンツェンについては,ベナレスでGCと会っているようです。「クヌ・ラマ・テンジンゲンツェンと会った」と伝記にあるので,その人だろうと思います。ネギ・ラマ?ネギは何を指しているのでしょうか。 -- [[chime]] &new{2004-12-05 (日) 17:00:00};
 -Negiとは苗字です。Kinnaurでは、ごく一部の上位/下位カーストを除き、ほとんどすべての人がNegiという苗字。もともとNegiとは軍司令官とか牢の看守などの官職名(チベット語ではない)でしたが、いつの間にかKinnauriという民族カーストを表す苗字として使われるようになりました。チベット系の人もみんなNegiさんですが、こういったインド風の氏名とは別にチベット風の名も持っています。 -- [[orubhatra]] &new{2004-12-06 (月) 21:20:57};
 -やっぱりkhu nu rin po che(ne gi bla ma)とGCは会っているのですね。さぞオタクな会話で盛り上がったことでしょう。ただ、彼の評伝、Tierry Dodin (1997) NEGI LAMA TENZIN GYALTSEN. in RECENT RESEARCH ON LADAKH 6. Motilal Banarsidass, Delhi によると、khu nu rin po cheがVaranashiに住むようになったのは1949年頃になっています。これだとGCの年表と矛盾しますね。たぶんkhu nu rin po cheの評伝の方が間違っているのでしょう。1945年以前にはすでにVaranashiにいないとおかしいですよね。 -- [[orubhatra]] &new{2004-12-06 (月) 21:21:41};
 -khu nu rin po cheは最近ようやく欧米でも名前が知られてきたようで、その著作も英訳されています(Khunu Rinpoche (1999) VAST AS THE HEAVENS-DEEP AS THE SEA. Wisdom Pub.)。 Khunu Rinpoche2世(Dehra DunのMindrolling寺在籍)は、父はチベット人ですが母はデンマーク人で、デンマーク生まれ。おそらくこの辺の関係で、ヨーロッパでも知られる存在になったものと推察します。 -- [[orubhatra]] &new{2004-12-06 (月) 21:22:20};
 -khu nuは私もひっかかっていましたが、orubhatraさんの書き込みで釈然としました。イシュケとダスの辞典にも(p40・p144)orubhatraさんの情報ほどではないですが、Kunawarと出ています。昔の本にはKinaurやKoonawur、Kanawurなどといった綴りがでてくるのですが、これは単に同じ地方をさしているのでしょうか。それともごく小さい使い分け(地域差など)があるのでしょうか。 -- [[ichhan]] &new{2004-12-07 (火) 10:52:11};
 -ところでorubhatraさん、スピティ(キナウル?)に一時住んでいた(通っていた)島田さんの名を現地で聞いたことがありませんか。時代は1980年代、彼女はチベット仏教を勉強していてアニになるのではと思ったりしたのですが、いつのまにか音信不通になってしまいました。彼女の消息しりませんか。 -- [[ichhan]] &new{2004-12-07 (火) 10:58:55};
 -negiはヒンディー語で結婚式などお祝い(物やお金)を受け取る人(しいてむしりとる乞食のような意味もあるようですが)の意で、そこからネパールの場合は結婚式の行列を楽隊で先導するdamain(仕立て屋カースト)のリーダを指し、カースト名としてネギがあります。ネパールのようにネギがどのカーストに属するのかはわかりませんが、あるカースト名と解釈してよいと思います。もちろん今ではカ-スト名と職種とはまったく同じではありません。今みたらorubhatraさんの書き込みがありましたが、インドとはだいぶん違うみたいですね。ここまで違うと私の解釈は通用しないかもしれません。ちなみにスピティ(キナウル?)出身者のネギ氏が次の分野では有名みたいです([[Link:http://ichhan.hp.infoseek.co.jp/list/himalaya.html#himalayan_forests]])。 -- [[ichhan]] &new{2004-12-07 (火) 11:00:55};
 -タルチン氏の息子さんS.G.Tharchin氏(60歳台)はカリンポンのバザールから少し高台に住んでおられ、Himalayan Childrens Homeという孤児院をなさっておられます(ここ数年あっていませんが、たぶん今も)。彼の奥さんはブータン王家(?:どれくらいの人かは聞きませんでしたが)出身とか。カリンポンにはレプチャ語やリンブー語といった珍しい言語(文字)を出版している(まだ少しは出しているでしょう)Mani Pressというのがあります。一度たずねられるといいでしょう。 -- [[ichhan]] &new{2004-12-07 (火) 11:07:00};
 -ダージリンにはOxford書店があり、20年ほど昔はめずらしい、ほかでは手にはいらないチベット関係などの本が買えました。貧乏旅行者の当時の私ではとても高くて買えませんでしたが、買っておけばよかった。その後多くの本はなくなってしまい(ある古本屋が買い占めたそうです)、残りは蔵書として、数年前には奥の部屋に鎮座していました。見せてほしいと頼めば見せてくれるでしょう。 -- [[ichhan]] &new{2004-12-07 (火) 11:08:22};
 
 **地名カギャとゲンギャ(GC_horkhang_2の注14) [#cbb4dd3b]
 >[[ichhan]] (2004-11-20 (土) 20:23:20)~
 ~
 チベット語のチベット大地図を見ていてゲンギャ(rgan brgya:甘加)を見つけました。タシキル(寺)の約20キロ北方にあるようです(でも、もう場所はわかっているのですか?)。カギャ(kha gya:■(qia=ka:上と下の文字を上下に合体した形)加)は昔の甘加六郡(rgyan gya 'tsho drug)のひとつの■加部落(kha gya tsho baにあたるようです(これらの説明と文字転写は『甘粛蔵族部落的社会与歴史研究』p146-7[[Link:http://ichhan.hp.infoseek.co.jp/list/tibetc1.html#zouzoku_buraku]]より)。
 
 //
 -(つづき)もっと昔は甘家寨(rgyan gya、現甘加郷)、kha gya smad(下哈家寨、現■加曼郷)、 kha gya stod(上哈家寨、現■加道郷か?)(上記本p130)と書かれたようです。いま夏河県の地図がなく詳細は不明ですが、今の夏河県甘加郷、■加曼郷、■加道郷(『甘粛少数民族地方』p214[[Link:http://ichhan.hp.infoseek.co.jp/list/minorityc2.html#kanshuku_minzoku]])ではないかと思います。夏河は蔵語"bsang chu:桑曲(河)"。~ -- [[ichhan]] &new{2004-11-20 (土) 20:27:38};
 
 **skyi'i ra sa thang(horkhang-4の注14)について  [#lde917d0]
 >[[ichhan]] (2004-11-18 (木) 20:41:37)~
 ~
 「新編蔵文字典(蔵文)」p43([[Link:http://ichhan.hp.infoseek.co.jp/list/tibett2.html#zoubun_jiten]])にskyiがのっています。このskyiは語義④でrlung ldang baをskyi ldangと言うとあるので、skyiをこのskyi ldang baと解釈できるのでは。skyi ldangはあまり辞書にはのっていないようですが(skyi ldang baで、格西曲札蔵文辞典,Roerich,Rahul Sankrityana:英語綴りと語末のa音については、また書くつもりです:の3つを見つけました)、rlung 'tshubと同じとなってます。それでskyi'i ra sa thangを「狂風の(=荒れ狂う)ラサの地」(中国語では「狂風」は暴風の意味のようです)と解釈できるのではないかと思います。GCとその周りに起こった旧チベット政府内のゴタゴタはまさに(意訳して)「戌の年に王が狂乱のラサの獄中からつかわした書簡」(この書簡についてもそのうち書いてみるつもりです)云々と訳するのはどうでしょうか。~
 
 //
 -ご指摘ありがとうございます。ここはもう少し調べようと思いつつ,ほったらかしにしていました。この機会に調べてみたところ,skyiはキチュ河流域を指す地名のようです。 -- [[chime]] &new{2004-11-19 (金) 08:52:58};
 -GCがインドでフランスの学者バコーに会ったときに見た敦煌文書は,ペリオの1286〜1288番だったと考えられるのですが,そこにはskyiがいくつも出てきて,例えばキチュを指している単語としてskyi cuというのも出てきたりします。「ツェンポ・ティソンツェンがskyiの国に赴かれた」などの表現もあります。skyi'i ra sa thangはそういうわけで,「キの国のラサの地」ということかなと思っています。 -- [[chime]] &new{2004-11-19 (金) 08:53:15};
 -ちなみに今はキチュをskyid chuと綴りますが,後から「幸せな」などの意味を持つskyid poのskyidをつかって「地名変更」したのかも!? -- [[chime]] &new{2004-11-19 (金) 08:55:54};
 -skyiにはご指摘の通り「風」という意味があって,敦煌文書の他のものにはskyi bserという単語が出てきまして,その場合はまさに「風」という訳がぴったりきます。skyiが古代の地名とすると,「風」という意味は関係してくるのでしょうかね。風の谷の...なんてね。いいじゃなーい。 -- [[chime]] &new{2004-11-19 (金) 08:57:48};
 -トゥンカル大辞典のskyid chuの項目の後半に「古文書の多くにはskyi chuと書かれています。他にも,『ディクンからチュシューまでの地はラサという名がつく以前はskyi(キ)という氏族名で呼ばれていて,そこを流れる川がskyi chu(キチュ)と呼ばれた』という話がなにかの古い文献に書かれていました。文献の名前は忘れちゃったけれど。」と書いてありました。さすがトゥンカル・リンポチェ! -- [[chime]] &new{2004-11-19 (金) 09:21:04};
 -そうでしたか。語尾のdの有る無しはよくある話なのでskyid chuかなとも思ったのですが、古典も読んだことのない私にはキの国にまでには頭がまわりませんでした。skyid chuと考えると文章があわないので、それでその疑問はとばしてしまい、色々辞典を調べたのです。やっぱり気になれば(ならなくとも)トゥンカル大辞典は読まなければなりませんね。ところでこのskyiを調べていて、「あれっ」と思ったことがあったので、書いてみます。skyi'i ra sa thangを「キの国のラサの地」と訳せるチベット語であると考えると、なぜわざわざこれらの古語であるskyiやra saを使ってこの文章は書かれているのでしょうか。ここはふつう(skyi'i )lha sa'i sa chaくらいに書いてもよさそうな文章ではないでしょうか。たしかに著者は古語の知識もあり、古語を書きなれているとしても「キの国のラサの地」を表わすのに古語を使ったり、わざわざ「地」(sa cha)のかわりに「平原」(thang)を使うのは少しおかしいのではないでしょうか。それともラサをthangと結びつけるほどの根拠がどこかにあるのでしょうか。私はthangと聞けばチャンタンなどをつい思ってしまいます。つまりなぜここで日常語でなく、わざわざ古語(skyi、ra sa)や、sa chaではなくthangを使って文章は書かれたのでしょうか。こんな風に考えてくると、ここはやはり「荒れ狂うラサの地」を意味しうるskyi'i ra sa thangでなければならないのではと思えてきます。なぜなら無辜の(咎のない)ra(山羊→羊)はskyi(暴風→荒れ狂う)thang(ラサの地)にいるのですから。この憶測を成立させるには「羊」(←山羊)は「弱いもの」という考えがなければなりませんが、チベット人はキリスト教にみられるような「羊は弱々しい」という考えがあるのでしょうか。それはともあれこんな考えはどんなものでしょうか。調べていて、こんな考えを思いついたものですから。 -- [[ichhan]] &new{2004-11-19 (金) 17:50:30};
 -ichhanさん,投稿の文章がちょっと長すぎるので,五,六行以上になる場合には,新しい投稿として書き込んでいただけるとありがたいのですが。そうすると話題ごとに箇条書きのようになります。よろしくお願いします。 -- [[chime]] &new{2004-11-19 (金) 19:15:17};
 -GCは古語の知識があるからこのような文体で書いたわけではないのです。志半ばにして断念せざるを得なかった『白史』の執筆,不条理な投獄,これまでに積み重ねてきた研鑽,この世の無常,さまざまな思いをこの詩に託していると考えられます。敦煌文書や碑文の研究を通じてチベットの伝統的な古代史を塗り替えるような発見をしたGCとしてはこういうふうに書きたかったのだと思います。 -- [[chime]] &new{2004-11-19 (金) 19:25:25};
 -skyiは必ずしも『暴風」を指すわけではないと思います。ご指摘の新編蔵文辞典や格西曲札蔵文辞典を見ても,単に「風」と書かれていますよね。 -- [[chime]] &new{2004-11-19 (金) 19:27:50};
 -段落で切りたいと思っていたのですが、どうしていいかわからず困っていました。いわれてみれば新規投稿にすればよかったんですね。これから気をつけます。 -- [[ichhan]] &new{2004-11-20 (土) 04:11:59};
 -skyiそのものに「暴風」の意味はなく単に「風」の意味でしたが、skyiの意味をさがしていてskyi ldang baを見つけ、それには「風」だけでなく「暴風」(やwhirlwind:by roerich)の意味もそれぞれの辞書にあったので、つい、というかGCの不条理な投獄に重ねあわせたために、間違ってしまいました。でもこのような状況の中にいたGCはなぜラサを書こうとしてskyiという言葉を思いついたのでしょうか。skyiを思いつけばskyi'i ra sa thangは自然と思うのですが、キの国はGCのなかでラサとどのようにつながったのでしょうか。キの国の伝承がGCの不条理な状況とつながってでもいるのでしょうか。 -- [[ichhan]] &new{2004-11-20 (土) 04:14:04};
 -ldang baはlang ba とおそらく同源の「起こる」という意味の動詞なので,skyi ldang baは「風が起こる」となりますね。強いも弱いもあるんではないかなと思います。-- [[chime]] &new{2004-11-20 (土) 07:09:42};
 -ichhanさんはskyi=狂風と考えたいのですよね。それも一つの解釈かもしれませんが,私は慎重派なのでその辺は想像に留めたいと思ってます。GCにとっては「skyiを思いつく」も何も,前にも書いたようにskyi lungがキチュ河流域を指す名称だと知っていたはずで,さらにこの詩では自分を古代の王になぞらえているので,自分のいる場所を当時の呼称で表したということくらいは言って良いでしょう。 -- [[chime]] &new{2004-11-20 (土) 08:18:25};
 -そうですね。書かれているように、GCが自分を「王」となぞらえたので、その当時の呼称「キの国」を使ったみるのが自然な、正しい解釈でしょうね。でもせっかく見つけたアイディです。つぎのように生かすことはできないでしょうか。読む人が読めば(GCのまわりの、GCの悲運をともに嘆くチベット人なら)獄中で書かれた詩を読み進んできたあとskyi'i rasa thangの言葉をよめば、「キの国のラサの地」というイメージとともに、「荒れ狂うラサの地にとらわれているGC」を思いださないでしょうか。つまりここでGCはskyi'i rasa thangの言葉をかりて自分の悲運さを書いたのではないか、skyiを暗喩に使ったのではないでしょうか。まだ懲りないのね、といわれそうですが。 -- [[ichhan]] &new{2004-11-21 (日) 06:59:53};
 -skyi(風)をskyi ldan ba(暴風)の意味に解釈すると(skyi→skyi ldan baと置き換えていいかどうかも考えずに)、うまく文章がつづくと考えてばかりいたのですっかり考えることを忘れていました。「skyi langとskyi ldanには風の強弱の違いがあるのでは」というコメントで、この添前詞(ldanの-l)が再添後詞のda drag po(-d)と同じものということを思い出しました。skyi langの強調形(skyiとlangの間の-d(←-da-))がskyi ldanになったと考えると、skyi ldan baに(「風」の強調→)「暴風」の意味があることをうまく説明できるでしょう。この強調の-dは日本語の「ドあほ」([[例:「たんこぶ」:http://www.biwa.ne.jp/~ichhan-j/pioneer.htm#tankobu]])に見られます。より詳しくはいずれHP([[「日本語の起源」:http://www.biwa.ne.jp/~ichhan-j/index.htm]])にのせましょう。 -- [[ichhan]] &new{2004-11-21 (日) 07:03:09};
 **'jur rta(horkhang-3の注22)について [#f016a7d7]
 >[[ichhan]] (2004-11-18 (木) 14:41:56)~
 ~
 'jur rtaはベルの「English-Tibetan Colloquial Dictionary」(Bell,1977(rep.))[[Link:http://ichhan.hp.infoseek.co.jp/list/tibete1.html#colloquial_dictionary]]の辞典ではbootとshoe(ともにEuropean style)の訳語として、'ju taがのっています。この'ju taはヒンディー(juuta,ネパール語でjutta)からの借用語で、草履のような足先を見せるものではなく、運動靴のような(ブーツも含みますが)靴をさします。私がカトマンズにはじめて行った1979年当時は裸足の人が多く、チャッパル(ビニ-ル製ぞうり)をはいている人も少なかったものです。だから当然ですが、'ju taをはいている人は皆無で、政府役人なら課長・部長級の人だったでしょう。、これはカトマンズの街中(浅草や新宿といったところ)でこのような状態でしたから、GCの時代、また経済状態からしてGCがはいていた'ju taはインド製のボロボロの運動靴のようなものではなかったかと思います。だからそのような短靴('ju ta)ではだめで、lham shol tse(中国製の靴)に履きかえたのではないでしょうか。~
 
 //
 -当時のカトマンズの印象で先の記事を書いたのですが、ダージリンなどに出向いているので、'ju taはイギリス製の革靴だったのかもしれませんね。でも擦り切れていたのでしょう。それにしてもlham( khog)でなく、わざわざlham shol tseといっているので、この中国製と思われる靴はどんな靴だったのでしょうか -- [[ichhan]] &new{2004-11-19 (金) 05:28:05};
 **奥書の干支ですが [#na7aae42]
 >[[ichhan]] (2004-11-18 (木) 08:30:07)~
 ~
 初出の「西蔵研究」p31を見たのですが、原稿にまとめたのはrab rgyal sa pho sprel(spyi lo 1980)とありました。その原文と訳文の干支が違っていますが、西暦が正しいのですよね。ちなみにsa pho sprel(戊申:1968),shing pho sprel(甲申の年:1944),lcags pho sprel(庚申:1980)です。壬戌の年(西暦1982年)のほうは問題ありません。~
 
 //
 -ご指摘ありがとうございます。確認しようと思いながらそのままにしていました。lcagsをsaと間違えているのですね。了解しました。やはり簡単に参照できるものが欲しいですね。 -- [[chime]] &new{2004-11-18 (木) 09:18:39};
 -初出の原文sa pho sprelの訳文が訂正してありませんでしたので直しました。またlcags pho sprelの直訳もいれておきました。でも初版本はshing pho sprelだったことなんてないですよね。 -- [[ichhan]] &new{2004-11-18 (木) 13:28:51};
 
 **こんなところに [#af29adfc]
 >[[dekipema]] (2004-11-13 (土) 10:54:06)~
 ~
 「シルクロード通信」復刊第9号(199?年12月1日)にサンポ・テンジン・トゥンドゥプの「インド寺院巡りの旅」と題するエッセーが載っています(八巻さん訳)。そこに「彼は贋の百両紙幣を使うような人では絶対ない」等、GCについての記事があります。サンポの自伝でも触れているとのこと、同じ内容かもしれませんが。~
 
 //
 -おお,そういえばそうでした。[[GC_関係書目]]のところに挙げておきます。自伝の一部を訳出したものなんですよ。昔シルクロード文化研究所のチベット語講座でサンポの自伝を読んでいたことがあるのです。その成果かな。 -- [[chime]] &new{2004-11-14 (日) 17:55:54};
 
 **stod ga zha 'phags pa rin po che [#tfed6f39]
 >[[chime]] (2004-11-01 (月) 18:33:05)~
 ~
 ホルカン版GC伝の第3章[[GC_horkhang_3_MO]]に出てくるこの名称がずっと分からなかったんですが,どうもga zhaというのがインドのラホールを指しているのではないかという気がします。ラホールのことをチベット人はガルシャ・カンドリンと言うらしいのです。この線で調べてみる価値ありそうです。~
 
 //
 -ガルシャ・カンドリンっていうのはあなたが【DUNG DKAR02:492】をひいてstod mnga' ris skor gsumのgar zha地区mkha' 'gro'i glingの小村のことを考えられたのですね。イシュケの辞典(p67)をみてみるとgar zhaはGCも滞在したクルからマナリを越えたところのラフール地区で、そのKyelang村に1857年教会が設立されています。ところでまたカンドリンには前出のDUNG DKARによると、gar zhwaのthugs rje chen po(=spyan ras gzigs【蔵漢:1165-6】)というspyan ras gzigs(=Avalokitesvara,観音菩薩)の塑像があったようですね。そしてイシュケ(p353)を見ると'phags paは特にAvalokitesvaraをさし、西チベットではChamba地区のTriloknathで神権をもつ人(このoneは人でいいんでしょうか)とのことで、これらのことをつなぎ合わせると、GCはラフールの観音菩薩像のあるカンドリン(Triloknath?にあるお寺)でパクパ・リンポチェにあったと考えられるのでは。本文(未見)はパクパ・リンポチェの塑像を拝んだとあるのでパクパ・リンポチェ本人とあったというのはおかしいのですが。最初(前出DUNG DKAR)ではgar zhaとgar zhwaの二種のつづりがあったので一方が誤植かなと思ったのですが、レーリッヒの辞書(2巻p31)[[Link:http://ichhan.hp.infoseek.co.jp/list/tibety.html#roerich]]にはgar zhwa baはgar zha ba(native of Lahul)と同じとあったので、gar zhwaが旧綴り(古代音)でgar zhaが当時の音であったといえるでしょう。またga zhaとgar zhaの違いはゾンカ[[Link:http://ichhan.hp.infoseek.co.jp/list/bhutan.html#dzongkha]]にも例(同書p54:dkarp(発音はka:p)、チベット語のdkar po白色)があり、現地名の綴りをよく知らない筆者が長音(か半長音)であるgar zhaをga zha(rin po che)と写したのではないでしょうか。地図を見るとKyelangはラフール地区で、Triloknathはチャンバ地区(前出イシュケより)ですがラフールとの境界近くのようです。英領インド時代のそこらあたりはグリエルソンの本によると、Chamba-Lahuliという言語が話されていたので(ここは記憶で書いています)、カンドリンをTriloknathに比定できるのではないでしょうか。このTriloknathの現地音や観音菩薩像があったかどうかなどの記録が古い本にあるといいんですが(いま著作権がきれ、インドから続々とリプリント版がでています)。私はマナリまでしか行ったことがないのですが、この奥のラフール地区のKyelangではヒマラヤ諸語のBunan語が話されているなど珍しい言語([[Link:http://ichhan.hp.infoseek.co.jp/list/himalaya.html#h.p_languages1]])がいろいろあります。こんな風に考えると、ga zhaをインドヒマラヤ地域ラホールのガルシャに、カンドリンはKyelangのすぐ近くのTriloknathと考えられるのではないでしょうか。 -- [[ichhan]] &new{2004-11-02 (火) 10:10:20};
 -またまた詳しい情報ありがとうございます。トゥンカル辞書は見ていませんでした。私はただweb検索を試みているうちに行き当たって,そうかもなあと思っただけだったのですが,いろいろ調べて頂きありがとうございました。棚瀬滋郎先生がこのあたりをフィールドワークして本を書いておられますよね。いやあ,ここに書き込みをしてよかったです。ありがとうございます。 -- [[chime]] &new{2004-11-02 (火) 15:22:43};
 -Lahaul Triloknathには、8世紀頃の作といわれる六臂のspyan ras gzigs大理石像が今も本尊として祠られています(ヒンドゥー教徒にとってはシヴァ神像)。Avalokites'vara(spyan ras gzigs)=Padmapani='phags pa Lokes'varaという尊格名の転用はごく一般的ですから、「'phags pa rin po che」とは個人名ではなく、この仏像そのものを指しているとみられます。 Triloknathの首長(Rana)はヒンドゥー教徒で、世俗の支配者+寺院の司祭を兼ねていました(現在はゲルク派僧が管理)。ですから'phags pa rin po cheがTriloknathの主権者であるかのごとき表現をしているのではないかと思われます。この像については他にもいろいろ面白い話がありますが省略。チベット系民族は、この地を「re 'phag」、寺院を「'phags pa dgon pa」と呼んでいます。 -- [[orubhatra]] &new{2004-11-17 (水) 22:54:20};
 -Triloknath周辺(いわゆるChamba Lahaul)は、長らくChamba王国(本拠地はPir-Panjal山脈の向こう)領でしたが、1975年にChamba県からLahaul&Spiti県に移籍しました(Lahaul&Spiti県Udaipur郡)。 -- [[orubhatra]] &new{2004-11-17 (水) 22:55:33};
 -Lahaulのチベット名については、13世紀に文献上で出現して以来「gar zhwa」「gar zha」「ga zha」「dkar zha」「gar sha」などスペルは様々。どれが正しいとは決めがたい。語源は不明で、おそらくチベット語ではないでしょう。単なる音写でしょうから、著者によってスペルがまちまちなのは仕方ない。 -- [[orubhatra]] &new{2004-11-17 (水) 22:56:11};
 -「mkha' 'gro'i gling」はLahaulの異名、というか「LahaulはかつてDakiniが治めていた土地」という説明であって、この名が単独で使われることはまれ。特定の集落などせまい範囲を示す名称ではないです。無理矢理狭い範囲に当てはめるならば、Triloknathの西5kmにあるUdaipur(古名Mrkula/Margul、チベット名はma ru、俗称はgsum mdo)が最も相応しい(こういった適用例は知らないので、個人的には賛成しかねる)。ここにはMrkula Devi Mataというヒンドゥー教寺院があって、Mahis'asurmardini(「Mahis'a=水牛の悪魔」を調伏する女神Durga)のブロンズ像が祠られています。これはチベット仏教徒にとってはrdo rje phag mo(金剛牝豚=Vajravarahi)として崇められています。 -- [[orubhatra]] &new{2004-11-17 (水) 22:56:56};
 -「Bunan(語)」という呼び名は出所不明で、地元ではさっぱり通じません。地元ではKhye lang(ケーロン)周辺を「Gahar」、その言葉を「Gahari」と呼んでいます。この辺の言語に関しても、話題が尽きませんが省略。 -- [[orubhatra]] &new{2004-11-17 (水) 22:57:49};
 -またまた貴重な情報たくさんいただきましてありがとうございます。Triloknathというところにやはり'phags pa rin po cheの大理石像があるのですね。GCはチベットに帰国する前にこの大理石像を拝みに行き,そこで一泊した際,自分を将来を予感させるような夢を見てさめざめと泣いたそうですが,8世紀頃とは案外古いものなのですね。 -- [[chime]] &new{2004-11-17 (水) 23:28:28};
 //-orubhatraさん,ちょっと個人的に伺いたいことがあるので,私宛にメールをいただけないでしょうか?アドレスはこのページの右上のあたりにあります。よろしくお願いします。 -- [[chime]] &new{2004-11-17 (水) 23:31:45};
 -orubhatraさん、詳しい情報ありがとうございます。何しろマナリに行ったのはもう20年以上前のことで、それもそこから先へは行けなかったので、記憶もうろ覚えです。bunan語はグリエルソンの大著で紹介されています。私はマナリで当地の人からbunan語ではなく、kyelong語として紹介されていたので、gahri語の名前は知りませんでした。先に紹介した本([[Link:http://ichhan.hp.infoseek.co.jp/list/himalaya.html#h.p_languages1]])を今見たら、gahri(bunan/punan)語があがっていました。掲示板を見ておられる方には珍しい言語でしょうから、ちょっと引用しておきます。「The linguistic area of Gahri or Bunan(real pronunciation Punan)is the lower Bhaga valley,also known as Gahr valley,situated on both banks or the river Bhaga from its confluence with Chandra at Tandi to north-eastwards for about 25 km.till it meets the boundary of Tod,the dialect of upper Bhaga valley,at Kwaring.Important villages and hamlets falling in the jurisdiction of this dialect are-Biling,Kardang,Kyelang,Guskyar,Yurnad,Gumrang,Barbog,Paspara,Pyukar,Styering,etc.」 -- [[ichhan]] &new{2004-11-18 (木) 08:43:14};
 -Gahar語に関してはD.D. Sharma先生の研究があります。他には百年前のものとかGriesonくらいしかなく、非常に知られていない言語です。自分で調べたところ、基本は「ヒマラヤ諸語(LahaulのTinan語やPattani語、KinnaurのHom-skadなど)を基層にして、チベット語(主はLadakhi)が大量に混入している」といった感じでしたが、それでも周囲の言語とは全然似ていない、起源不明の単語がたくさんありました。 -- [[orubhatra]] &new{2004-11-19 (金) 20:24:47};
 -一説では、Gaharの人々はBaltistanがイスラム化した際(15~17世紀)に逃げてきた仏教徒と言われており、Balti語も入っているのかもしれません。手元にはBalti語のいい資料がないので今のところ比較できませんが。高橋慶治先生がいずれこの辺も解明してくれるでしょう。Gendun Chomphelからはどんどん離れていくので、わけのわからん言語の話はこの辺にしておきましょうか。 -- [[orubhatra]] &new{2004-11-19 (金) 20:25:36};
 -もう少しつきあっていただけませんか。ヒマラヤ諸語(タマン諸語ですが)は以前西さんという研究者がいろいろ論文を書いておられそれを読んだことがありますが、たしかにGahar語(Bunan語だけが特別特殊かはわかりませんが)も起源不明の語が多かったように記憶しています。検索したら高橋氏の論文「キナウル語の記述的研究」『チベット文化域におけるポン教文化の研究」』(pp199-213,1999)をみつけました。読んでみたいので、もしお手持ちならコピーさせていただけないでしょうか。よければ私のほうにメール(アドレスはメンバー室の外部リンクのHPの中にあります)下さいませんか。 -- [[ichhan]] &new{2004-11-20 (土) 04:17:49};
 -ゾクチェン研究所のセム2号を入手したんですが、その連載2回目(著者は中沢氏?)であるp2に、「彼がモン・ブムタンを亡命の地に選んだのは、はるか昔からこの土地が、北西インドのラホールと並ぶ「カンドゥ・リン(女神の国)」として有名であり、……」という文章が載っていました。この文章によるとカンドゥ・リンは観音菩薩像があるので有名というだけだけではなさそうですね。ニンマ派、もっと広くチベット人にはよく知られているということなんでしょうか。 -- [[ichhan]] &new{2004-11-26 (金) 11:01:00};
 -Lahaulにはrnying ma paの寺はありません。大半が'brug paの寺です。gu ru rin po che伝説はいくつかありますが、ここではなんといってもrgod tshang paの伝説がたくさん残っています。13世紀にLahaulを訪れたrgod tshang paやo rgyan paはstod 'brugの系統ですが、今ある'brug paの寺は全部ブータンのlho 'brugの末寺です。lho 'brug paが17世紀にここで布教を始めたのは、ichhanさんが書かれたような事情もあったのでしょうね。なるほど。 -- [[orubhatra]] &new{2004-11-27 (土) 15:56:34};
 -最近では、rtogs ldan ma bstan 'dzin dpal mo(イギリス人尼僧)が長年隠遁修行した地として、ヨーロッパ人尼僧に人気の修行場になっています。なぜか今ごろmkha' 'gro'i glingの名にふさわしい場所になりつつあるようです。 -- [[orubhatra]] &new{2004-11-27 (土) 15:57:50};
 -峠を南に越えたManaliも、'brug paとは関係の深い場所で、stod 'brugとkhamsのrtogs ldan sha'kya shri'双方の法系を継ぐa pho rin po cheの寺があります。それから、ブータン関係者の間ではほとんど禁句になっている、zhabs drung rin po che(ブータン政府非公認)もManaliにお住まいです。とまあ、きりがないのでこの辺で。 -- [[orubhatra]] &new{2004-11-27 (土) 15:58:26};
 -zhabs drung rin po cheは昨年亡くなられたようです。最近チェックしてなかったし、ニュースもほとんど出回ってないので気づきませんでした。失礼。http://www.buddhistnews.tv/current/zhabdrung-100403.php -- [[orubhatra]] &new{2004-11-28 (日) 17:02:56};
 **'gyig gi mi [#zb3874e2]
 >[[chime]] (2004-10-28 (木) 09:26:02)~
 ~
 ああ,やはり本当だったようです。GC逮捕後にワンデンペンバーを家宅捜索したラサ市内監督官二名がGCにそういうものがあると言われて見たところ,布袋の中に折りたたまれたブツがあったと。それは監督官のうちの一人が「裂き,切り」処分したそうでございます。ソースはキルティ・リンポチェの1983年に出たインタビュー集です。詳細に語られております。きっと間違いないんだろうなあ〜。~
 
 //
 
 **ケツンサンポ氏の著作について。 [#mf6a65df]
 >[[ichhan]] (2004-10-28 (木) 00:13:09)~
 ~
 GC伝記類にあるケツンサンポ氏の『Biographical Dictionary of Tibet and Tibetan Buddhism』(Delhi 1973)というのは8冊でているシリーズのなかの一冊なのでしょうか。私がもっているのはシリーズとして出ている第1巻(『The Arhats,Siddhas and Panditas of India』 p1004 1973 LTWA:蔵文rgya gar paN chen rnams kyi rnam thar ngo mtshar padmo'i 'dzum zhal gsar pa)で、もちろんpp.634-657はぜんぜん内容がちがいます。このシリーズは持っているカードによれば7冊ですが、第1巻の英文の序文では8冊となっていました。これらすべてがLTWA出版かはわかりませんが、第1巻はLTWAです。伝記類にのっているのはデリー出版のようですが、このシリーズ本との関係はどうなのでしょうか。昔カトマンズのケツン氏のお寺でこのシリーズ本をみたように思うのですが、記憶ははっきりしません。~
 
 //
 -ご指摘ありがとうございます。[[Library of Congress:http://catalog.loc.gov/]]によるとすでに12冊出ているようですね。このうちのどの巻なのかについては分からないのですが。どなたかもしお分かりの方がいらしたら教えてください。 -- [[chime]] &new{2004-10-28 (木) 09:16:07};
 **愛と欲の諸問題 [#z6d40340]
 >[[chime]] (2004-10-22 (金) 09:23:13)~
 ~
 GCの著作,'dod pa'i bstan bcosを既刊の邦題にならって「愛の書」としていたけれど,先日のちゅん平会で,訳者ご本人から,あれは「愛欲」だよね〜直していいよというお言葉を賜りましたので,「欲」の一文字を付け加えました。出版社が「愛欲」はいやだと駄々をこねたのだそうで。「じゃあ何で翻訳させるのさ」とは訳者の弁。~
 
 //
 **出版に関する提案もどき [#h114a189]
 >[[dekipema]] (2004-10-20 (水) 12:19:34)~
 ~
 生地付近の景色の写真なんてのも、どこかにあるとよいかも。ここで育まれた、みたいなコメント付きで。~
 地図の1つとして、広く足跡をずっとたどれるようなものがあると、いいですね。可能なら、時期を併記して。~
 生家についての情報は、どうでしょう? せっかく訪問した方がいることだし。~
 
 //
 -そうですね。実は昨日,ビデオをコピーさせてくださいませとお願いしたところです。地図の準備をはじめますかね。年譜もおおよそのところが固まってきたところですし。 -- [[chime]] &new{2004-10-20 (水) 12:32:01};
 
 **ドゥンツェスルの黄色い建物 [#l13f9a37]
 >[[chime]] (2004-10-12 (火) 20:05:06)~
 ~
 GCがインドへ行く前に英語を習いに何日か通ったというパーコーのドゥンツェスルの抜歯&薬屋のバブラーの店があった黄色い建物の1991年の写真というのを見つけました。丸くない。普通の形をしている...と思ったら,今のは1994年に建て直された新しいものなんだそうです。[[Link:http://www.tibetheritagefund.org/database/php/showbuilding.php?id=148&idx=0&lidx=8&region=Lhasa&location=Barkor&buildingtype=2+storey+stone]]([[Tibet Heritage Fund:http://www.tibetheritagefund.org/]]のデータベースより)~
 
 //
 **所蔵情報 [#p14fdf2b]
 >[[dekipema]] (2004-10-12 (火) 16:22:31)~
 ~
 またまた、偶然見つけた情報をば。~
 ~
 deb ther dkar po (leh: t.s. tashigang, 1979)~
 ~
 が、東洋文庫の目録に載っていました。ペチャの姿で拝めるのでしょうか?~
 
 //
 -東洋文庫にあるのですね。tbrcによると,101p.と書いてあるので,洋装本じゃないかな。ホルカン家が世に出した木版をもとに再版したと書かれてますね。[[Link:http://www.tbrc.org/cgi-bin/tbrcdatx?do=so&resource=W21560]] -- [[chime]] &new{2004-10-12 (火) 19:24:14};
 -ペチャのリプリントだと,p.で表記することもあるみたいです... -- [[chime]] &new{2004-10-20 (水) 12:33:05};
 **掲載済み? [#vbb530ca]
 >[[dekipema]] (2004-10-12 (火) 15:37:08)~
 ~
 たまたま見つけた情報ですが、どこかにメモメモされているでしょうか?~
 ~
 mkhas dbang dGe 'dun chos 'phel gyi gsar rnyed gsung rtsom by rDo rje rgyal, reviewed by Toni Huber, The Tibet Journal,Winter 2003 Vol. XXVIII no. 4,p. 95, Review Article~
 
 //
 -メモってないです。気づかなかったな〜助かります。dekipemaさんありがとう。 -- [[chime]] &new{2004-10-12 (火) 15:38:36};
 -この書評で取り扱われている本は,香港の天馬というところから出たもので,ホルカン・ソナムペンバー氏が書写して持っていたものをアムドの遺族が引き取って出版したというものですね。 -- [[chime]] &new{2004-10-12 (火) 15:41:12};
 -なるほど、そういう経緯のものなのですか。私たちも、いつかGCの足跡をたどるツアーを敢行し、お宝のひとつも見つけてみたいですねー。 -- [[dekipema]] &new{2004-10-12 (火) 15:53:46};
 -がっくり...私は2002年までのものしか持っていなかった。あ〜あ -- [[chime]] &new{2004-10-14 (木) 09:38:57};
 **アムド乞食の英訳が! [#k4861e61]
 >[[chime]] (2004-09-02 (木) 09:06:19)~
 ~
 Heather Stoddardの''Le Mendiant de l'Amdo''の英訳が出るようです。2003年のGC国際会議上で彼女自身が「2004年にコロンビア大学から英訳が出る」と発表していたそうです。いや〜これはうれしい話ですねえ。~
 
 //
 
 **angry monkの新しいスチール出ました! [#cd30b328]
 >[[chime]] (2004-08-28 (土) 19:31:48)~
 ~
 GCのドキュメンタリー映画を作っている監督さんから新しいスチールができたので見てなよ〜とメールが届きました(ってMLに入ってるだけなんですけど)。~
 http://www.angrymonk.ch/ クリックしてご覧あれ。英国政府の生々しい資料ファイルも。映画は年末までに編集が完了するらしいですよ。楽しみ!~
 
 //
 **18世紀の学者とGC [#q1acb13f]
 >[[chime]] (2004-08-26 (木) 14:34:40)~
 ~
 18世紀の学者について[[チベット人物の蔵]]に「板書」してるんですが,GCの先達が結構いるんだなあとびっくり。二次資料では飽きたらず碑文調査をしたカトー・ツェワンノルブとか,サンスクリットの原典を研究,翻訳し,言語にも強い関心を持っていたスィトゥ・チューキジュンネーは宗派を越えた交流を進め,ネパールにも行き,絵もうまかった。スィトゥとGCの人生をつい重ね合わせてしまいます。~
 
 //
 -なるほど、私たちが知らないだけで、そういうすごい人がチベットにもいたのですね。そういう人に光が当たっていくのは、これからなんでしょう。わくわくします。 -- [[dekipema]] &new{2004-08-26 (木) 15:30:13};
 **ノルブリンカの塀 [#cb1afbe7]
 >[[dekipema]] (2004-08-24 (火) 18:26:13)~
 ~
 [3-03]を読んでいる時、ノルブリンカの構造が話題になりました。GOL:105の最後の段落に、ノルブリンカには門があり、そこからさらに進むとダライラマの居住区を囲む黄色い塀があったらしいことが書かれているのに気づきました。GCがタクターやティチャン・リンポチェに会ったのは、この黄色い壁の中だった、という可能性もあり?~
 
 //
 -なるほど,その可能性は高そうですね。あとは護衛隊がどこにあったかを確定できれば!しかし黄色い壁は「あったらしい」とは今はないという意味ですか? -- [[chime]] &new{2004-08-26 (木) 14:18:26};
 -実際に見た気がするのですが、何しろだいぶん前のことで記憶があやしいのです。yungdrungさんが今回もノルブリンカへ行っただろうと思いますので、今もそれがあるかどうか、確認していただけるとうれしいですね。お~いお~い、yungdrungさ~ん、このページ見てますか~? -- [[dekipema]] &new{2004-08-26 (木) 15:25:42};
 -「黄色い壁」の写真のあるサイトを見つけました。[[Link1:http://www2u.biglobe.ne.jp/~ryuusei/product/tibet/tibet2.htm]] [[Link2:http://www.cyberoz.net/city/sekine/TB-05.htm]] -- [[chime]] &new{2004-08-27 (金) 08:29:36};
 -おお、確かに黄色い壁が。やはり、あったのですね。ああ、うれしい。見つけていただいて、ありがとうございます。護衛隊の場所については未だ不明ですが、トンダー連隊が訓練を行った場所として、ノルブリンカ内のおそらく西南部分、ノルトゥーリンカの名前がGOLにあげられています(p153)。護衛隊がそちらに近い方にあった、という可能性があるかもしれません。それにしても、黄色い壁。よく見つけられたと、感服いたしました。 -- [[dekipema]] &new{2004-08-28 (土) 21:33:44};
 **GC 断片情報 [#u095a1c2]
 >[[dekipema]] (2004-08-23 (月) 15:34:21)~
 ~
 Donald LopezとHeather Stoddard両氏が昨年のThe International Association of Tibetan Studiesで、GCに関係する発表をしたらしい。http://www.wolfson.ox.ac.uk/iats/abstracts.pdfのp250とp393のあたりにあるけど、アブストラクトである。。。~
 
 //
 -Lopezによると世界知識行は1939年,GCスリランカ滞在中に書き上げられたものらしいですね。スリランカでは神智学との出会いもあったとか... -- [[chime]] &new{2004-08-23 (月) 16:30:01};
 
 
 **白史 [#we643b09]
 >[[chime]] (2004-08-04 (水) 09:25:06)~
 ~
 昨日話し合って,白冊としていたのを白史にしました。蔵漢大辞典のdeb therを引くと,歴史書を指すという説明があったのでこれに従いました。そういうわけでwikiのページもみんな修正しました。~
 
 //
 **ターラー菩薩の絵 [#i6d66765]
 >[[chime]] (2004-07-17 (土) 08:46:51)~
 ~
 ラクラ・リンポチェによると,獄中でのGCは自ら描いたターラー菩薩を慰めの友としていた(例の,携帯用のミニ仏像はGCの手元にはなかったという)ということなのですが,どうもそれと思われる絵がElke Hesselの著書の裏表紙に掲載されていました。ラフなタッチですが上品な美しさが感じられます。この絵はだれが持っているのだろう?~
 
 //
 **ウシャン碑文 [#r290dd34]
 >[[chime]] (2004-07-16 (金) 12:54:54)~
 ~
 [[visualtibet:http://www.visualtibet.org]]にそれとおぼしき写真がありました。リチャードソンが撮影しています。Hushangというキーワードでsearchをかけてみてください。写真に写っている部分には文字は刻まれていないように見えますね。~
 
 //
 -確かに絵柄だけのように見えます。 -- [[dekipema]] &new{2004-07-16 (金) 16:10:55};
 
 **ラマガン [#r28512ae]
 >[[chime]] (2004-07-10 (土) 23:35:56)~
 ~
 リチャードソンによれば,カルチュン碑文のあるラマガンは,ラサから南西に向かって約2マイルのキチュの渡しのあるところだそうです。リチャードソンもカルチュン碑文の調査に赴いているのですが,その時に撮った写真かどうかは分かりませんが,ラマガンからチャクポリとポタラ宮を臨む写真がvisualtibet.orgにありました。カルチュン碑文の写真もリチャードソンが撮っていて,これもvisualtibet.orgで見ることができます。小沢さんに見ていただけなくて残念...~
 
 //
 -昔の地名等々を口承によって伝授する方法は、(外国人からすれば?)本当に困ります。形として残してほしいと思うのですが、これが昔ながらのチベット人の手法なのでしょうか?ちなみに、早朝に上記のWEBをdownloadした時、半分だけ見れました。今度はもっと早く起きて、チェックしてみます。 -- [[チベ大学生]] &new{2004-07-13 (火) 08:10:58};
 -visualtibet.orgの写真、一通り見ました。各ページ、写真が表示されるのにずいぶん手間取るのは、先方のデータが重いためでしょうか。でも、いろいろ収穫が。ダライラマの「孔雀大テント」とか。 -- [[dekipema]] &new{2004-07-13 (火) 20:09:54};
 
 **ムティとムティク [#v44343bd]
 >[[chime]] (2004-07-10 (土) 22:43:17)~
 ~
 ティソンデツェン王の4人の息子のうち,長男で夭逝したと言われているのがムティ(mu khri),三男がp.547に出てくるムティク(mu tig),というわけで,すみません,勝手に「ムティ」を「ムティク」に修正しました。本当は「ムティ」のほうが今のラサの発音には近いですよね...~
 しかし,こういう王様の名前をみーんな忘れてしまうのが困ったもの。偉そうに書いていますが,辞書やら本を見ながら「おーそうか」と言いながらメモってる状態です。~
 
 //
 **ウンチャンド [#bcfaa4fa]
 >[[chime]] (2004-07-10 (土) 22:31:47)~
 ~
 ホルカン版GC伝のp.547の,'on cang rdoは,これで地名のようです。シャカバの政治史,およびリチャードソンによる碑文研究書のいずれにもそのように紹介されていました。シャカパの政治史(日本語版)によると,「レーパチェン王は新しい寺を建立するため,熟練した煉瓦工,大工,銀細工師,鍛冶屋などを中国,ネパール,中国領トルキスタンから呼び集めた。ウンチャン・ドイ・ラガンの名で知られるこの寺はキチュ河近く,ラサの南西四十八キロに位置する」(pp.59-60)とありました。~
 
 //
 -リチャードソンの碑文研究書をまた眺めていたら,ラサ近郊にあるzhwa'i lha khangやlcang buの碑文にもウンチャンドという名前が出てくることが分かりました。いずれの綴りも 'on cang doでした。pho brang 'on cang doとか,'on cang gtsug lag khangなどとして出てきます。 -- [[chime]] &new{2004-07-16 (金) 14:33:31};
 **西蔵大学から [#m26ab7ad]
 >[[chime]] (2004-07-10 (土) 16:18:35)~
 ~
 小沢さんが遠隔参加してくださることになりました。ご担当分(p.546の最終行から,p.547の下から二行目gsungs/まで)を既にお送りいただきましたので,[[GC_horkhang_3_MO]]に掲示しました。~
 
 //
 -小沢さんのご参加を、熱烈歓迎!ぜひ息の長いお付合いをお願いします。 -- [[dekipema]] &new{2004-07-10 (土) 22:26:57};
 **カプシューバとの関係 [#pffe1f41]
 >[[chime]] (2004-07-09 (金) 09:08:09)~
 ~
 前回の授業の際には【Tethong】の記述を引いて,カプシューバがいかにGCにひどい仕打ちをしたかという話をしましたが,【Karmay1980:148】には,カプシューバの家の壁に得意の虎の絵をたくさん描いたということが書かれていました。いったいこの二人の間に何が起こったんでしょうね。もう少し調べないと...~
 
 //
 **テンドンでいいらしい [#x731e0fe]
 >[[chime]] (2004-07-08 (木) 10:11:17)~
 ~
 &tib(9,blue){bkras mthong};は第一音節の母音が鼻母音化してテンドンと発音するようです。イギリスの駐在機関がまとめた資料に Tendong と表記されていました。【GOL:180】にも Shape Tendong-nga という表記が見られます。先日来日されたテトン氏の表記がなぜ鼻音化して書かれていないのかというのは,まあ,よくあることというか,二音節語の後の音節の綴り字に前置字&tib(9,black){ma};や&tib(9,black){'a};があると第一音節の母音または子音が鼻音化して発音される傾向があるという話は一般のチベット人は認めたがらないです。「文字にないんだからそんな発音はない!」という主張ですね。実は一度,言い争いになったことが...(アムドの人は大丈夫でしょうけどラサの人がね)~
 
 //
 -やはりそうでしたか。でも、テトンの方が響きがいい。。。丼を思い浮かべてしまう人が、きっといるに違いない(現にひとり)。。。 -- [[dekipema]] &new{2004-07-08 (木) 10:55:15};
 -テトンかテントンにしますかねえ。何かご意見ありますか?ちなみにこの方はスイス在住で今もお元気だそうです。 -- [[chime]] &new{2004-07-12 (月) 19:05:01};
 -最近のローマ字表記,カナ表記などを見て,テトンのほうがいいかなと思い,またテトンに修正しておきました。 -- [[chime]] &new{2004-07-14 (水) 12:06:18};
 -では以降、テトンということですね。テトンとは俺のことかとテンドン言い・・・かな? -- [[dekipema]] &new{2004-07-14 (水) 12:33:10};
 -本日合議により,テントンに決定。 -- [[chime]] &new{2004-08-24 (火) 19:01:31};
 **カルカッタで詠んだ悲しみの歌 [#ub0a637c]
 >[[chime]] (2004-07-07 (水) 18:56:33)~
 ~
 [[GC_horkhang_1]]の[1-04]の詩は,長い長い詩の一部だということが分かりました。カルカッタで生活に困っていたころに([[GC_horkhang_2]]参照)詠んだ詩だそうです。H. Stoddardが例の有名な著書に全訳を載せていましたので参考にしてみたいと思います。~
 
 //
 **ラーフル&ゲンドゥンチュンペー [#i6561fa9]
 >[[chime]] (2004-07-07 (水) 15:02:17)~
 ~
 二人が一緒に写っている写真を見つけました。白黒だからはっきりしませんがラーフルは「黄色い衣をまとった比丘」の出で立ちです。場所は,インドかなあ。H. Stoddard 1985:349の情報により,インドの雑誌サラスワティー1963年11月号のp.437に掲載されていることが分かったのですが,外語大の図書館の蔵書の中にあったので,見ることができました。キャプションにはゲシェラーと紹介されています。~
 
 //
 
 **件のネーチュン様には区別がつかない [#e0420f62]
 >[[chime]] (2004-07-04 (日) 14:22:36)~
 ~
 チベ大学生さん,詳細なご説明ありがとうございました。ダワツェリン先生のお考えをなるほどと思って読みました。特にzha, zaのところは分かりかねておりましたが,後者をGCを指すものとして解釈するとなんだか腑に落ちるような気がしました。先生の解釈を参考にして,kaからsaまでざっと私なりにこんなふうに解釈してみましたがどうでしょうか(詩の全訳ではありません)。bstan gshigはいろいろ考えて,もともとのdekipemaさんの解釈をとり,さらに"仏教の信者が守るべき行動の規範"を守らない者と考えて「破戒者」としてみました。
 ----
 ka: 私が出て行った後,私が生意気なせいでネーチュンに追い出されたのだと噂が立ったが~
 ca: まともな護法神なら,あちこち商売をしてまわる汚い連中こそ追い出すはず~
 ta: [しかし]おかしな格好をして武器を持った連中は追い出されないばかりか増えるばかり~
  &color(green){(まともな護法神ではないからだ)};~
 pa: 私は純白な信仰がないから追い出されたのだと言うがそれならなぜ不浄な有情を追い出さないのか~
 tsa: 本物のネーチュンなら勤勉に修行を積み仏法を学ぶ者たちを理由なく追い出すはずがない~
 zha: [しかし]立派な身なりをした破戒者と[学問はあるが]貧しい破戒者(=私)の違いが件のネーチュン様には分からない~
  &color(green){(まともな護法神ではないからだ)};~
 ra: 学問のある生意気な人間を余所へ追い出すなら肉を売る裕福な連中が満ちあふれることになろう~
 //
 -ようやくこの折句の意味が理解できたような気がします。bstan bshigをどうとるか、チベ大学生さんのご回答をいただいた後も考えあぐんでおりましたが、これで前後の句との流れもスムーズになって、とてもよいと思います。 -- [[dekipema]] &new{2004-07-04 (日) 14:56:47};
 -「破戒者」の訳、形式にこだわらないG.Cの姿が連想できるような、ぴったりの言葉だと思います。ちなみに、チベ大本科の文学の授業でも、この詩は教材として使われています。 -- [[チベ大学生]] &new{2004-07-06 (火) 07:46:09};
 **はじめまして!dekipemaさん [#j994a2be]
 >[[チベ大学生]] (2004-07-04 (日) 12:14:38)~
 ~
 dekipemaさん、はじめまして。御返事ありがとうございます!どうぞ宜しくお願い致します。早速ですが、御返答させて頂きます。~
 1)「各宗派」はゲルク派以外の諸宗派;左記の意味です。~
 2)予習段階では、実は私もdekipemaさんと同様の解読をしていました。見解の違いが生じている原因をご説明致します。~
 ・"bstan bshig"の判断>>1)dekipemaさんは"教えに背くもの" 2)先生は"滑稽な人、他人を笑わせるような人"~
 ・(zha)の"bstan bshig"とは、外見は立派だが滑稽な人 -> 外見だけで知識のないラマ、僧侶~
 ・(za)の"bstan bshig"とは、衣食とも劣っている滑稽な人 -> G.C ;本来は誰よりも多くの経典を学んでいるにも関わらず、("ラプランのおしゃべり好きな僧侶たち"から見れば)たいそう思い上がっている滑稽な人に見えるから。~
 ・('a)の"我々"とは、G.C + G.Cの同窓の修行僧たち + 良識を持った一般の人々 を指す -> 彼らから見れば、(zha)と(za)は、同じではありません。~
 ・(ya);おしゃべり好きな僧侶の見解によるティンレー・ゲーポが見れば、それは同じ。なぜなら、本来のティンレー・ゲーポではない為、善悪の区別がつかない。~
  勉強会の目的は、意見を一つにまとめ、翻訳をなさる事なのでしょうか?ダワ・ツェリン先生にdekipemaさんの見解を申し上げたところ、「そのような捉え方をしても、全く問題ないでしょう。素晴らしい。」との御返答を頂きました。G.Cの作品の特徴は、読者に幾つかの見解を生じさせるパワーがある点です。先生曰く、これが、「mkhas pa yin pa'i rtags mtsan red !!」との事。ですから、上記の見解は、「こういう見解もある」という認識でお取り扱い下さい。そして、これは私の勝手な想像なのですが、G.Cは故意に複数の意味で取れるようにご執筆になられたのではないか?と思います。ファン口調になってしまいますが、例えば、折句の終わりに「サンガ・ダルマ明王」と記載されていますが、ご存じの通り、サンガ = dge, ダルマ = chos となり、サンガ・ダルマ = dge chos => dge 'dun chos 'phel 、つまり、"G.Cより"という解読も出来ます。本当にG.Cという人物は、尋常ではない能力の持ち主だと思います。少々熱く語ってしまい、申し訳ありませんでした。それでは、失礼致します。~
 
 //
 -GCは自分のことをサンガ(=dge 'dun)・ダルマ(chos <'phel>)というサンスクリット名で記すことはときどきやっていたようです。[[GC_script]]をご覧いただくと,そこにも「ダルマという名前の者より」とあります。この詩はインドへ行く前に書いたものということですから,インドへ行く前からサンガ・ダルマをペンネームとして使っていたようですね。この詩でもGCより,という意味で書いていると解釈するべき,と思います。ご指摘いただいた点は注釈に記しておかなくては!ありがとうございます。 -- [[chime]] &new{2004-07-04 (日) 14:52:29};
 -チベ大学生さん~
 詳しい説明をありがとうございます。確かにbstan bzhigには2つの意味がありますね。『エクスプレスチベット語』から入った者としては、とても懐かしいワードでした。~
 それから(zha)~(ya)の部分については、前後とのつながりを考えると、ここもティンレー・ゲーポへの非難的内容である方がふさわしいと思います。~
 ~勉強会の目的は、統一的見解をまとめることではないと思います(よね?>chimeさん)。迷う部分はたいてい皆同じで、多くの場合ある意見に落ち着くのですが、そうでないことがもっとあっていいと思います。「読者に幾つかの見解を生じさせる」G.C.は、そういう意味でも格好の教材(授業でもあるので。。。)ですね。~
 あらためまして、これからもよろしくお願いします。-- [[dekipema]] &new{2004-07-04 (日) 15:03:56};
 **1-03 kho bo [#p91131ad]
 >[[chime]] (2004-07-04 (日) 09:42:15)~
 ~
 kho boが「彼」となっていたのを「私」に修正しました。kho boなら「私」,kho paなら「彼」,だいたいそのように覚えておけばよいかと思います。「私」=GC,ですね。~
 
 //
 -ありがとうございます。全然気づきませんでした。。。 -- [[dekipema]] &new{2004-07-04 (日) 15:35:07};
 
 **詩の注釈について [#ha89f547]
 >[[chime]] (2004-07-03 (土) 12:16:36)~
 ~
 GC伝"tshangs pa'i drang thig"に出てくる詩の注釈ですが,これはこの伝記のオリジナルではなく,ホルカンによるGC伝の初版(西蔵研究掲載のもの)にある注釈の写しです。ホルカン自身による注釈だと我々は考えて,訳にもこれを反映させたつもりだったのですが,このあたりはダワツェリン先生はどのようにお考えになるでしょうか?>チベ大学生さま~ 
 
 >もう一つ付け加えれば,"tshangs pa'i drang thig"は,ホルカンによるGC伝をそのまま「引用」(引用というスタイルをとらずに)している箇所がけっこう多くて,おいおい,いいのかよ〜という感じです。~
 
 //
 -上記の通りお尋ねしたのですが、ダワ・ツェリン先生にとって、さほど重要ではないようで「写しているかもしれないね。ところでドゥンカル・リンポチェの本を読んでいて・・・」という御返答。不十分な御返答で申し訳ございません。ちなみに私は引用ではなく、明らかにコピーしている箇所が多いと思いました。余談:蔵語学の先生のお子様のお誕生日会に先生方が集まった際、dekipemaさんの見解を検討して下さったそうです。先生は、興味のある事には熱いのですが、興味外の事には本当にサッパリで...。 -- [[チベ大学生]] &new{2004-07-06 (火) 07:45:26};
 
 -チベットの方らしいご返答ですね。このあたりはなかなか話がかみ合わないところです。私は控えめに「引用」という表現を使ったのですが,正確に言えばおっしゃるとおりそのままコピペですね。ホルカン版のみならずテトン版の伝記もコピペしています。まあ,テトン版はインドから出ているし,あんなに面白いのにチベットの人は普通には読めなかったわけだから,多少は意味があるかもしれないけれど...んー,すかんなあ。 -- [[chime]] &new{2004-07-06 (火) 08:50:52};
 
 -今さらながらなのですが、例の折句について最初に解釈を示してくれたのは、チベット人留学生です。当初私たちにはお手上げだったので、彼に尋ね、それから日本語を整えたという経緯でした。特にbstan bshigは、完全に彼の解釈を基にしています。「dekipemaの解釈」とは言えないです。チベ大学生さん、ダワ・ツェリン先生、ゴメンナサイ。本当に「今さら」なのですが。。。 -- [[dekipema]] &new{2004-07-07 (水) 05:52:08};
 **ホルカンによるG.C伝記の疑問点について [#j3b79cf8]
 >[[チベ大学生]] (2004-07-01 (木) 16:35:00)~
 ~
  こんにちは。ケーワン・ゲンドゥ・チューペーのファンのチベ大学生です。認識ちゅん平会 のサイトを、私が編集する訳にもいきませんので、こちらのサイトに投稿させて頂きます。~
  (下記の説明は、ダワ・ツェリン先生の説明及び見解である事をご了解の上、ご参考になさって下さい)~
 GC_horkhang_1~
 [1-03] pp.526-527:(ga) 「ネーチュン(ラブラン寺の神託者?)のティンレー・ゲーボ(ネーチュンの5つの姿?性質?のうちの1つ)は~
 ;ラプラン寺にあるネチュン・ティンレー・ゲーボは、各宗派が祀っている護法神の名称~
 ~
 :(ya) 仏陀がご覧になれば、違いはない。~
 ;"mkhas dbang dge 'dun chos 'phel skor la dpyad pa tshangs pa'i drang thig"の本には、[rgyal po]の意味が[sangs rgyas]となっていますが、先生曰く、先に記載されているネチュン・ティンレー・ゲーボの事を指すとのこと。本来の護法神を意味するのではなく、"ラプランのおしゃべり好きな僧侶たち"の見解による護法神を指す。なぜなら、本来の護法神ならば、善人・悪人の判断をなさる事が出来るから。~
 ~
 GC_horkhang_2~
 :担当者の叫び gsum rkang~
 ;"sdeb sbyor byed stangs kyi deb" という事で、サンスクリット上での文字のつなぎ合わせ方の説明書を指す。~
 ~
  それでは、取り急ぎ、ご連絡まで。失礼致します。~
 
 //
 -チベ大学生さん,ダワツェリン先生にいろいろと聞いていただいてどうもありがとうございます!大変ありがたいです。皆にもぜひ伝えます。これからは勉強会のほうでもよろしくお願いしますね!認識ちゅん平会のほうに掲示板を作ったほうがいいかもしれませんね。これから検討します。まずは一言御礼まで。 -- [[chime]] &new{2004-07-01 (木) 18:34:24};
 -チベ大学生さん、はじめまして。dekipemaと申します。よろしくお願いします。
 私の担当箇所へのコメント、ありがとうございます。少し疑問に思う点があるのですが、お尋ねしてよいかどうかわかりませんけども、おわかりになりましたら教えてください。ほかの方もよろしくお願いします。
 ~「各宗派」はゲルク派以外の諸宗派も、という理解でよいでしょうか。
 ~「(ya)仏陀・・・」のところ、「外見の良し悪しにかかわらず、教えに背く者の本質は同じ。仏陀はそれを見抜いている」みたいな理解をしていましたが、ティンレー・ゲーボは、善人=「(zha) きれいな帽子、服、靴を身につけ教えに背く者」、悪人=「(za) 衣食とも劣っていて、教えに背く者」の判断がつかない、ということになるでしょうか。そうすると、3行目が「我々は違いがわかる」ということで、我々と本来の護法神が同列だと言っているようにも読める気がするのですが、どうでしょう?
 ~-- [[dekipema]] &new{2004-07-02 (金) 17:36:51};
 -dekipemaさん、はじめまして。御返事ありがとうございます!どうぞ宜しくお願い致します。早速ですが、御返答させて頂きます。1)「各宗派」はゲルク派以外の諸宗派;左記の意味です。 -- [[チベ大学生]] &new{2004-07-04 (日) 12:06:36};
 **ちゅん平くんの美しい文字 [#f6528e4c]
 >[[chime]] (2004-06-27 (日) 08:08:29)~
 ~
 [[angry monkのサイト:http://www.angrymonk.ch/current_project/]]のトップの右下のほうに,ちゅん平くんの書いた文字が出ています。たしかにバランスがよくて美しい。[[GC_horkhang_1]]の[1-22]をご参照あれ。ちなみに,その上のview the latest film stillsが最新版になったようです。何とか今年中には完成させたいとのことです。~
 
 //
 -本当、美しいですね。カリグラフィーみたいです。 -- [[dekipema]] &new{2004-06-27 (日) 09:12:03};
 

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